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あの夏の不思議な出来事からいくつもの時が流れた。あの日の10日間は今もなお鮮明に、手に取るように思い出すことができるぐらい俺の中では大切な時間だった。
人生で初めて好きになった女の人。眩しくて、正義感に溢れていて、どこか子供じみていて…憧れと愛情とが交ざり合った、今も愛しく思える人。
あの日、別れ際に言った中学三年生の俺の発言はちゃんと覚えている。だが、あの不可解な出来事はどう考えても解明できるものではなく、29歳になった今も思いを馳せるばかりで、この手に掴むことは出来ていない。
この仕事に就いたとき、真っ先にあるはずのない背中を探してしまった。どこをどう調べても苗字名前の名前は警察関係者には居なかった。分かっていたのに、落胆せずにはいられなかった。
守りたいと思い、いつも俺を守っていたあの背中を追いかけて、名前に頼ってもらえるように勉強も沢山した、身体だって鍛えた。それなのに、俺の大切な人たちはいつだって俺の掌をすり抜けていく。

そして今日も、降谷零としてではなく安室透として表の世界を生きている。今の俺を見たら彼女は何と言うんだろう。いや、彼女は俺の事を覚えているだろうか。
あの大切な日々で学んだことは沢山あった。そしてその学んだことは俺の知識として生きている。ポアロで提供する料理だって名前に鍛えられなければ美味しいと評判になることも無かったと思う。
だが、名前の作る料理とはどこか違っていて、その違いは至極簡単。作りる人が違う、本当にただそれだけだ。作り手が違うだけで変わるものなのだなと感心するぐらい、俺の舌は名前の作った味を覚えていた。

「お待たせいたしました」
 
作り終えたばかりのハムサンドを片手に、にこりと笑って確認をとりテーブルに置く。頬をほんのりと赤く染めて、目が合うとあからさまに逸らされる目線。安室透のファンの一人なのだろう。
29歳になるまでの間、全く女性との関係がなかったかと問われれば嘘になる。だが、どれもピンとこなかった。何て贅沢な、と面と向かって言われたことはないが、きっとそう思っている男も居るとは思う。
だが、肝心な…自分の好きな人に好きになって貰えないことには意味がないのだ。嗚呼、あの日からの年月を考えると彼女はきっと結婚しているだろう。そう考えると、会いたい気持ちが少しずつすり減っていく。
何が悲しくて、好きな人の幸せそうな結婚生活を見なくてはならないのだろうか。その点では会うことの出来ないこの現実に酷く安心してしまうのだ。
 
「おや、蘭さんに園子さん」
 
「安室さんこんにちは、席あいてますか?」
 
「ええ、こちらへどうぞ」
 
ポアロの上の探偵事務所。かの有名な毛利小五郎の娘さんの蘭さんとそのお友達の園子さんを席に案内すると、園子さんが周囲をキョロキョロと見渡すとにんまりとした笑みを携えて此方を見る。
 
「今日も安室さん目当てのお客さんでいっぱいですね〜!」
 
「そんなことないですよ」
 
一応、彼女の言葉を誉め言葉ととり、いつも通りの笑顔を作り応対をする。園子さんは鈴木財閥のお嬢様だが、蘭さんと繰り広げる恋愛トークや学校の話を聞く限りよくいる女子高生そのものだ。
 
「安室さんって、お客さんから告白されたりとかしないんですか?」
 
「そうですねぇ…。例え告白されたとしても、気持ちに答えることが出来ませんので」
 
園子さんの質問に、眉を下げて申し訳なさそうに答えれば、きょとんとした顔をした二人が顔を見合わせて、また此方に視線を送ってきた。
 
「安室さん、それって」
 
「好きな人がいるから答えれない!って事ですか?!」
 
席に着いたばかりだと言うのに、机から乗り出して食い入るように質問を続ける。そんな園子さんの正面に座る蘭さんは、心なしか目をキラキラと輝かせている。
 
「ええ、居ますよ。ですが、僕の気持ちもまた応えて貰うことができませんので…内緒にしてくださいね」
 
人差し指を唇の前に持ってきて、パチリと片目を瞑りウィンクをしてみれば目を見開く二人と、空気を変える店内。そう、安室透に好意を持つ女性は少なくなく、それにいちいち構っていられないのも正直な話である。
久しぶりにこんなにも名前の事を思い出したからだろうか、つい口が滑ってしまったところもあるが、結果オーライだ。これで少しでも安室透への興味が失せてくれればそれに越したことはない。
どちらにせよこのトリプルフェイスを使い分け続ける限り、俺には縁の無い話でしかない。女性と関わることで自らの立場を危うくしたくないし、誰かを巻き込んでしまうほど後味の悪いものもないのだから。


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