9.0 (俺)
夏休みなのもあるからだろうか、同じぐらいの年齢の人で溢れかえる映画館のロビーにいた。ここに来るに至った理由は至極簡単。昨日あのまま続けて観ていた映画に心奪われてしまったからだ。それは名前も同じようで、観終える頃には明日は映画館で最新作が観たい、という経緯に至った訳だ。
名前は俺の体調のことを心配して多少渋ってはいたが、すっかり平熱に戻った体温と発熱以外の症状が特になかったのもあり納得してくれた。まあ、映画を観るだけであって特にそれ以外の用事がないのも納得した要因だろう。
それにしても、すでに館内で上映している映画作品が数ある中、ここまでロビーに人がいるということはお目当ての作品は同じなのだろう。入場のアナウンスを待ちながら、周囲にいる人間に目配せをするとそわそわとした様子だった。俺の隣にいる名前は、近くにいた女子高生…?くらいの女を見て遠い目をしていた。どうも年齢に引け目でも感じているのだろうか、若い層を見つめるときの名前はよくこんな表情をしている気がする。そう思っていると、館内にアナウンスが響き渡り、案内されたスクリーンは手元にあるチケットに表記されているものと同じ番号だった。
「名前、アナウンスで今1番スクリーンの案内があったぞ」
恐らく、アナウンスを聞いていなかったであろう名前の手を引いて呼びかければ、ハッとした顔でこちらを見ていた。入場を急いたところで早く観れるわけではないが、昨夜から止まることを知らないこのわくわくが抑えきれずにいた。名前もそれを察してくれていて、俺に引かれるがままについていてくれた。
指定されたスクリーンの座席へと着けば、同じように続々と人が入ってきては席に着く。入場を開始してそう時間が経っていないというのに、どんどん埋まっていく空席。
「…席、名前が予約してくれたおかげで、すごく観やすそう」
名前が昨夜のうちに席を予約しなければ、きっとこんないい席で観ることなどできなかっただろう。真ん中より少し後ろに位置しているこの席は画面全体を視界に収めることが出来る、本当に丁度良い位置だった。これから始まる映画が楽しみで、つい口元がにやけてしまうが、名前も同じように緩んでいた。そもそも、一人にやけているのを目撃されて困るような知り合いはここに居ないので気にしないことにした。
「こんなに観に来るもんなんだね…予約して正解」
気持ち程度にぽつぽつと空いている空席はあるが、基本的には座席が埋まっているような状態に名前は感嘆と声を漏らした。それもそうだ、普段ならなかなか埋まることの少ないはずである前方の座席までも空席が目立たなくなっていたのだから。
頷いた俺に対し、名前がとても穏やかな顔をして笑ったのを暗転する間際に見た。どうしてか、それが本編が始まるまでの間脳裏から離れようとしなかった。
「…今回も良作だった…」
上映が終わり、少しずつ明るさを取り戻し、席を立つ人がいる中で座ったままの名前が呟いた。全シリーズを昨日見たばかりの俺がこう言うのもなんだが、俺もそう思う。これまでのシリーズはアクションやスパイをするにあたっての駆け引きであったり、敵も味方も欺くような心理戦が描かれていることが多かった。だが、今回は人との絆だったり、いつも淡々と仕事をこなしていた主人公の仕事に対する秘められた想いなども伝わってくる内容だった。秘密の多い主人公の新たなる一面が見えた時、隣にいる名前の顔が浮かんだ。
「何て言っていいか分からないけど…面白いというか、えっと…」
さっきまで思い浮かべていた感想を言葉にしようとしたはずなのに、ふと浮かんでしまった名前の顔によりそれが阻まれる。今まさに目の前にいるというのに、主人公と名前が重なって見えたなど、俺の思い違いもいいところだ。そんな考えを悟られたくなくて、言葉を紡ごうとしようとしても、上手く言葉になってくれない。しどろもどろする俺をみて、名前は声を出して笑った。いくら人が減ったとは言え、人前で笑われることも含めて恥ずかしくなったので、ギロリと睨んでみたがまるで効果はなさそうだった。
「ごめんごめん、でもまぁ…言いたいことは分かるから」
言いたいことが伝わっているというのに笑われるというのも、余計に腹が立つ。理不尽というか、とんだとばっちりかもしれないが、元はと言えば俺の脳内で勝手に再生された名前が悪いと思う。
「さて、では熱が平熱に戻ったとはいえ本調子じゃないだろうから帰ろうか」
「わかった」
人ごみに酔ったわけでもなく、昨日までの熱がぶり返したわけでもない。ただ、俺の体調を気遣われてしまうと、とてもじゃないが我儘なんて言えやしない。素直に同意すれば、案の定名前は満足そうな顔をした。そして思い出したかのように、何処かで昼食を済ませてから帰るかと聞かれた。外だとまた気遣わせてしまい落ち着いて食べれないだろうし、家の方がいいと思った俺は否定の意を込めて首を横に降ると、思案しだす。大方、何を作ろうか考えている、といったところだろう。
駐車場に向かい足を進めている途中だったが、思案している最中も足を動かしていた名前がピタリと動きを止めた。
「ごめん、零君…ちょっと用事を済ませてくるから…少しの間ここで待っていられる?」
どこか一点をじっと睨みつけるかのような眼差しで見つめる名前が、低い声で、とても疑問形とは思えないようなトーンでそう言ったのだ。前にも感じたことのある緊張した空気。それがまさに俺の肌を刺すようにピリピリとした感覚が走る。ついさっきまでと真逆になってしまった雰囲気に思わず息をのんでしまった。
「っ、え…何で…」
俺の口から零れ落ちた声は自分でも驚くほどに動揺していて、思って以上に小さな声だった。
「とにかく、此処か…此処からすぐ近くに居て!」
出会った時も、名前はこんな風に声をしていた気がする。しかし、それよりもずっと焦っているような、まるで俺を俺と思っていないような…初めて見る姿にその場に足が縫い付けられてしまったかのように、身動きが取れなくなってしまった。
声も出せないまま、動けないまま。名前を止めることさえも許されなかった俺は、駆け足で去っていく名前の背中をただただ眺めることしかできなかった。自分の無力さに落胆するしかなかった。
名前に言いつけられたからこの場から動けないのか、それとも名前に置いて行かれるということが動けないほどにショックだったのか。…恥ずかしい話、おそらく後者の方が強い。ここに居ろということは、付いて来るなということで、俺の反応をまともに取り合わない状態で去っていくということは俺に対する何らかの拒絶。そうとしか思えなかった。
じわじわと心を蝕んでいく不安、ここに来たばかりの時に心の大半を占めていた感情だった。名前と過ごすようになり、すっかり感じることのなくなっていたそれが、今になって蘇ってきた。名前のことが好きなだけに、前よりもずっと、悲しくて切なくなった。
その場にただ立っているのも周りからすれば邪魔だろうに、それでも周りはまるで俺が見えていないかのように避けていく。名前がそばに居なければ、俺は本当に独りぼっちなんだなと、そう思った。そういえば、映画の主人公も孤独だった。孤高だからこそこなせていた仕事が、一人の登場人物により絆され、良い意味で変化した。しかしそれが、仕事では仇となってしまったのだ。
不意に、ぞわりと嫌な予感が駆け巡った。そう、主人公はたった一人の心の拠り所を守ったがために窮地に陥ったのだ。脳内で再生されていた主人公が、やっぱり名前と重なり、胸騒ぎがする。すると、俺をその場に縫い付けていた何かがプツリと切れるような音がした気がした。
途端、軽くなった体を動かし名前が向かっていった方向へと走り出す。走っても走っても、名前の姿は何処にも見当たらない。見る限り複雑そうな道なりではないそこで、すれ違った様子もない。あの場所で待っていろと言われてしまったのなら、戻った方がいいのだろうか。邪魔にならないよう、道路の脇の狭い路地を塞ぐように立ち止まった時だった。何かの叫び声のような、怒鳴り声のような上手く聞き取れなかったが人の声がビルの狭間で反響し、それが耳に届いた。何事かと思い、声がしたであろう狭い路地の先を目指し歩みを進めた。
すると、建物の陰に隠れて見えにくくなっていた名前の背中が俺の視界に入った。見たところ怪我をしている様子もない名前を見て、俺の不安は杞憂に終わったと思い、つい声を張り上げてその名前を呼ぶ。
「名前っ!」
振り返る名前の向こうに、男がいた。その男は着ていたパーカーをまさぐったかと思うと、さっき観た映画でも使われていたそれを取り出して俺に向けたのだ。初めて見るそれに、腰が抜けかけてバランスを崩すと同時に名前が正面から俺に覆いかぶさるように抱き締めてくる。その胸に抱き寄せられるかのように俺の頭と肩に回された名前の腕。ビリビリと鼓膜を刺激したのは初めてリアルに聞く発砲音。慌てて抱き寄せた張本人から離れようとすれば、ぬるりとした生暖かい感覚。
ああ、わかっていたのに、俺は取り返しのつかないことをしてしまった。
2/4
prev next△