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【湊視点】

弓道部には入らないと決めていたのに、逃げ出した先でつい追ってしまったのは誰かの弦音だった。

昔に聴いたあの音とは違ったけど、とても美しい音で。その音を追って出会ったのがマサさんだった。

早気を治すため、マサさんのところに通い始めて数日。

夜多の森弓道場から聞きなれない弦音が聞こえてきた。地元の弓友会の人かと思ったが、活動時間はとっくに過ぎている。

弓道場の扉を開いて中を覗くと、そこにいたのはいつものマサさんではなくて、綺麗な女の人だった。

道場の電気は点いておらず、月明かりだけが彼女を照らしている。

透き通るような白い肌。神秘的な雰囲気を纏っていて、そのまま透明になって消えていきそうな儚さがあった。

残心を終え、弓倒しをした彼女が静かに物見を戻す。

「……あ」

入口に立っていたおれと目が合った。

「鳴宮くん?」

突然名前を呼ばれて混乱する。

もしかしたら知り合いかもしれないと思い彼女の顔をもう一度見ると、1人のクラスメイトを思い出した。

「…………滝川!?」

おれの見間違いじゃなければ、目の前で弓を引いていたのは滝川藍だ。

「何でここに……」

滝川は弓を置いてこっちにやってきた。

クラスメイトとはいえ滝川とは話したことはない。入学後最初のHRで自己紹介を聞いたくらいだし、名前順で静弥の前の席だったから覚えていたようなものだ。

それに弓道部の説明会で見かけはしたけど制服姿で、経験者だとは思っていなかった。

「弓引きにきたの? まだ一般利用できる時間だし、どうぞ」

そう言って滝川は入口から離れて道場の中に行ってしまった。案内されては立ち去ることもできず、とりあえずおれも中に入ることにした。

「道具は貸出用あるし、自分の持ってなくても大丈夫だよ。15kgなら確か2張あったっけ」

「待ってくれ! というか、滝川は何でそんなにここのことに詳しいんだ?」

滝川はキョトンとした表情を見せた。

「私、ここ、実家」

「…………えっ!?」

「正確には神社の方だけど。巫女なんだよねー」

さっきまでの神秘的な雰囲気はどこへやら、話してみると意外と親しみやすい。

それに、実家に弓道場って。正直ちょっと羨ましかった。

しかし、神聖な神社の弓道場で一瞬でも滝川の巫女姿を想像してしまったことに罪悪感を覚える。今も袴姿ではあるけど。

「し、知らなかった」

「あはは、知ってる人いないって。――で、鳴宮くんはどうしたの? 弓引きにきたんじゃないの?」

「えっと……」

弓を引きにきてはいたが、肝心のマサさんがいない。

「滝川は、いつもここで練習してるのか?」

「ん? うん、時々ね」

「弓道部は?」

「入ろうかなとは思ってるよ。鳴宮くんは? 勧誘されてたでしょ、山之内くんに」

「おれは……」

「余計なお世話だとは思うけどさ、早気を治したいなら入った方がいいと思うよ」

「…………」

「まあ、無理にとは言わないよ。引きたくなったらここに来ればいいし」

「ああ……」

静弥や遼平みたいに勧誘してくるのかと身構えてしまったが、よく考えたらほとんど初対面のおれにそんなことはしないか。

「あのさ……滝川が引いてるところ、見ててもいいか?」

「えっ、と……どうして?」

「あ、いや、変な意味じゃなくて! その、弦音が……」

「弦音?」

「ああ。きれいな音だと思って、見にきたんだ。まさか滝川だとは思わなかったけど」

「そっか」

滝川は笑ってくれたが、何故か悲しそうにも見えた。何かまずいことを言ってしまったのかと焦ったが、もうそんな表情はしていなくて、確かめることはできなかった。

「一手だけなら。今日はそれで終わろうと思ってたし」

そう言って滝川は弓矢を取り、本座に入って揖をする。

射法八節は流れるように行われ、動作に途切れがない。綺麗に引き分けられた会に思わず見とれてしまった。

一射目、放たれた矢は霞的の中央に中った。

続く二射目もお手本のような動作で引き分けられた。しかし、弓手が震え、会が不安定で短く、矢勢の落ちたそれは掃き矢となった。

射位から下がり、弓を置いた滝川は恥ずかしそうな表情で言った。

「ごめん、私、一射しかまともに引けないの」

「え……」

「昔の事故の後遺症で、左腕が悪くてさ。連続で引くとああなっちゃうんだよね」

「えっ。わ、悪い! 知らなかったとはいえ、無理させたよな」

「いいのいいの! 一手引いたのは自分だし。それに事故って言っても小学生のときのことだから」

慌てておれをフォローした滝川だったが、同時に、おれが弦音を褒めたときに見せた悲しげな表情が見間違いなんかじゃなかったことを理解した。

「褒めてくれてありがと。ほんとに悪いと思わないでね、褒められて調子乗っただけだから」

「……ああ、わかった」

小学生時代の事故なんていう嬉しくない共通点に驚いたが、大怪我をしたとはいえ幸い弓道に影響のなかったおれがそれを言い出すのはなんだか憚られた。

「じゃ、鳴宮くんも一手引いてね」

「えっ」

「引いてくれたら道場の使用料タダにしてあげる」

「いや、使用料くらいちゃんと払うって……」

「ふふっ」

からかわれているだけだと気づいた。だけど不思議と、引いてみてもいいかもしれないとも思った。

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