ガラリ、
教室の戸を開ければ、もっと騒ぎ立てているのかと思っていたが、心配の声で埋め尽くされた教室は意外にも静かで。微かにすすり泣く音がした。

「常盤さん、どうかした?」

何が起きたのだろうと心配している風を装い、声をかける。
絞り出した声は震えてはいないだろうかという心配はどうやら杞憂だった。一斉にこちらに向いた視線は、どれも鋭く痛々しいもの。

「岸本がやったんだろ!?」
「いきなり叩くなんてひどいじゃない!」
「愛莉ちゃんの何が気に入らないの!?」

ああ、やっぱり、そういう話か。
頬を押さえながら教室に飛び込んできたであろう常盤が、みんなに言い触らしている様子を想像したら思わず笑ってしまいそうになったが、今すぐに敵を作るわけにはいかない、と代わりに小さく息を吐いた。

そうして息を吸い込んで。

「ツナくんたちに近寄るのが気に入らない、愛されるのはひとりで充分なんだからあんた邪魔なのよ!って、愛莉を叩いたのぉ!!……とでも、言われたかな」

「そ、それがなんだよ!」

「事実なんでしょ!?岸本さん、最近沢田たちと一緒にいたものね!」

まさか、正解なの?
誰にでも安易に想像できそうなセリフ回しなんて、常盤もまだまだ……ああ、これはまだ序章か。甘ったるい常盤の口調、そして沢田のことを「ツナくん」なんて言い放った自身の口を取ってしまいたかった。まったく気持ち悪い。

それにしても、疑うということを知らないのだろうかっていうくらいクラスメートは常盤を信じきっていて、中学3年生の脳みそは空っぽなのだろうか。まあ、それでも彼らにここ1週間の“沢田たちと行動していたあたし”がしっかりと刻み込まれてるからよしとしよう。

「優奈ちゃん、それ、本当?」

その声に視線を向ければ、眉間にしわを寄せ怪訝そうな表情をする沢田。彼の後方には山本と獄寺が立っていたが、すでにこちらを敵視しているように感じられた。

「ツナくんっ、愛莉は、ツナくんたちにとって邪魔な存在かなぁ!?」

「そんなことない!愛莉ちゃんは大切な友達だ!」

「当たり前だろ。愛莉が邪魔だなんて思ったこと一度もねーぜ」

「そうっスよ!常盤さんは10代目の大切なファミリーの一員なんスから」

ですよね10代目!と、とびっきりの笑顔を添えて放たれた言葉を受けた沢田は、もちろん困り果てている様子だった。

「あたしやってない。常盤さん、あたしはあなたを邪魔だとは思ったことない……けど、」

「けど?」

「山本と沢田はうざい」

「「なっ」」

「おいてめー!山本はいいが、10代目に向かって何言ってやがる!!」

「だって数学なら獄寺に教わればいいでしょ?それなのにどうしてあたしなのかわからない、休み時間の度に寄ってこられても困るのよ。転入して1週間経つのに、友達ができやしない」

任務遂行のために来ただけなので、友達はできなくても構わないのだが、任務を抜きにして普通の学生として来たならば、女子の友達は作りたいところ。であれば、休み時間の度に来る彼らがとっても邪魔なのは言うまでもない。

「ふぇっ……でも、どうして叩いたのぉ!?」

「勘違いしてるんじゃないの」

「か、勘違い……?」

「そう。常盤さん、軽い貧血起こしたでしょ?それで足取りが覚束なかったから、壁にぶつかったの。あたしがその瞬間その場にいたから、叩かれたって錯覚したんだと思う」

一瞬歪んだように見えた表情も数秒で消え去り、そっか、と納得したように一度深く頷くと、涙を拭いながらこちらに歩み寄ってくる。

「疑ってごめんねぇ?勘違いしたみたい」

「気にしないでいいよ」

「ほんとう?優しいんだねぇ優奈ちゃん」

ぎゅっと握られる手。傍から見れば、仲直りの握手をしている様子にしか見えないだろう。ふんわりとした雰囲気を崩すことなく、しかし、あたしの手を握る彼女のそれに込められた力は異常で。
自分で言うのもあれだが、全体的に細身でできている身体は、もちろん手も例外ではない。このままではパキリといってしまうのではなかろうかと視線を落とせば、見計らったかのようにそっと顔が近づく。


「じゃあ、お昼休みにね」


耳元で囁かれた声は、あたし以外の誰の耳にも届くことはなく。ゆっくりと離れていく常盤の表情は、自信に満ち溢れているかのような笑みをたたえていて、くるりと踵を返して席に戻っていく背中を、ただただ見つめることしかできなかった。ああ、こんなことで怯んでいたら先が思いやられる。

それからすぐに4時限目開始の鐘が鳴り、席に着いたところで先生が入ってきた。
教科は社会だったが、当然ながら授業を受けられるような精神状態ではなく、さも教科書を見ているように顔を下に向けていた。

さあ、日常が崩れるまで、あと45分。


* * * * *


屋上へと向かう階段は異様なほど人気がなく、とても静かで。ひたり、ひたりと自身の足音だけが聞こえる。
手紙に書いてあった通り、授業が終わってすぐに教室を出た。廊下側のあたしの方が先に到着してしまうのではないかと思ったが、出る間際ちらりと見た窓側の席に、常盤の姿はもうなかった。

最後の一段を上りひとつ深呼吸をしてから、屋上に出るため、目の前の重たい扉をぐっと押した。


「――っ、眩しい」

「待ってたよ、優奈ちゃん」

扉を開ければ、ここに到着するまでの薄暗い室内で目が慣れていたあたしを容赦なく襲う、太陽の光。すっと腕で影を作りながら一歩、また一歩と足を進めれば、明るさに慣れた目はしっかりと常盤愛莉の姿を捉えた。

「あたしと何の話をしたいの?」

「あんた本当に生意気ね。愛莉が貧血を起こして頬を壁にぶつけたですって?そんなどんくさいこと、するわけないじゃない」

「それより驚いたんだから、頬なんて叩いてもないのに濡れ衣を着せられて。貧血の話を思いついてよかった」

もしあの場で、「常盤が自分の頬を叩いた」と真実を口にしたところで信じる者はいないのだ。正直、あの休み時間に敵ができようが、昼休みに敵ができようが誤差でしかないのだけれど、それでもまだ我が身が可愛い。少しでも時間を延ばせるなら嘘だってついてやる。

「はぁ……笹川京子なんてすぐに怯えて何も言えなくなったのに、なんなの優奈ちゃん?」

「……」

「ねえ、ツナくんたちに言われたでしょ、笹川京子には近づかない方がいいって。そりゃあ愛莉をいじめるんだもん、当たり前よねぇ。でもおかしいの、学校に来てるはずなのにどこにもいないのよ。何か知ってる?」

「さあ?でもそれ逆だよね。笹川さんをいじめてるの、あなたでしょ?」

「驚いた?ふふ、あの子ともゲームをしたの。だって学校にお姫様は二人もいらないでしょ?ちょっと突っついたらすぐに崩れ落ちちゃった、何もかも。面白かったなぁ、信じていた人たちに裏切られた瞬間のあの子の顔、どん底に落ちていく感情……ああ、思い出すだけでもぞくぞくしちゃう」

「……何が、したいの」

「秘密。でも最近つまらなかったのよ、不登校になっちゃうから何も進展がなくって。でもね、優奈ちゃんが来てくれた」

くつくつ喉の奥で笑いながら、おもむろに制服のポケットに手を伸ばす常盤。そこから出てきた物は、カッターだった。
顔の近くでツツツ、と太陽の光によってキラキラ輝く鋭利な刃を出しながら微笑む。

ああ、この人もマフィアなのだ。
目的を達成するためならば手段を選ばない。

「同じようなことしてあげる」

「……自分の腕に刺すの?」

「ご名答。そうすれば今度こそ確実に地獄に落ちる……序章もそのためにやったの。さっきのこともあるし、もう何を言っても無駄だから」

カッターを腕に突き刺すためにだろう、握り方を変え、すっと振り上げる。そこで止めに入ろうだなんて思わない。近くに寄ってしまえば、それこそ彼女の思うツボだ。

そうして躊躇なく振り下ろされたカッターは、ぐさりと彼女の左腕に突き刺さった。当然、そこからは鮮明な血が溢れ、ぽたりぽたりと床に滴り落ちる。久々に見る、真っ赤な血だ。


「痛くない?」

「なっ、んで驚かないの!?まぁ、いっか、別に……っキャァアアアアアア!!」

耳をつんざくような悲鳴を上げ、腕を押さえてその場に力なく座り込む常盤の口元は、歪んでいた。
静まり返った屋上。きっと、先ほどの悲鳴を聞いた生徒たちがここまで来るのにはもう少し時間がかかるだろう、と思っていた矢先だった。

重たい扉が勢いよく開いた。

「今の叫び声……!愛莉ちゃん!?」

「なっ」

「愛莉!大丈夫かよ!!」

見れば、お弁当を持った沢田たちだった。
この現場の第一発見者になるとは、なんて偶然……いや、常盤は知っていたのだ、お昼を食べるために彼らがこの場に来るということを。
彼らは血相を変えて、泣きじゃくる常盤のもとへと駆け寄った。

「何があったの!?」

「ツナくん……あの休み時間の時にねっ、優奈ちゃんにお昼休み屋上に来てって言われてっ、それで来たら、急にカッターを取り出して!邪魔なのって、愛莉の腕を……!」

「カッター……」

そう言われてから気づいたのか、沢田たちは揃って床に落ちている、血がべっとりと付着したカッターに視線を向けた。それからゆっくりと、その目はあたしを捉える。

どくん、どくんと心臓の音が大きくなる。
さて、何を言われるだろう。彼らに見えぬよう、ぎゅっと拳を握りながらその時を待った。

「……」

「おい、常盤さんに何してくれてんだ」

「あたしは何も」

「嘘つくんじゃねぇ!やっぱり、さっきもてめーが常盤さんを叩いたんだろ!?」

最初に口を開いたのは獄寺だった。前から気になっていたのだが、「常盤さん」って呼ぶあたり、信頼しきってるのだろうか?
だとすれば、右腕として失格。

「知らない。自分で勝手に刺したの……さっきのも、自分でほっぺ叩いたし、」

「岸本、おまえ最低だな」

常盤を心配するように片膝をついていた山本がすっと立ち上がり、獄寺と一緒にじりじりとこちらに寄ってくる。あの爽やかな笑顔は幻か何かだったのだろう、と思いたくなるほど、山本の表情は怒りに満ち溢れていて恐ろしいものだった。

「優奈ちゃ……いや、岸本」

「そう、沢田もあたしを信じてくれないんだ」

「っ友達だと思ってたのに!」

「あたしが嘘をついてるって言うの?」

「そうだよ」

ああ、そう、即答するんだねあなたは。
嘘は嫌いだと言ったはずだけれど、覚えているわけないか。

3人があたしを取り囲み始めると同時に、屋上の扉が開いて多くの生徒たちがぞろぞろと入ってきた。まるで見物にでも来たかのよう。やっぱり頭の中、正常な判断ができないようにいじられちゃったのではないだろうか。そんなことを思いながら生徒たちをちらりと見て、目の前の沢田に視線を戻した。

「あたし、風紀委員なんだけど」

「ケッ、ヒバリなんざ怖かねーよ!」

「いっ!」

足の脛に、鋭い蹴りが入る。あまりの痛さにしゃがみ込んで手で押さえるが、じんじんと痛みは広がるばかり。

もう少し本格的に鍛えてもらえばよかっただろうか。でもこんな細身ではどうしようもなさそうだ。物を避けることに関しては言うことなしなんだけれど、さすがに一般人だと思い込まれているのに俊敏な動きなんてしたら怪しまれてしまうから、受け入れなければいけない。
雲雀さんの名前を出したところでこいつらには効果はないし……ああ、痛いなあ。

「愛莉の方がもっと痛い思いしたんだぜ?」

「岸本も、その痛みをわかった方が反省するよね」

しゃがみ込んだまま、受け身の態勢すら取る暇もなく、彼らの拳や足が身体を襲う。
ガッと腰の辺りを蹴られ、衝撃に耐えきれず手のひらを床につけば、ガラ空きになってしまった腹部に思いっきり誰かの足先が食い込んだ。

「あ゛っ……ぐ、ぅう……!」

やれ、やれ!と生徒たちが煽り立てる声が、遠くに聞こえる。げほっ、と咳き込めば、床に血が落ちた。
何発か、何十発かわからない衝撃に、身体の感覚が少しずつ麻痺していく。ああ、このまま意識を飛ばせてしまえたら、どんなに楽だろう。しかし、意識を飛ばすことは許さないというようなタイミングで甲高い声が耳に入ってきた。

「もうやめてあげてぇ!!」

「!? こんな時まで優しくする必要なんか」

「でもっ、それ以上やったら、優奈ちゃん死んじゃうかもしれないよぉ!?」

その言葉で動きがぴたりと止まった。

「10代目、どうします?」

「……岸本、今すぐ愛莉ちゃんに謝れ。そしたら今回のことは、見逃す」

「ツナ、それでいいのかよ」

「だって愛莉ちゃんがこれ以上望んでいない。ねえ、早く謝って」

「う゛……」

下に向いていた顔は、髪を鷲掴みにされたことで無理やり持ち上げられる。
目の前には沢田の顔。

なんて恐ろしい表情だろう、沢田綱吉。

「早く」

「……れ、がっ」

「?」

「誰が謝るもんか!!」

蹴られた痛みでお腹に力が入らなかったが、それでも精一杯、叫んだ。もう立ち止まれないことに怯える自分自身を打ち消すように。

「なっ、せっかく10代目が許してくださるってのに出た言葉がそれかよ!?」

「当たり前だ!何もしてないのにどうしてその女に謝る必要があるのか意味がわからない!あんたたちは何もわかってない、あの女に近づくより笹川さんに近づいた方がよっぽど、」

パシィンッ、乾いた音が響く。

「いっ‥たぁ……」

獄寺を睨み畳みかけるように言葉を吐き続けていたが、それは強制的に止められた。ひりひりと痛む頬に顔をしかめながら、乱れた髪の毛の隙間から、沢田を睨む。

「それ以上何も言うな!!オレがせっかくチャンスを与えたのに、きみは踏みにじった」

「だから何」

「っ、これからは容赦しない」

掴まれていた髪がぱっと放されて、あたしはそのまま倒れ込んだ。
腕から血を流す常盤を連れて沢田たちは屋上から出ていく。そうして、それまで取り囲んでいた生徒たちも、まるでお祭りが終わって退屈になってしまった、というような言葉を交わしながら、消えていった。

すっかり静かになった屋上。
腕の力を使い、うつ伏せの状態から仰向けへとゆっくり体勢を変えて、息を吐く。

「いっ……たたた、」

目の前に広がるのは、雲ひとつない青く澄み渡った大空。

ねえ、大空ってさ……
すべてを飲み込み包容してくれる温かい存在だよね?

あの沢田はどう見ても正反対だ。
飲み込むことはしても、包容せずに突き放す。


「この任務、思ってたより、最悪かも」

それでも、彼らから離れるわけにはいかなかった。護衛をするようなタイミングがあるのかどうかわからないけれど、見定めなくてはいけないし、常盤の正体も暴かなければいけない。
それにあたしが任務放棄で消えてしまったら、せっかく標的から外れるというのにまた京子に戻ってしまうかもしれない。それだけは阻止しなければ。

腕で目を覆い、きゅっと唇を噛みしめていると、仰向けになっているあたしの頭上で大きな音がした。はっとして見上げれば、肩で息をしている花が立っていて。駆け寄りあたしの身体を数秒見つめて、力なく座り込む。

「あんた……っバカじゃないの!?」

「……泣いてるの?」

「ちっ、違うわよ!汗よ、汗!」

「汗は目から出ないよ」

じわりと滲んでいた涙は、ついにぽろぽろと彼女の頬を伝い落ちた。

「本当に、大丈夫なの?」

「うん、大丈夫」

「バカ。その傷で大丈夫なわけない……あんた細身だから、骨とか折れてるんじゃないの」

「たぶん、そう簡単に折れないよ」

折れて入院なんて笑えない。強くありたい。
泣いている花に向かって小さく微笑み、それから視線をまっすぐと青い空に投げて。

「明日から京子は安心して登校できるよ」

「でもっ、」

「心配しないで。あたしは平気だから、今回のことは京子には内緒ね」

この身体だしバレるのも時間の問題かもしれないけどねと小さく笑って言えば、肩を軽く叩かれた。

「つらくなったらちゃんと言って」

「え?」

「いつでも支えになるって言ってんの。一回で聞き取りなさいよ!」

腕で乱暴に目元をこすり涙を拭う花の姿に、じわりと胸の奥が熱くなる。大丈夫、へこたれたりなんかしない。


「花や京子がいてくれれば、それだけで充分」

守らなくちゃいけない人がいる。
そのために日本に来たのだ。こうなることの覚悟もしっかりと決めて、今、ここにいる。

常盤愛莉、
必ずあんたの正体を暴いて、追い込んでやる。

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