最悪だ。家の鍵が見当たらない。
バッグの中身を全部ぶちまけて必死で探す。無い。無い。うそでしょ。朝家を出るときに鍵をかけて、そのままポーチに入れて、そのポーチを会社のお化粧室に持って行って、そうだ、そこで清掃のおばさんとぶつかって、お互いの荷物を散乱させて、あ〜〜あの時だ。地面に散らばる荷物を呆然と見つめる。どうすんの。あのおばさんが気付いて会社の総務とかに届けてくれてたらいいけど。どのみち今日は家に入れない。ホテルか、友達の家か。いや、正直泊めてくれるような関係の友達は東京にいない。地方の大学に行ったお陰で今も連絡を取ってる友達はみんな県外だ。敢えて挙げるのなら、零くらいしかいない。いや、高校の頃なら泊めてくれただろうけど、大人になった私を泊めてくれはしないだろうな。私も泊まろうとは思わない。思わないけど。
ホテル行こう。カプセルでいいや。散らかった荷物を片付ける。鞄にポイポイと放り込んで行く。手帳を手に取ったとき、ストンと何か硬い紙が落ちた。なにこれ。
「あ…」
いつか零からポアロで押し付けられたコースターだ。手帳に挟んだままずっと忘れてた。手にとって裏面を見ると、電話番号とメールアドレスが書かれていた。
要らないはずなのに、ずっと持ってたんだ。零の字、昔からきれいだ。零の書く字が好きだ。少し滲んだインクを指でなぞる。私がポアロに通ってたのが随分昔に感じられる。
駅の近くにカプセルホテルがあったはず。タクシーに乗るまでもない距離だ。歩こう。
人も少ない時間で、少し不安だった。誰かと電話しながら歩こう。仲良しの会社の同期にかけた。数ヶ月前までは同じ職場で働いてたはずなのに、私はいつの間にか東京本社勤務。久しぶりに声が聞けるかと期待したけど、繋がらなかった。風呂の絵文字が送られてきた。タイミングが悪かった。
零にかけてみようか。忙しいだろうか。いや、そもそも私の電話に出るだろうか。例え繋がったとしても何をどう話せばいいんだろ。いや、話したいことはある。あるけど、今じゃないでしょ。でも、なんか、そう、少しだけ。何がって言われたらうまく言えないけど、今かもって気持ちも少しだけある。
カバンにしまった手帳を再び取り出す。一番最後のページに挟んだコースターを持つ。じわりと汗をかいたような気がした。やだ、何で緊張してるんだろ。いや、当たり前。緊張して当たり前。
携帯に番号を打ち込む。やはりというか当然というか、私の記憶にある彼の電話番号とは変わっていた。学生時代、目をつぶってでもかけることができたあの番号は、もう零には繋がらないんだ。
発信ボタンを押すだけ。それがどうしてもできなくて、何度も消して、何度も打ち直した。そうこうしている間に、大通りに近付いて、もう誰かに電話する必要もないなってことはわかった。だけどこのタイミングを逃したら、私が零に電話できる日は来るのか。来ないだろうな。
覚悟を決めて、発信ボタンを押した。
出ないかもしれない。いや、8割、出ない。わかってる。こんな緊張しても無駄だ。どうせ出ない。期待するな。出ない。出ない。出ない。