9.0 (私)

謹慎生活八日目。今日は熱も下がった零君を連れて自宅から車で20分ほどの位置にある映画館に来ていた。昨日、家にあった三枚のブルーレイを観終わった後、二人してこの最新作が観たくてたまらないという衝動に駆られたのだ。
体調が芳しくない零君を連れていくことに躊躇いはあったが、夕方には熱が引いていたのと咳や鼻炎の症状が見られなかったのもあり、観てすぐに帰ってしまえば問題がないと思うことで妥協した。
人気シリーズなのと公開したばかりなのもあり館内は賑わっていた。夏休みとはすごいもので、私みたいな社会人なんてほとんど皆無で若い世代のきゃぴきゃぴした子達ばかりである。何だか此処に居ることが場違いに思えて心が痛い。

「名前、アナウンスで今1番スクリーンの案内があったぞ」

私よりもはるかに映画を楽しみにしている零君が嬉々とした表情で私の手を引っ張った。どうやら私たちが購入したチケットでの入場が可能になったようだ。わくわくしたままの少年と共にスタッフのお姉さんにチケットを手渡して、目的のスクリーンへと向かった。
昨日のうちに座席の予約をして良かった。お陰様でとても見やすい座席を確保することが出来たのだから。どんどん埋まっていく周りの席を見てより一層そう思った。

「…席、名前が予約してくれたおかげで、すごく観やすそう」

上映までまだ少しだけ時間があるため完全に明かりが落ちきっておらず、そんな薄明りのなかで零君が嬉しそうに口元を緩めて笑う。そんな風に笑ってもらえるだけで満足だと思った。一昨日昨日とこの少年に心の中を掻き乱されたような気もするけれど、この笑顔を見るとそれが吹き飛んでしまう。すっかり私も絆されたということか。

「こんなに観に来るもんなんだね…予約して正解」

すっかり減ってしまった空席に心底そう思い笑い返せば、零君も先程までとおなじ笑みを浮かべたまま頷いた。今までに、こんな長い間穏やかな時間を過ごしたことがあっただろうか。暗転するなかで、ふとそう思った。





「…今回も良作だった…」

エンドロールも終わり徐々に明かりが灯る中、自然と口から零れ落ちた。今回はアクションだけでなく、ちょっとした人間模様も描かれていたのもあり心にじんと来た。目まぐるしく移り変わる激しいアクションと友情と、スパイという仕事の責任の重みと自身の誇りと。私の仕事柄近しいものを感じるのもあるのかもしれない。決して綺麗な仕事ではないが、誇りがある。この映画を面白いと、真剣に見つめる零君になら私そのものを受け止めてもらえると、そう思ってしまった。

「何て言っていいか分からないけど…面白いというか、えっと…」

自分の感想をどう言い表していいのか分からずに眉にしわを寄せる零君。面白いことは面白い、でもそれ以外にもっと伝えたいこともあるのに出てこない。そんな感じだろう。滅多にない少年の反応に思わず声を出して笑えば、じとりとした睨みを返されてしまった。

「ごめんごめん、でもまぁ…言いたいことは分かるから」

具体的にどこが良かったのかと聞かれてしまうと、言いたいことがありすぎて何から話していいか分からない。私はまぁ、あれだよ。大人だもん。それにしても、何でもスマートにこなしてしまう零君なだけに語彙力が無いとは思えない…興奮のあまりボキャ貧になってるとかそんなだろうか。

「さて、では熱が平熱に戻ったとはいえ本調子じゃないだろうから帰ろうか」

「わかった」

ついでに何処かで昼食を済ませてから帰るかと尋ねてみれば、ふるふると首を横に振られた。どうやら家でのご飯を御所望のようだ。近所のスーパーに寄ってから帰らなくては、と考えていた時だった。
視界の端に、昨日の生中継で一瞬映し出された男が横切ったのだ。昨日と違わぬ恰好だった為、すぐに分かった。

「ごめん、零君…ちょっと用事を済ませてくるから…少しの間ここで待っていられる?」

野次馬で溢れかえる雑踏とは違っているとは言え、見失う訳にはいかない。視界に男を捉えながら、向き直ることなく零君に伝えれば私からピリリとした雰囲気を感じ取ったのだろう、息を飲む音が聞こえた。

「っ、え…何で…」

顔は見ていないが、きっと驚いた表情をしているのだろう。少し緊張しているような、強張った声が鼓膜を揺らした。

「とにかく、此処か…此処からすぐ近くに居て!」

男が徐々に遠のくことに焦り、零君の返事を待たずに足早にその場から駆け出して追いかける。怪しまれない程度に距離を取りつつ相手の行動を凝視していると、目深に被っていたキャップを取り、また被りなおした。一瞬無防備に晒された顔はやはり見覚えがあった。

「…もしもし?私。申し訳ないけど、この前の案件で取り逃した奴らのデータを至急送ってほしい」

電話ほかければ3コール以内に出た後輩。記憶と擦り合わせるためにもデータが必要なのでお願いをすれば、すぐに振動するスマホ。こういう時ばかり仕事の早い男だ。

「…ビンゴ」

送られてきた画像データをスワイプしていると、つい先ほど見たばかりの顔が映し出されていた。一応謹慎中の身の為、現在地を後輩に伝え、周囲をきょろきょろと見渡し警戒しながら歩く男を人ごみに紛れながら後をつける。
後輩が到着するまでの間、見失う訳にはいかない。テロ組織を制圧した際、残されていた資料と武器の数が合わなかった。つまり、下っ端だと思われるこの男が持っているという可能性は捨てきれないのだ。下手に刺激をして周囲にいる人間を人質に取られてはたまらない、バレばいように注意を払い足を止めて、再び動いてを繰り返した。
一定のペースで歩いていた男が、急に走り出したかと思うと人気など全くない狭い路地に入り込んだ。もしかして気付かれた?だとしたら追いかけるのは得策ではない…しかし、この路地裏の先も人通りの少ない通りに繋がっているから人質を取られるリスクの低さを考えれば追うべきか。
腹をくくって男の入っていった路地に足を踏み込む。薄暗いそこは見通しも悪く、その先に男がいるかどうかも見えなかった。低いヒールがコツコツと鳴りそうになるのを出来るだけ踵を浮かせることで抑え、慎重に歩みを進める。

「ちっくしょう!」

路地の影に身を潜ませて周囲の様子を伺っていると怒号とガツンと何かが殴られる音が響いた。こっそりと音の先に視線を向ければ、肩で息をする男がゴミを集積するようのコンテナを殴りつけていた。

「…強盗さえ上手くいってりゃ高飛び出来たっていうのに!」

押し殺した叫びと共にガツガツと何度も繰り返しコンテナに拳を叩き付ける。どうやら、昨日の強盗犯のうちの一人でもあったようだ。警察の突入に合わせ、裏口や窓から混乱に乗じて逃げたのか。既に捕まった犯人が、共犯者について口を割らなくても銀行内に設置されている防犯カメラからすぐに分かるだろう。あっちに連れていかれるのはまずい、やはりこちらで身柄を拘束するしかない。
GPSで私の現在地はきっと分かっているだろうから早く来てほしいものだ、今のこのコンテナを殴っている光景だって器物損壊でしょっぴかれてしまうかも知れないのだから。そんなことを呑気に考えていた時だった。

「名前っ!」

置いてきたはずの声が聞こえた。まずい!そう思った時には既に遅く、零君の声を聞きつけた男が懐から取り出したそれを少年に向かって構えていた。興奮状態にある今の状態では間違いなくトリガーを引く。そう頭で考えるよりも早く私は零君の前に飛び出していた。
バァンと大きな破裂音がビルの狭間で反響すると同時に私の耳は衝撃により音を拾うことが出来なくなってしまう。じわじわと広がる熱と痛みなんかよりも、今腕の中にいる零君の無事だけが私にとっては重要だった。
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