沖矢昴が言った「おかえりなさい」という言葉に対しての返答はなかった。これからは無理にでも「ただいま」と言う習慣をつけさせよう。服を買いに行こうと誘えば「要らない」と言う。欲しがっていたと聞いたが、違うのだろうか。いつもは何も要求しない幼い同居人に、何かを求められてみたい。彼からの連絡がきっかけで、今はそう考えるようになった。
夕食の買い出しでスーパーにでも行けば、ジュースが欲しいとか、チョコが食べたいとか、今日の夕食で食べたいものとか、何かしらの要求があるだろうと思った。家で留守番すると言う彼女を引っ張り出し、無理やり連れ出した。
カートを押す俺の後ろに名前がついて歩く。ちらりと確認すると、売り物に興味を示していた。スーパーに連れて来たのは初めてだったが、正解だったかもしれない。そう思ったが、アレが食べたいコレが欲しいという言葉がいつまでたっても全く出てこない。行動を見ていても、何かを注視することもなければ、どこかへ行きたいとソワソワする様子も無い。何かを欲しがるということを知らないのだろうか。人生では、自分から求めなければ何も手に入らない。これはもしかすると、俺は教育しなければならないのだろうか。この少女の保護者として。
とりあえず今日のところは彼女の好きなものでも買って帰ろう。
そう考えて、気付く。好きなものどころか嫌いなものすら何も知らない。出した料理は全て食べていた。俺は名前の行動を監視して、何もかもを知った気になっていたが、何も知らないのではないだろうか。突然同居することになった沖矢昴という他人に遠慮して、嫌いなものも我慢していた?俺の生活に何も口出ししない、いい同居人だと思う。しかし、甘えられる環境を作ってやらなければならないと先ほども思ったばかりだ。
まずは、嫌いなものを知ろうと考えた。食べられないものはあるかと尋ねると、真剣に悩みだした。思い浮かばないのだろうか。
ちょうど目の前に三つ葉が売っていたので、これはどうかと尋ねると、食べれると言う。少し進んだ場所にセロリが置いてある。これも食べれると言う。野菜で嫌いものは特にないと言うことだろうか。まだ苦手な味がするものに出会っていないとか?
あと子供のうちに嫌いそうなもの…明太子を手に取りちらりと様子をうかがう。食べれるという意味を込めて名前は頷いた。そういえば明太クリームパスタを作ったな。食べてたな。カゴに入れた。
ほかに子供が苦手そうなものといえば。
「辛いものも食べられますか?」
「多分食べたことがないからわからないけど、大丈夫な気がする」
なんとも曖昧な返事だ。多分食べたことがない?大丈夫な気がする?
今夜はチゲ鍋にする。名前が辛くて食べられないと言ったら明太クリームパスタを作ってやろう。
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「おいしいです」
チゲ鍋を普通に食べた。二人でつついた鍋はもうほぼ具材がなくなっている。たまに口の周りがヒリヒリすると言っていたが、余裕の完食だ。俺は舌が痛い。
結局今日の収穫は何一つない。長ネギを大きめに切って入れたが食べていたし、きのこも食べていたし、ニラも食べた。ジッと鍋を見つめていたようで、名前が声をかける。
「昴さん、今日ちょっと変だよ」
「そうですか?」
「何かあったなら言ってね」
「ええ、あなたも」
正直もう何もなくても何か言って欲しい。あれが欲しいこれが欲しいとわがままを言って欲しい。俺はこの少女に何をすればいいのかわからない。
俺が考えるそぶりを見せていると、名前が口を開いた。
「この残ったスープにご飯とチーズ入れてリゾットにするとおいしいよね」
「そうなんですか。僕は試したことはありませんが…それは誰と食べたんですか?」
「えっ 誰って、そりゃ、…確かお店の人が作ってくれたよ」
「それはいつ?」
「むかし」
辛いものは食べたことないと言っていなかったか。多分とも言っていたが、食べたことあるのか。むかしっていつだ。ここに来る前のこと、覚えているのか。すごく些細な、嘘とも呼べないような小さなことだが、どうしてごまかしたのか。
また色々考えなくてはならないことが増えそうだ。