果たしてどれほどの時間を費やしてこの場に辿り着いたのか、計測しなかったのでわからないが、気が遠くなるほどだったなという感想を抱くレベルの時間は費やした。保健室と表記されたプレートを見、「失礼します」と室内に声をかけてからガラリとスライドさせる。が、いるだろうと思っていた人物の姿が見えない。少し緊張していたのに、拍子抜けだ。
保健室に足を踏み入れて後ろ手で戸を閉め、室内を見回る。シャマルのことだからベッドで寝ていたりして、なんて思いながらカーテンを開けて覗き込んだが、ベッドはきれいなまま。仕方ない、戻ってくるのを待とう。

ソファーにでも座ろうかと考えたところで、じっとりと濡れている制服に視線を落として息を吐く。風邪をひく前にと棚を漁り白いスーツを取り出し、制服を脱いでそれに包まってからソファーに腰を下ろした。


「ねえ浅香〜、もう学校来ないでよ」

「そんなお願いは聞けない!」

「強がっちゃって。来たってこの学校に、あんたの味方は誰もいないんだよ?」

「そうそう。幼なじみのはずの優奈だって、あんたのこと見捨てたようなもんじゃない。ねぇ優奈?」

「……っ」

「優奈……!」

「あははっ!いくら助けを求めても無駄だよ、心の中では助けたいとか思ってるんだろうけど……いい子だもんねぇ優奈。でも結局、自分が可愛くてなぁんにもできない」

いやだ。やめて。ヤメテ、……ヤメテ!!



ガラッ

「!?」

突然鼓膜に与えられた刺激で、ぱっと目が覚めた。視界にはありとあらゆる物が横向きに映り、座っていたのにすっかり横に倒れて寝てしまったと知る。無意識に強く握りしめていた手のひらには爪跡が残っていた。ぼんやりとそれを見つめながら身体を起こせば、視界の隅に人が立っていることに気づいてゆるりとそちらへ視線を向ける。

「……シャマル?」

「優奈じゃねーか!もしかしてオレに会いに……っておまえなんて恰好してんだよ!?てかその傷はどうし」

「待っ、頭に響くから、静かに話して。それより驚きすぎじゃない?あたしが常盤をいじめてるって噂、学校中に広まったって、恭弥さんに聞いたんだけど」

ズキンズキンと痛む頭を押さえながら問えば、驚いた顔して「岸本という人間が誰かわからなかった」と、どうやらシャマルはあたしの名字を知らなかったらしい。そういえばイタリアでは名前でしか呼ばれたことなかった。

「にしても、その恰好そそるな」

「はあ?変なこと言わないでよ変態」

「おまえが16の姿だったらもう少しこう、色気が……なんて冗談はこれくらいにしといて、なんだ、水でもぶっかけられたのか?」

椅子にかけてある制服を一瞥するシャマルに、そうだよ、と答えると同時、額にひんやりとした手のひらが当てられる。

「熱出てるな。おまえ、ちゃんとメシ食ってるか?相変わらず細い身体じゃねーか」

「食べてるよ。でも、情けないなぁ、今朝の一発で熱を出すなんて」

「それだけ過労してんだよ。氷枕用意すっから、ベッドに横になれ」

「はーい」

ゆったりとソファーから立ち上がって、ふらふらの身体でベッドに向かい、辿り着いてすぐさま身体を横にする。やっぱりソファーとでは寝心地が全然違うなと思っていれば、氷枕を手にシャマルがやって来て、あたしの頭をほんの少し持ち上げてそれを置く。早業だった。さすがドクター。

「それで熱の方は大丈夫だろ。で、まさかいじめてる岸本って奴がおまえだったとはな」

「もしかして獄寺に聞いた?」

「聞かされたんだよ。常盤さんを傷つける岸本は絶対果たす!シャマルも診るんじゃねーぞ、ってな。どんな非道な野郎なんだって思ってたんだがな」

「……シャマル、何してるの」

「ん?」

何かやってるか?っていう表情してるけど、すごくやらかしてるから!どうしてあたしのお腹をさわさわ撫で回してるのかこの変態オヤジは!地味に痛いからやめてほしいんだけどと睨みながらその行動を押さえようと手を伸ばしたところで、シャマルの真剣な目がこちらを向いて、思わず動きを止めてしまった。

「怪我の様子を見てんだよ」

「……これが?」

「オレは医者だ。患者を目の前にしてセクハラするほど落ちぶれちゃいねーよ」

「ああそう」

「だいぶやられてるな。おまえ、なんで避けなかった」

「えっ、あ、あれだよ、殺気も気づかれるレベルで放っちゃったし、これで攻撃も華麗に避けたら何者だ!?って疑われるし、あの、いろいろ大変でしょ」

いつになく真剣なシャマルの視線から逃れたくて、目を泳がせながら苦し紛れの言い訳。確かに、あれくらい避けようと思えば避けられただろう。ザンザスが投げつけてくる物とか、ベルを怒らせて飛んでくるナイフとか、そんなものに比べたら余裕だし、実際その現場を見たことのあるシャマルなら疑問に思って当然だった。

「背中も相当やられてるだろ」

「見る?」

「見る?っておまえ……シーツ捲ったらパンツ丸見えだろ」

「いいよ別に、減るものでもないし、14の身体だし」

おまけに本当の自分の身体でもないし、それにシャマルは医者だ。変態に違いないが、パンツの一枚や二枚見られたところでどうってことはない。重たい身体を動かして彼に背中を向ければ、ひどいな、と自然に漏れたような声が耳に届く。

「ひどいって、背中?それともパンツの趣味?」

「背中だ!」

「今日もだいぶ蹴られた。折れてはないと思うけど……ヒビとか入ってないよね」

「大丈夫だ。ただ、何回も同じとこ攻撃されりゃヒビじゃ済まなくなる可能性はある」

「……シャマル、湿布貼って」

「はいよ」

背中に触れていたシャマルの手が離れて、ふ、と息を吐く。医者の手だと思うと不思議と心地よく感じるのは何だろうなと考えていれば、予告もせずにキンキンに冷えた湿布をベタンと貼られたものだから、思わず「ひっ」と声が出る。何するのと訴えようと身体の向きを変えたところで、待ってましたとばかりにお腹にも大きな湿布をプレゼントされた。

「これで完璧、と。っておまえ、ほっぺ赤いな、ここにも貼っておくか?」

「ほっぺ?」

「そ、左頬。かなり思いきり叩かれたんだな、手形までくっきりだ」

「あ、今朝京子に平手打ちされたやつかな」

「おまえ、笹川にも」

「違う違う。これはえっと、弱音吐けよばかやろうって感じのもので」

「は?」

「とにかく、京子は味方なの!」

なぜだか言っていて恥ずかしくなってきて、シーツで顔を隠す。その行動にシャマルは笑いながら、けれどその声色は少し寂しそうに、「おまえは強情だからな」と零す。

「……」

「そう言われたとこで弱音吐くような柄じゃねーよな」

「んー、あはは。……にしても、あたしのこと普通に診てくれたけど、獄寺のこと裏切っちゃったね」

「隼人だぁ?あんな真実も見極められないガキの味方なんざなりたくもねーよ」

「え、じゃあ常盤のこと知って、」

「ああ、リボーンから聞いてる」

どこぞのファミリーかは知らないがリボーンは勘がいい、と苦笑気味に言いながら、あたしの頭をやんわりと撫でるシャマル。そんな彼に、その話聞いてなかったら鼻の下伸ばしてそうだよねなんて言えば、デコピンをお見舞いされてしまった。

「あ、もうすぐ1時限目終わる……」

ふと視界に映った時計の針は、1時限目終了の鐘がなる10分前を指していた。椅子にかけていたセーラー服の乾き具合を尋ねれば、もうほとんど乾いているとのこと。
そしてシャマルも別にバカではない、そんな質問をしたということは、教室に戻るということで。簡単には行かせてくれなさそうな鋭い視線がこちらを向く。

「行くことはオススメしねーな」

「で、でも、いじめ足りなくて京子に矛先が戻ってしまうのは嫌だし」

「……奴らの仕掛けてくる攻撃をちゃんと避けるって約束をしてくれたら、行かせてやってもいいぞ」

「えー」

「約束しなさい」

ああ、今日で何回目だろう、この医者らしい目。きっと約束をしなければ教室には戻してくれない、自分の命を投げ出す気か!と怒られてベッドに縛られてしまいそうだ。

「わかった……」

「本当だな?」

「うん、本当」

「今度またバカみたいに殴られてみろ?教室に戻ることはないと思え」

「了解です先生」

シャマルに見えないところで乾いたセーラー服を着ながら言う。最後にスカートのしわを直し、ふと視線を上げれば窓には自分の顔が映っていた……なにその顔、まるで戦場にでも行くかのようにこわばっているじゃないか。

「じゃあ、行ってくる」

「おう。ボンゴレ坊主によろしくな」

へらりとした表情を浮かべて言うものだから、ついカッとなってピシャリと勢いよく戸を閉めてしまった。診てもらった患者のする行動ではないけれど、よろしくなんてできるわけないのに、そんなことを言うシャマルが悪いのだ。

廊下を歩くこと数分、目の前には長い長い階段が待ち構えていた。だいぶ具合はよくなったとは言え、まだふらつく身体。教室に行くのが怖いと思うよりも先に、階段を上るのがこんなにも怖いと思うだなんて。乾いた笑いを零し、手すりに掴まりながらゆっくりと、一段、また一段と踏みしめて上がっていく。

時間をかけてようやく最後の一段となった。
3年生のクラスが2階にあって本当に助かった。が、ここは今までのものとは一味違うのだ、そう、階段という区分ではなくなってしまうため手すりが存在していない!ここでふらりと後ろに仰け反ってしまえば、手を伸ばしたところで掴むものは何もなく、そのまま落下。教室に戻る前だというのに、シャマルに約束破ったな!なんて怒鳴られかねない。

「ふう……」

目を瞑り、ひとつ大きな深呼吸をしながら、見事上りきるイメージをする。たかが階段で命懸けだなぁなんて思うが落ちるのは普通に嫌だ。

何度も何度もイメージして、よし、行ける!そう思ったら行動に移すのみ、目を開けて、手すりを掴む手に力を込めながら勢いをつけて右足を上げた。のだが、足を乗っけることができた嬉しさから、左足も上げて廊下の方へと歩を進めるということをすっかり忘れていた。

「ばっ‥か、なんで……!!」

足を乗っけられたと言っても、ほんの爪先だけで、バランスを崩せば落ちるに決まっていた。
ぐらりと揺れる視界。そして天井が映り込み、身体がどんどん落ちていくのがわかる。その瞬間というのは、まるでスローモーションのようにゆっくりに感じられて。

ああ、シャマル、階段から落ちただけだから、攻撃を避けなかったとかじゃないからね、なんて言い訳をする自分がいたのにはさすがに驚いた。

とんでもない痛みが襲うのだろうとぎゅっと目を瞑れば、その直後には、身体はドサッと音を立てて落ちた。

「いっ……た、くない?」

衝撃はあったものの、数十段の階段を落ちて受ける衝撃には弱すぎるそれ。誰かがクッションでも置いてくれたのかしらとあり得ないことを考えがながら上体を起こした。

そして気づく、手をついた床、にしては柔らかいものから温かさを感じることに。

「なっ……にしてんだてめー!!」

「!?(ご、獄寺!?)」


* * * * *


最悪だ。なんだよこいつ。
ただでさえ遅刻してヒバリにいろいろ言われてイライラしてるというのに、上から岸本が降ってきて、オレの機嫌はより悪化した。
突然のこととはいえ、避けられなかった自分にも腹が立つ。

「本当ごめん、不可抗力。うん、不可抗力だ」

「何自分で言って納得してんだ」

「そうなんだけど」

苦笑しながら言う岸本は、常盤さんへのいじめが発覚する前と何ら変わりなくオレに接してきた。チッ、調子狂うな。というか、それより、

「いつまで上に乗ってんだ!!」

「あっ、ごめん、すぐ退く」

身体が痛むのかゆっくりと動く岸本を目で追いつつ、オレにはすぐ謝れるくせに常盤さんには一言も謝罪の言葉を述べないこいつは何がしたいのかと思考を巡らせるがそれも一瞬で。岸本のこと考えたって時間の無駄だ。
岸本が退いて身体が軽くなったところで、すぐ立ち上がり教室に向かおうと階段に足を乗っけようとした、が、階段に乗っけようと上げた右足が何かに掴まれて動かない。視線を落とせば、ズボンの裾を掴む手。

「おい!オレに触んな!!」

「獄寺には触ってない!ズボンを掴んでるだけ!」

「放せよ」

「お、お願い、あたしの支えになって……」

「は?」

片足立ちになっていた身体が傾きそうになったため、上げた足を地につけ、耳を疑うような言葉を放った岸本に視線を向けた。支えになれとはどういうことか、味方になれということか?そもそも悪いのは岸本だというのに何調子のいいことを。

「ふざけんじゃねーよ」

「今、階段上がれなくて困ってて。最後上りきるのがどうしても難しいし時間もかかって仕方ないんだ……もうすぐ2時限目も始まっちゃうし、お願い!」

「(そういうことかよ)知るか。這いつくばれよ」

「えー、みっともないから無理」

お願いしますと両手を合わせて頼み込んでくる岸本に、呆れてため息が出た。ここまで必死なこいつを見るのは初めてだったので笑えてしまうが、頼む相手間違ってるんじゃないのか。いや、誰もいないか。

「今回だけ!無事上がれたら放置してくれて構わないから」

「てかおまえ、よく授業出ようとか思うよな」

「え?」

ああ、何言ってんだオレ。質問というよりも自然と漏れ出た自身の言葉に後悔しつつ、それを受けてきょとんとした表情を浮かべている岸本を見れば、数秒後には「義務教育だし」というどうでもいい答えが返ってきた。

「チッ……今回だけだかんな!」

「うわぁっ」

この場所で長々と話している方がバカらしい。座り込んで動かない岸本の腕を掴んで無理やり立ち上がらせると、「痛い」と発するその声を無視して、ものの数秒で階段を上りきる。横目で岸本を見れば、つらそうに肩で息をしていて、ざまーねぇな、と思った。

そして言っていた通り、放置を実行。蹴飛ばしてやってもよかったが、この状況で追い打ちをかける必要もない。それに熱が少しあったように感じ……た、ただの同情だ!
脳内の考えを振り払うように頭を振り、教室に向かうため歩を進めた時だった。

「獄寺!」

まだ何か用があるのか。
だが放置を決め込んでいるため、オレは振り向くことも立ち止まることもしない。

「ありがとう!今度、何か奢る!」

なんだそれは。てめーに奢られるくらいなら姉貴の……いや待て。どっちもナシだ。

イライラしたまま教室の戸を開ければ、ちょうど近くにいた10代目をひどく驚かせてしまったようだ。ああ、すみません!ちょっと嫌なことがありまして!笑顔を浮かべて教室の中へ入っていくオレに見えるわけなかった、あいつの顔なんて。

prev back next