1.0 (俺)
どうやら、この女性が俺のことを引き受けてくれるようだった。
既婚者なら既婚者で世話になることに対する不安があったが、独身であってもそれは変わらないと改めて思った。
世話になっても、そのお礼を出来るのだろうか。帰れるのだろうか。いつまで世話になるのか分からないのに。
そんなことを考えていると、片手でハンドルを握り運転しながら女性が口を開いた。

「ねぇ、何か食べたいものとかある?」

衣食住を提供する、確かに女性はそう言った。きっと夕食をどうするか考えていたのだろう。
昨日から何も食べていないというのに、空腹を感じない自分の感覚を正直に返す。

「…何でもいいです。正直、昨日から何も食べてない割には…食欲もなくて…」

さっきまでは俺自身が焦っていたり、不安だったこともあり外れていた敬語。
だが、年上であり、これから俺の面倒をみてくれるこの女性に対し、いつまでもタメ口はよくない。
正直、あまり使い慣れていない。それもあって、下手くそな敬語。

「っえ、は?」

俺が自分の敬語を改めなくてはと考えていると、女性は目に見えるほどの慌てっぷりを発揮した。
進行方向を見たり、俺の方を見たりと忙しなく顔を動かし、動揺を露わにする様子はさっきまでとは全く違う一面。
そんな一面が見れて嬉しような、申し訳ないような複雑な気分になり、思わず目を逸らす。

「…水分は、公園の水飲み場で何とかなりましたけど…」

ぽつり、と呟けば女性から発されるそうじゃない!と訴えるようなオーラ。
なんとなくだが、このお人好しな女性はきっと心配をしてくれているのだろう。だとしたら、下手に誤魔化すのは失礼だ。
すると横からすぅ、とゆっくり深呼吸をする息遣いが聞こえたと思うと女性の目が真剣なものに変わる。

「…予定変更、ね!」

語尾に力を入れたと思うと、交差点で勢いよくUターンしたのだ。タイヤと地面の擦れ合う音が耳を劈き、思わず顔を顰めるも、
今まで感じたことのない圧を感じ、まるで身体がシートに縫い付けられているかのような感覚に驚き目を見開いた。
きっと運転技術が高いからこそ出来るテクニックなのだろう。…将来、免許をとってもこうはならないぞと反面教師にしようと思った。






着いた先はそびえ立つ高層マンション。降りた時にまじまじと見つめた車もきっといい車なのだろう。
厳重にしかれているセキュリティを一つ一つ解除しながら進み、乗り込んだエレベーターで目指すは上の階。

「…お姉さん、何者なんですか…?」

そう。こんな疑問を俺が持ってもおかしくないだろう。女性は自分のことを独身と、アラサーと言っていた。
二十代後半でこのマンションに独りで住めるだけの財力があるということだ。一体どんな仕事をしているというのだろうか。
俺の質問に、考える素振りを見せながら視線を上の方に彷徨わせたと思うと、人差し指をピンと立てる。

「秘密だよ、少年」

その指を唇の前に添え、妖しく目を細める姿に思わずドキリとして目線を逸らした。

女性と話しながら昨日から俺の身におきた話をした。時折相槌をうちながら頷くその姿は稀に見るお人好しそのものだ。
とある部屋のドアの前に立つと、キーケースを取り出し開錠する。
ヒールの高くないパンプスを脱ぐと、女性は俺の手を引き真っ先に風呂場を案内し、そのまま脱衣所に押し込めた。

「ごめんね、お湯ためてないからシャワーでもいい?」

着替えも持ってくるね、とだけ告げて扉を閉める。一方的に案内され、挙句疑問形をものともしない強制力。
俺の焦る声など気にも留めず女性の足音が遠のいていった。

「…はぁ、仕方ない…」

折角だ。丸一日外にいて汗だってかいたわけだから不快感だってある。お言葉に甘えてシャワーを浴びることにした。
必要最低限のものしか置かれていない浴室。普段使うことのないような女性もののボディソープやシャンプー。
あの女性と同じ匂いを纏うのかと思うとどこか恥ずかしいような、照れくさいようの気持ちが沸き上がった。

シャワーを終え、身も心もサッパリしたところで再び脱衣所に出れば洗濯機の隣に置かれた棚の上には女性が用意したであろう衣服と、下着。
パッケージに入ったままのそれは新品であることを物語っており、それと同時に女性が独身であることに疑問を抱いた。
いや、既婚の身で俺を住まわすのであれば隠し通せないだろう。やはり独身だというのが濃厚だ。
しかし、こうやって目の前に用意された新品の下着を見る限り…男の出入りはある、ということなのだろう。
あれこれ考えても仕方がないのは分かるが、気まずい。そう思いながらも着替えることに切り替えた。

さっき脱衣所を案内される時に見かけたリビングを目指し足を向ければ、トマトの良い香りがした。
カチャリと音を立てリビングに入れば鍋とにらめっこをしていた女性が顔を上げて笑いかけてくる。

「どう?少しはサッパリした?あと、服きついとかない?大丈夫?」

サイズはピッタリであった。Tシャツが少しだけ大きく感じるが、きついよりはましだ。
しかし、女性もののデザインのそれは着てはいるが気恥ずかしいものがあり、つい視線を彷徨わせる。

「あ、もしかして下着が気に入らなかったとかかな?それともサイズ?ちゃんと新品だから、そこは心配しなくて大丈夫よ?」

こてん、と首を傾げたかと思うとハッとした表情をして、元の位置に頭を戻すと女性は俺に向かってにこやかにそう投げかけた。
俺の考えなど勿論知らない女性。さっき脱衣所で考えていたことが頭を過り、ボッと音を立てて、火が出るんじゃないかというぐらい顔が熱くなった。
女性にお礼を言おうとしていた口は何も発さず金魚みたいにパクパクと動かすことしかできなかった。
にこりとした笑みとは違い、にやにやいやらしくと笑う女性に何も言えないまま、俺の腹が空腹を訴えるために一鳴きした。

「さて、ご飯にしよっか」

俺がシャワーを浴びる間に用意されたスープとリゾット。短時間で作ったようには思えないほど美味しそうで、
忘れていた空腹が蘇り、そわそわしてしまう。女性がついだ水が置かれると、目が合い、その視線から逃れるように手を合わせ頭を下げた。

「…いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」

スープもリゾットも、目の前の女性が作ったのが滲み出ているぐらい優しい味がした。



女性の名前は苗字名前さんと言うらしい。よくよく思い返せばお互いに名乗っていなかったようだ。
名前さんの作った夕食はとても美味しくて、安心から蘇った空腹を満たすには十分すぎるものだった。
片づけを手伝おうとすれば、やんわりと断られてしまい。挙句ふかふかとした上質なソファに案内されてしまった。
名前さんの雰囲気が俺を落ち着かせるのだろうか、安心と、満腹感と、このふわりとした背もたれ。
眠ってはいけない。分かっているのにとろん、と瞼が降りてきてしまう。

「こら、寝るならあっちに行くよ」

降りてくる瞼との攻防を繰り広げていると、洗い物を終わらせた名前さんが近づいてきた。
まだ、寝たくない。まだ少しだけ、貴女と話がしたい。そう思い首を横に振るが、身体は正直で瞼は殆ど閉じている。

「もう、…ほら」

眠たさのあまり朦朧とする意識の中、名前さんが俺を支え、動く。無意識のうちに俺はそれに合わせてふらふらとした足取りでついていく。
気が付いたらソファ同様、上質そうなベッドに寝ころんでいた。
ふわり、と香るのは名前さんの匂いで、このベッドや布団から香るのか、はたまた先ほど自分が身にまとったシャンプーやボディソープなのか。
嗚呼俺はこの匂いにひどく安心するのだ。この甘すぎず、どこかサッパリとしたような匂いが名前さんを表しているようで、落ち着くのだ。

いつの間にか閉ざされた瞼の奥で、ぼんやり己の考えをまとめ終えると俺の意識は深い所へ落ちていった。
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