善逸は耐えられない
鳴柱・時雨木明野が継子をとったという話は、またたく間に隊士たちに広まった。
そしてその継子とは、明野の弟弟子であった我妻善逸である。
……というところまでは、知られていなかったが。
「善逸! 明野さんの継子になったって聞いたぞ! すごいじゃないか!」
炭治郎は、蝶屋敷で善逸の姿を見つけるとすぐに声をかけた。
ちなみに炭治郎がこのことを知っていたのは、たまたま会った義勇から聞いたためである。
その話をしたときの義勇からは明らかな嫉妬の匂いを感じていたものの、それはわりといつものことだったので、おおむねめでたい話だと捉えていた。
「そういえば善逸、最近姿を見なかったけど、明野さんの屋敷にいるのか?」
炭治郎の呼びかけに振り向いた善逸は、顔色が悪かった。目の下には濃い隈ができている。
「善逸、顔色がひどいぞ! 具合悪いのか?」
「…………だよ」
「え? ごめん、よく聞こえなかった」
「……最ッッッ悪だよ!! なんなんだよアイツ、柱だかなんだか知らねえが、俺のねえちゃんを毎日毎日独占しやがって!! 継子になったらねえちゃんに毎日よしよしされながら守ってもらえると思ってたのにいいぃぃぃ!!」
「え? あー……」
炭治郎はなんとなく察した。
――明野さんの屋敷には、いつも冨岡さんがいるんだな……。
善逸が姉弟子のことをいたく気に入っているのは鬼殺隊では周知の事実だった。善逸が明野に会うたびに騒ぐからだ。
しかしそれと同じくらい、いやそれ以上に有名なのは"鳴柱に手を出すと水柱に消される"という噂、というか事実だった。
善逸が消されていないのは、明野の弟弟子で、明野に可愛がられているからだ。善逸に危害を加えては明野が悲しむ。
ちなみに冨岡は別に善逸のことを嫌っていない。
善逸もそれは音を聞いてわかってはいるが、いかんせん嫉妬と牽制が強く明野に近づけないことを嘆いていた。
*****
善逸にとって明野とは、無償で自分に優しく接してくれた初めての女の子だった。
求婚には応えてもらえなかったが、同じ育手のもとで一緒に厳しい鍛錬を乗り越え、突然抱き着いても怒らず、甘えれば甘やかしてくれる明野のことを、善逸は本気で好きだった。
兄弟子の獪岳は気難しいところもあったが、明野の前では幾分柔らかい表情を浮かべることが多かったと記憶している。
育手のもとに来る前からどこかで鍛錬を積んでいたという明野は成長も早く、善逸や獪岳よりも先に最終選別に向かった。
そしてその日に聞かされた。明野が雷の呼吸の継承を断った、と。
善逸たちは当然明野が継承者になるのだと思っていた。弟子の中で誰よりも呼吸を使いこなしていたからだ。
自分たちのように一部の型が使えないという弱点もなければ、育手の桑島からも"教えることはもうない"とまで言われていた。
"雷の呼吸はたまたま適性があったから習得しただけ"、と突き放すような断り方をしたと聞いたが、その真意は別にあるような気がしていた。
結果としてその継承権は善逸と獪岳に渡されることになったが、それは決して明野の代わりではないと言われていたし、少なくとも善逸は納得していた。
ともあれ最終選別を生き残った明野は、
あとから聞いた話だが、最終選別を受けるまで通常1年程度かかると言われる修行に、明野は3年近くをかけていたらしい。育手のもとにいた期間はそう長くはなかったし、それまでどこでどんな修行を積んでいたのかも聞いたことはなかったが。
そして選別を終えて無事帰って来た明野。
手にした日輪刀の黄色い刀身と稲妻の紋様を見て皆で喜びあった光景を、善逸は今でも昨日のことのように思い出すことが出来るのだった。
*****
なぜこうも長々と昔話を思い出していたのかと言えば、現在善逸は非常に気まずい状況に置かれているからだった。
「…………」
明野の屋敷で、冨岡義勇と2人きり。
――何なのこの人、何でずっと黙ってんの? どういう感情なのその顔?
目の前に座る冨岡からは、別段特殊な音は聞こえない。まさかの平常心だ。
善逸は継子になるやいなや、住家を明野の屋敷に移そうとした。
明野も快諾し、さっそく屋敷を訪れてくつろいでいたところに、冨岡が現れたのだ。
ちなみに明野は甘露寺とお茶の約束をしていたとかで、夕方頃に帰る予定だと聞いている。
善逸は屋敷への出入りの許可をもらい、昼頃からうろうろと散策していた。
そして玄関口の開く音を聞いて明野かと思い出迎えに行ったところ、冨岡と鉢合わせた。
――え、なんでこの人ねえちゃんいないのに来たの? ていうか、勝手に上がってきたよね?
鉢合わせた際は冨岡から驚いたような音のあと、明らかにがっかりした音が聞こえたため、善逸はもっと驚いたしもっともっとがっかりした。
ものすごく小さな会釈をして上がり込んできた冨岡は、客間に座布団を敷き、茶を淹れ始めた。
呆然と眺める善逸。
意外なことに、冨岡は善逸の分も茶を用意していた。
「あ、ど、どうも」
「明野が戻るのは夕方頃だろう」
「あ、はい、俺もそう聞いてますけど……」
「そうか」
意外と話しかけてきた冨岡に、善逸はいつも通り怯えていた。
――この人、もしかしてねえちゃんが帰ってくるまで居座るつもりか?
そんな恐ろしい想像をしながら、出されたお茶を仕方なく啜った。味などするはずが……いや、意外とおいしい。それはそれで腹立つんですけど!? と、善逸は八つ当たりに近い理不尽な怒りを感じていた。
「継子になったそうだな」
「エ"ッ!? あっ、はい! すみませんでした!」
急に謝った善逸に冨岡は戸惑ったが、そういえばこいつはいつも挙動不審だったと思い出して納得する。
「お前は柱にはなれないが……続けるといい」
冨岡は無表情のままそれだけ言うと立ち上がり、湯呑を下げに台所に向かった。
「……はぁああああ!?」
――なんだよそれ!? ていうか続けるって何を? せいぜい無駄な努力でもしてろってこと!?
善逸は冨岡の言動の意図を何一つ理解できなかったが、聞こえてくる音は純粋に応援しているような感じだったので、かなり混乱した。
ちなみに冨岡はこう言ったつもりでいる。
『雷の呼吸の使い手である以上、明野が生きている間は柱にはなれないが、柱になることが全てではない。明野はお前に期待している。これからもぜひ頑張って鍛錬を続けてほしい』
案の定正しく伝わるわけもなく、冨岡はただでさえ低い善逸からの好感度をさらに下げる結果になった。
それから、湯呑みを片付けた冨岡が次は何をしでかすのかと恐る恐る観察していた善逸。
冨岡は静かに、しかし迷いなく閨へ向かった。
「少し寝る。好きに過ごせ」
「は!? 寝る!? ねえちゃんの布団で!?」
「……俺のだが」
善逸の驚愕した表情に対して、冨岡は不思議そうにしながらも閨に入って襖を閉めた。
…………。
――アイツ、本当に寝やがった……!
善逸にとって冨岡は、柱である以前に"ねえちゃんを攫ったどこの馬の骨とも知れない男"である。そこに敬意などない。
それが"好きに過ごせ"などと、まるで家主であるかのような発言をする。明野の閨に冨岡の布団が当然のように置いてあるのも許せなかった。
とはいえ言うまでもなく冨岡特有の説明不足であり、彼は善逸を気遣ったつもりでいた。
『疲れているので明野が帰るまで少し眠らせてもらうが、後から来た俺のことは気にせず好きに過ごすといい。多少の騒音は気にしない』
冨岡は、善逸のことを嫌ってはいないのだ。
なんなら、明野の弟弟子である以上は自分にとってもいずれ義弟に近い立場になるのだから、仲良くできたら幸いだとさえ考えていた。
……全く伝わってはいなかったが。
*****
善逸の葛藤は明野が帰宅するまで続いた。
屋敷に近づく軽い足音が聞こえ、玄関に駆けつけた善逸。
「ねえちゃん、おかえり!」
「わ、善逸。待っててくれたの? ただいま」
――最高だぁ……帰ってきて一番に出迎えるなんて、まるで夫婦じゃないか。もう実質結婚だよねこれ。
でろでろに溶けた善逸を不思議に思いつつ、着物姿の明野は
「ねえちゃん、はい」
善逸は手を差し出して、草履を脱ぎ終えた明野を立ち上がらせた。
「ありがとう」
善逸らしからぬ紳士的な振る舞いに明野は首を傾げたが、深く考えずに家に上がる。
「そうだ。善逸、どの部屋を使いたいか決まった?」
「ねえちゃんの隣がいい!」
明野と2人きりの空間にはしゃぐ善逸。
茶は先ほど飲んだばかりだが、どういうわけか今のほうが美味しく感じる。冨岡の淹れたものと茶葉は同じだとかそんなことは関係ない。明野が淹れた茶であることが重要なのだ。
明野との同居の話がどんどん具体的になっていって嬉しい。
寝ている冨岡を起こせばこの空間が失われてしまうため、声は控えめにしていた。
声が響きそうな広い屋敷だ。いつものような大声を出さないようにするのが大変だった。
柱になったとき、明野は屋敷を与えられた。大きな屋敷は持て余すからと、当初は非常にこじんまりとしたものを希望していたが、結果として建てられたのは部屋をいくつか余すほどものだった。
宇髄の仕業である。もう派手派手であった。しまいには外壁を黄色く塗装しようとしたので必死に止めた。
そういうわけで、継子となった善逸に持て余している部屋を1つ与えることにしたのだ。
ちなみに明野の隣の部屋の片方は冨岡が使っているため、2人で明野の部屋を挟む形となる。善逸はそれを知らない。
「いいよ。荷物とか、好きなときに運んでね。あと、必要なものはある?」
「布団! 布団! 俺の布団!」
冨岡の行動を思い出して、善逸は自分の布団も閨に置いてもらおうと画策した。
明野はそんな理由は知らないため、なにか布団へのこだわりがあるのかと勝手に解釈したが。
「じゃあ買いに行こっか」
「今!?」
「うん。だめ?」
「行く! すぐ行く!」
善逸は、明野の前ではかなりかわいこぶっている。
炭治郎や伊之助はこの姿を見てすごく怪訝な顔をする――伊之助に至っては正直に"気色悪ぃ"と吐き捨てる――が、明野に甘やかしてもらうためならそんなことは気にならなかった。
――ねえちゃんと2人で買い物! しかも布団! お店の人にも夫婦だって思われちゃうよねえ!?
しかし、そううまくいかないのが現実である。
「俺も行こう」
「あ、義勇。おはよう」
「ああ。おかえり」
「キィーーーー!!」
「どうしたの善逸」
善逸は悲しみのあまり奇声をあげて転がった。
寝起きの頭に響く汚い高音に冨岡は若干顔を顰めつつ、明野の隣に腰を下ろす。
「善逸、暗くなる前に行こ。今日の寝床なくなっちゃうよ」
「う"ん"……」
涙と鼻水を垂れ流しながらも明野の誘いにはしっかり頷く善逸。
「じゃあ義勇も準備して――って、寝癖ついてる。ふふ」
「……すまない」
その横で、冨岡のはねた髪をちょんちょんとつついて遊ぶ明野を尊び、男たちは思わず天を仰いだ。
「布団を買いに行くんだろう。早く行くぞ」
そして上機嫌になった冨岡はさっさと身支度を始め、明野もそれに続く。
善逸のぐしゃぐしゃになった顔面は、明野の手によりちり紙で適当に拭われた。
*****
夜は全員任務があったため、隊服に着替えてから出かけることになった。
明野の隊服はいつ見ても破廉恥だ。と、善逸は喜んだ。
恋柱の隊服も似たようなものなので、2人揃っているところを目撃できるとその日は良い事が起こるらしい――という噂を善逸は聞いたことがある。
冨岡はこの隊服には当初猛反対したが、開いていた上着の釦を無理やり留めようとしたところ、弾け飛んだ釦が顔面に直撃し流血した。思わず放心、硬直する冨岡の止血を仕方なく行った胡蝶には呆れられ、以降は諦めている。
その釦は留まらないから開けていただけであり、明野とて留まるなら留めたかった。
その後縫製係の隠には胸囲が合っていないことを相談したが、"いいえ? 合っていますが? それはそうやって着るものです素晴らしいです水柱も喜んでましたよ!"と一蹴された。
絶対嘘じゃんとは思ったが、水柱が喜んでいるならいいか……とも思った。あと、その派手な意匠は自身が着ることを度外視すれば気に入っていた。
ちなみに宇髄もまた立派な胸筋で釦を飛ばしたことがあり、師弟だなあ、と明野は思った。そういえば、袖のない隊服を渡されたのは宇髄の継子になってすぐのことだったかとも思い出す。
善逸はそんな明野の胸元に飛び込むのが好きだった。それを毎回阻止せんとする冨岡も、人目のないところではだいたい同じようなことをやっているのだが。
「ねえちゃん、あのさ……」
「何?」
「手ぇ繋いでいいかな? 迷子になったら困るしさ……」
善逸はかわいこぶった。自身より背の低い明野に対し、覗き込むようにして上目遣いでおねだり。
これは身長差の大きい冨岡にはできまいという算段である。
明野は"何でよく通る道で迷子になるんだろう"と思ったが、善逸は女の子を見つけると突進して行くのではぐれる可能性はあるな、と迷う。
ちなみに明野はそもそも善逸のことを"かわいい弟弟子"だと認識しているため、このぶりっこに大して効果はない。
ともあれ即答しなかった明野に、冨岡の眉間の皺は深まった。判断が遅い。
「不要だ。行くぞ」
(明野も我妻も迷子にならないように俺が見張っておくし、年下なのだからそんな気遣いは不要だ。任務に遅れてまで布団は買えないが、買えなかったらお前も困るだろうから早く行くぞ)
冨岡は明野に返事も求めず、手を握って歩みを速める。
そしてその場に残された善逸。
「あーそうですか! 俺は不要ですか!! チクショォォォ!!」
今の善逸には音から真意を判断する余裕はなく。
そして冨岡は、またしても誤解を生むこととなった。
*****
かくして無事布団を購入した3人は屋敷に戻った。
早速閨にそれを運び込もうとする善逸を止めたのは冨岡だ。
「待て。布団は自室だ」
「えっ。閨に置くんじゃないの、ねえちゃん?」
「あー……うん、そうだね。部屋のほうがいいと思う。押し入れあるから場所は取らないし」
――でも冨岡さんの布団は閨にあるじゃん。
と聞きたかったが、善逸は我慢した。明野が本気でそうしてほしそうだったからだ。音でわかった。
「うん、ねえちゃんが言うならそうするよ」
突然物分かりのよくなった善逸に驚きつつ、2人は安堵する。
冨岡と明野は内心冷や汗をかいていた。善逸を邪険に扱う気はないが、まさか弟弟子の寝ている真横で閨事には至れまいと。
別にこの屋敷でせずともよいとはわかっているが、事が始まってしまっては後から場所は選べない。
明野はなんだか申し訳なくなり、明日の食事には善逸の好物を振る舞ってあげようと計画した。
そしてこの夜、善逸は、閨に布団を置けない理由を理解した。
*****
「でさ……俺もう寝不足なんだよぉ……」
明野の継子になってからの出来事を炭治郎に話した善逸だったが、炭治郎は純粋に首を傾げた。
「え? 今の話のどこで寝不足になるんだ?」
"それより冨岡さんに受け入れてもらえてよかったな!"と笑う炭治郎。
「なんでわっかんねえのかなあ!? 察してくれよ説明したくないんだよぉお!!」
善逸の沈痛な面持ちに、炭治郎もこれはただ事ではないということだけは察した。
「そ、そうか……何かつらいことがあったんだな」
「つらいも何もねえよ! あの野郎、いつも任務から帰るなりねえちゃんを……ねえちゃんを……!」
「冨岡さんをそんな呼び方したら駄目だって、いつも言ってるだろ」
「ねえちゃんの声はいいよ!? むしろありがたいくらいだよ! でも冨岡さんのは聞きたくねぇよ! いちゃいちゃいちゃいちゃ全部聞こえてんだよぉおおおお!!」
一応呼び方を改めた善逸。
ここまで言われれば、さすがの炭治郎も善逸の言わんとしていることを理解した。
「それは、なんというか……大変だったな」
「俺どうしたらいいの!? これからもねえちゃんと同じ屋敷で暮らしたいからさぁ炭治郎からも言ってくれよ!」
「いや、俺が口を出せることじゃないからそれは無理だ」
「否定だけははっきりしてんなコイツ」
「いっそ直接言ってみたらどうだ?」
「えっ、ねえちゃんに? ねえちゃんが俺ともう口聞いてくれなくなったらどうしてくれんの炭治郎はさ?」
善逸の血走った目に炭治郎は困惑する。明野がそんなことするわけないだろうと思ったが、反論を許さない気迫があった。
「明野さんじゃなくて、冨岡さんにだよ」
「炭治郎は俺に死ねって言いたいの!?」
何を言っても嫌がる善逸に困り果てていた炭治郎だったが、不意にその視線は善逸の背後に向けられた。
善逸もそれを追って振り向くと、そこには冨岡の姿が。
「冨岡さん! こんちには、偶然ですね」
「ああ」
「買い物ですか?」
炭治郎は冨岡が片手に何かを持っていることに気づいて聞いてみる。
「いや、胡蝶に痛み止めの軟膏をもらってきたところだ」
「えっ、どこか怪我でもしたんですか?」
「怪我はしてない。……明野が、腰が痛むらしい」
「そっ……そうでしたか! それは心配ですね! お大事にって伝えてください!」
冨岡は頷き、去って行った。
「そりゃあれだけ激しくされれば腰も痛むだろうよ」
善逸の表情は虚無だった。
「冨岡さん、そんなに激しいのか……」
炭治郎はそう言ってから、なんてことを口走ってしまったのかと慌てた。ついでに頭に浮かぶ、経験不足からくるなんかぼんやりとしたいけない想像をかき消す。
「ていうかあの人鬼かもしれない。夜のほうがよく喋るし夜のほうが元気だし」
「善逸、もういい。もう聞いちゃいけない気がしてきた」
普段の炭治郎であれば"鬼かも"なんていう冗談を窘めているところだが、今回ばかりは説教の言葉もうまく出てこなかった。
「あ"ーーーー! もう耐えらんねえよぉぉおおお!!」
善逸の泣き声は、騒音に耐えかねたアオイが駆けつけるまで、蝶屋敷に響き続けていた。