2.0 (俺)
暗い暗い闇の中、走っても走ってもその闇は続いていて、立ち止まったら最後…足元から飲み込まれてゆく。
俺以外誰もいない暗闇の中、一心不乱に走り続け、何度も縺れそうになる足を必死になって動かした。
どれだけ走ったかわからない。疲れから、思わず歩みを止めればじわじわと這い上がる黒。
気持ち悪くて、怖くて、頭の中が真っ白になる。嗚呼、もう駄目だ…!!
思わずぎゅっと目を瞑れば、耳元でそっと名前を呼ばれたような気がした。
恐る恐る瞼を上げればさっきまでの暗闇は無く、ふわふわと優しい風に包まれているような白い世界。
黒が白になっただけだというのに、自分でも驚くほど安心していたのだ。
心がぽかぽかするような、ひどく安心するような…そうだ、まるで名前さんが傍に居てくれるような落ち着きがある。
独りぼっちで、誰にも気づいてもらえないような不安から救い上げてくれた名前さん。
あの人は大人なのに子どもっぽさが残っていて、デリカシーがないくせに俺の気持ちを考えて汲み取ってくれる不思議な人。
さっき聞こえた声も、名前さんの声に似ていた気がする。あの人は一体どこまで俺のことを助けてくれるのだろうか。
ふわり、と意識が浮上する。カーテンから洩れる朝日の日差しは、さっきの出来事が夢であることを伝えていた。

「…名前さん?」

ぽつりと呟くように名前を呼ぶが、見当たらない。名前さんの匂いが満ちたこの空間に、本人がいない。
広いベッドには俺が寝ていた温もりだけが残っていて、寝床を奪ってしまったのだと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
あの人の落ち着く匂いがしていても、傍に居ないという不安が夢の中の、あの黒い闇のようにじわじわと侵食していく。
それを振り切るようにベッドから降りて走って向かうは、昨夜寝る前にいたあのリビング。
昨夜とは打って変わって勢いよくドアを開けたが、そこには誰もいない。ただ、寝る前と違いふかふかとしたソファにはタオルケットが置かれていた。
その光景から、名前さんが俺にベッドを譲り自分はソファで寝たことが理解できた。
だがしかし、寝ていたであろう場所にも居ない。焦る気持ちを落ち着けようと、深呼吸をした時だった。
水の流れる音がして、その音がすぐに止まる。リビングから見えるキッチンには勿論人影はない。となると、浴室だろか。
リビングから顔を覗かせ、脱衣所の位置を見つめ確認するが…もし名前さんがいた時のことを考えるとドアを開けることすら憚られる。
どうしたものかと思いつつ、そちらに向かい足を向ければ、ドアを開けた名前さんと視線が絡まった。

「やぁ、おはよう。よく眠れたかな?」

にこりと人当たりの良い笑みを浮かべる。その表情に己を蝕んでいたものがスゥと消えていくように感じた。
それとは裏腹に、何と言えばいいのだろうか…お風呂上りと思われる名前さんが昨日とは違っていてドキリとした。
ドキドキしているのを悟られたくなくて、深呼吸をすれば心配そうにこちらを覗き込んでくる。

「大丈夫?」

ポタリと廊下に落ちる滴。そのポタポタとした音と共に近づく足音。暖かい掌は俺の髪を優しく撫で付ける。
気恥ずかしくなり、大丈夫の問を肯定するように頷けば、少し悲しそうに眉を下げた名前さんが両腕を広げてその中に俺を閉じ込めた。

「!?」

まさか抱きしめられるとは思わなかった。正直なところ、モテはするが付き合うだとかそんなことに一切興味がない。
そういう事もあり、母親以外の女性に抱きしめられることが初めてで、思わず緊張して肩が跳ねる。
緊張したのも束の間で、その暖かさと落ち着く香りに肩の力も抜け落ちてしまい、少し濡れた名前さんの肩口に額を乗せた。
嗚呼、やっぱり彼女の傍はひどく落ち着く…その背中に手を回すのもなんだか恥ずかしくて、部屋着の裾をきゅっと握れば俺に回された腕に力がこもる。

「…名前さん?」

痛くはないが、少し強まった腕の力と悩まし気な名前さんの表情。どうしたのだろうかと声を掛けると、ゆるりと口元と目元を綻ばせて笑うのだ。
それがあまりにも綺麗で、この人に…優しくて暖かくて柔らかなこの人に抱きしめられたのだと思うと思わず顔が熱を持った。
何とも言えない恥ずかしさがこみ上げて来て、出来るだけ顔を見られないように逸らし、身体を離したが、名前さんが気に留める様子はない。

「よし、じゃぁ零君も起きたことだし、朝ごはんにしよっか」

さっきと同じ笑みを携えたまま言うのだから、頷く事しかできなかった。名前さんの濡れた髪で俺の髪もしっとりしてしまい、ちょっぴり冷たかった。





「いやぁ、ごめんね…すっかり失念していたよ…」

申し訳なさそうに眉を八の字にして謝る名前さんはとても幼く見えて、アラサーなのかを疑いたくなる。
昨日、夕飯を振舞ってくれた際に材料をすべて使い切ってしまったのを忘れていたらしく、
とりあえず腹ごしらえの為に名前さんが行ってみたいと目を輝かせていた新しくできたカフェに向かっている。

「いえ、名前さんが誤る必要はないかと…」

この人は俺のことを気遣ってくれた上で料理を振舞ってくれたのだ。もっと言うと、俺と名前さんの二人分作ったということは、
名前さん一人であれば今朝の分もあったということだ。俺が申し訳ない気持ちを抱くならまだしも、この人がそんな顔をする必要はない。
だが、それをハッキリと伝えることもできない俺はただ困ったような顔で笑う事しかできなかった。

「ねぇ、零くん。その敬語、やめない?よそよそしすぎると言うか…」

しゅんとした顔から一変、眉間に皺を寄せ語尾を濁しながらそう言ったのだ。
学校では先生相手にしか使わない敬語、昨年までいた先輩もどちらかというと気さくで砕けた話し方をしていたので敬語が慣れていないのは自負している。
だが、名前さんは今の俺にとって衣食住を提供してくれている人物なのだ。せめてもの敬意として、その言葉を崩すわけにはいかないと思った。
恐らくこの人は俺が何故不慣れな敬語を使っているか理解している。それ故にどう答えたらいいものかと、うまく言葉に出来なかった。

「あのねぇ、君はまだ義務教育中の未成年なんだから。子供らしくしたってバチはんかあたらないよ」

子供らしく。きっと、保護すべき対象であり、大人には遠慮しなくていいと伝えたいのだろう。
分かってはいるのだが、ここまで子供扱いされるのも癪で…思わず敬意を払うべき相手に不満そうな顔を見せてしまった。

「年上ですし…」

「その年上が良いって言ってるんだから聞きなさいよね」

呟くように発すれば、すぐにそれを拾い上げる。そして悪戯に笑ったかと思うと、俺とは対照的な白い手で髪を乱暴にかき混ぜてボサボサにした。
これでもか!と言わんばかりにぐしゃぐしゃにするものだから、諦めて分かったと小さく言えば満足したのだろう、悪戯の成功した子供みたいに笑うのだ。
きっとこれも、この人の気遣いなのだろう。いっそ此処まで気にかけてもらえるということは、喜ぶべきなのだろう。そう思うと顔の筋肉が緩むのを感じた。

「そっちの方が子供らしくて好きよ」

俺の顔を見て、楽しそうに目を細めて言う名前さんに、そういう意味ではないと分かってはいても思わず顔が熱くなった。
子供らしいというところに怒ればいいのか、それとも好きというところに照れてしまえばいいのか。
多分今の俺の顔は何とも表現しがたいものになっているに違いない。そんな俺の手を取り、あと200メートルほど先にある目的地であるカフェへと向かった。





カフェでモーニングセットのパンケーキを食べたからか、名前さんはとても上機嫌だ。
昨日も乗せてもらった黒の愛車に再びお世話になり、人であふれかえるショッピングモールにやって来た。
名前さんに手渡されえた服は、男性物とも女性ものとも言えないものであるが、センスの良さを感じさせるデザインだ。
私でも大きかったから、零君にも大きいかもしれないと言われたが、思いのほかピッタリなので驚いた。

「さーて、まずは服からかな〜?」

目ぼしい店がないかと視線をあちこちへと彷徨わせるその後ろ姿を追う様に歩き、俺も同じように周りを見渡す。
この人のことだから、自分のお古を着せるのは悪いだとか、お金の心配はいらないだとか考えているんだろう。

「零君。何を遠慮してるかは知らないけど、お金のことは気にしないでほしいなぁ」

くるりと反転し、俺の方に向き直るとじっと真っすぐに俺の目を見つめてそう言った。
俺が名前さんのことを考えるのと同じように、俺のことを考えていてくれてたことに思わず驚いてしまう。
だが、俺はあくまで世話になっている身であり、そんなことを気にするなと言われる方が無理だった。

「おねーさん、これでもお金持ちなんだから」

「…そういう問題じゃないだろ」

ふふん、とドヤ顔を決めてこちらを見るが、お金のあるなしではないのだ。名前さんのお金なのだから自分の為に使うべきだ。
よくこんな得体のしれないガキに使おうと思えるな…。恩人ではあるが、危機感などまるで無いその考えには正直呆れてしまう。

「まぁまぁ、いいじゃない。零君みたいなイケメンを着飾らせてもらえる機会なんてないんだもの」

…本当に、一体何を考えているのだろう…この人は。着せ替え人形にするつもりであれば、やめてほしい。切実に。
多分、いやきっと…いいや、間違いなく呆れかえった冷たい目線を恩人である名前さんに向けてしまった。

「ぶっちゃけ、何言われても必要なものは揃えるしお金も惜しむつもりないから」

にやり、と余裕のある表情で言い切られてしまえば、俺の批難めいた視線も態度もきっと届かないだろう。
優しいくせに強引で、頑固なところもあるこの人には子供である俺は到底敵わないだろう。
俺の方が子供なのに、変な意地の張り方がよっぽど子供らしくて、張り合うのを諦めると同時につい笑ってしまった。
言って聞かない名前さんのために、年下の俺が折れてあげたって思ってるなんて言ったら、一体どんな顔をするんだろう?
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