過去編:悲鳴嶼

「ああ……これでようやく、蔦子のもとへ行ける。お前は、義勇とともに生きなさい」

最後に見た兄さんは、笑っていた。

*****

鬼。あれは間違いなく鬼だ。

両親と兄さんは、もう殺されてしまったのか?

家から追い出された私は、行くあてもなく走っている。

暗い道には何人も人が倒れていた。

私のほかに人が見当たらない。まさか、村の全員があの鬼にすでに殺されている?

血だらけになった道は、月明かりに照らされて黒く見えた。

無我夢中で走っていたけど、息が上がってきて、足が重い。

後ろを振り向いても何もいなかった。でも、何か恐ろしいものが迫ってきているように思えて、家へ引き返すことはとてもできなかった。

走れなくても、できるだけこの村から離れなくては。そう直感してなんとか体を動かす。

ときどき足がもつれて転び、手足に傷が増えていく。

何度目かの転倒で、落ちていた何かに手が触れた。

硬い、金属?

それに触れた右手に、突然痛みを感じた。転んだときの痛みとは違う、鋭い痛み。

咄嗟に右手を見ると、切り傷ができていた。血も滲んでいる。

私が触れてしまったのは、刀だった。

刀の近くには、黒い洋服を着た見知らぬ人が倒れていた。呼吸の音が聞こえないから、おそらくすでに死んでしまっている。

「しん、でるの」

そう声が漏れた瞬間、背後で大きな音がした。音は遠くから聞こえる。

でも、これは足音? こっちへ来る?

逃げなきゃ、私も殺される。

――お前は、義勇と共に生きなさい。

兄の力ない笑顔がよぎる。私は生きなきゃいけない。家族を置いて逃げてでも。

その義務感とともに落ちていた刀を掴んで、再び走り出した。

怖い、痛い、苦しい、情けない。涙が出てきて視界が滲む。ただでさえ暗くてよく見えないのに。

この村を出れば、もう少し人の多い町に出られる。町は栄えているから、夜でも人はいるはず。早く助けを呼ばないと――。

もはやろくに前も見ず、"何か"が近くに寄ってこないよう身を守るように刀を振り回し、町を目指して走った。

「……刀を離しなさい」

突然、男の声が聞こえた。

驚いて立ち止まる。月は男の後ろにあって、男の顔はよく見えない。けれど、その大きすぎる体を見て、本能的な恐怖を感じてしまった。

立っていることもできず、その場に尻もちをつく。とっさに立ち上がろうとしたけれど、体が震えて膝立ち以上に身を起こせなかった。

しかし、握った刀を離すこともできない。

無意識のうちに、体に染みついた動き――鯉口を切って、柄に手をかける動作をしていた。

そもそも抜き身の刀であったため、刀身に添えた左手をまた切ってしまったけれど、構っている余裕はなかった。

「……刀を離しなさい」

もう一度、大男はそう言って、私に近づいてくる。

「……もう、大丈夫だ」

「え……」

「助けに来た」

「た、す……け……」

「そうだ」

その大男はいちど後ろを振り返って、誰かを呼んだ。

するとすぐに黒い服をきた人がこちらに駆け寄ってきた。頭にも黒い布を被っていて顔はよく見えない。

私が呆然としていると、大男は私の手から刀を奪い、それを少し離れたところに置く。

近くで見上げると、大男は泣いていた。

「君だけでも、無事で良かった」

*****

大男に呼ばれた黒い服の人――伊東さんに運ばれて、私は"安全な場所"にいた。

どこだかわからないけど、伊東さんは"ここは安全"だと言っていた。広いお屋敷だった。

明るいところで見たら、目元しか見えなかったが、伊東さんは女の人だとわかった。

それからすぐ、傷の手当てをされた。そして汚れた着物を脱ぎ、湯浴みをするように言われる。

――君だけでも、無事で良かった。

じゃあ、ほかの人はみんな無事じゃないんだ。

湯の中で体を温めながらも、心はまだ落ち着いていない。

しばらく私がぼうっとしていたせいか、伊東さんが慌ててお風呂に入ってきた。

「大丈夫? のぼせてない?」

伊東さんに抱きあげられて、体を拭かれ、新しい着物を着せられた。なんだか、なにもやる気が起きなくて、されるがままだった。

「……」

「何か食べたほうがいいね」

伊東さんは私を居間の座布団に座らせて、すぐ横の台所に向かった。

大人しく待っていると、伊東さんは少しのご飯と煮物を私の前に置いた。

「明野さん、食べられる?」

「……はい」

渡されたお箸で煮物をつまみ、口に運ぶ。

「……おいしい」

「気持ち悪くなったりしない? 無理して全部食べなくていいからね」

「大丈夫、です」

伊東さんは、私の食事が終わるまで、横に座って待っていた。

「ごちそうさまでした」

「全部食べられたね、よかった」

伊東さんはお皿を下げると、今度は向かいに腰を下ろした。

「もしよければ、お話を聞かせてもらえる?」

「……」

「さっき、あなたの住む村で起こったこと。話せそう?」

「……わかりません、なにがあったのか、でも鬼、鬼が、おにがきて……っ」

「落ち着いて。大丈夫、ここに鬼は来ない」

それから、私は覚えていることを伊東さんにすべて話した。

*****

伊東さんに話をしたあと、私は寝てしまったようだった。

目が覚めると、部屋には誰もいなかったけど、きちんと布団がかけられていた。

すでに夜が明けて、障子越しの外は明るい。

「……なんで、わたしだけ……」

家族を置いてでも逃げなきゃ、そう思って必死で生き延びた。なのに、もうそれを後悔している。

「君は生かされたのだ」

障子の外から、男の声がした。日に照らされてできた影は大きい。おそらく、昨日見た大男だ。

「……入ってもよいか」

「はい……」

開かれた障子の向こうには、やはり大男がいた。

鶯色の羽織と、首にかけられた数珠が目を引く、不思議な服装だった。

「私は、悲鳴嶼行冥という」

手にも数珠を持っていた悲鳴嶼様は涙を流し、私に向かって手を合わせた。

なんで? とは、聞けなかったけど。

「……時雨木明野です」

かくしから、昨晩の話は聞いている」

かくし、というのが何かはわからなかったけど、私が昨晩の話をしたのは伊東さんだけだ。そういう名前の職業なのかもしれない。

「あの……昨日のは、あれは……鬼、なのですか」

「そうだ」

「村は……私しか、もう、いないのですか」

「……そうだ」

「そう、ですか……」

「しばらく、ここにいるといい」

「……」

それは悪い、と思ったけど、他に行くあてがないことを思い出して、すぐに返事はできなかった。

「あの……」

悲鳴嶼様は小さくうなずき、私に続きを促す。

「悲鳴嶼様は、昨日の鬼を……倒す? 殺した? の、ですか?」

「……鬼は、頸を切るか、日光を浴びせれば、じきに滅せられる」

「それは、私にもできますか?」

「…………」

悲鳴嶼様は考え込んでいるようだった。

しばらくの沈黙のなか、ふと気づく。

悲鳴嶼様は、目が見えていないのかな。今まで一度も目が合っていない。顔はこちらを向いているけれど、こちらを見てはいないような。

けれど、昨晩は一人で鬼を倒し、今も一人でこの部屋を訪れている。

「あまり、勧めたくはない。危険な仕事だ」

「……私は、両親と兄に庇われて……逃がされたのです。私は、私を大事にしてくれる人を……見殺しに、したのです」

「身を挺してでも、君を……明野を救いたかったのだろう。負い目を感じる必要はない」

「……兄さんに、"生きなさい"と、言われました」

少し気恥ずかしくて、"義勇とともに"という部分は、悲鳴嶼様には伝えないけれど。

「家族を犠牲にして、私だけ生きたくなかった……。でも、兄さんに言われたから、生きなきゃいけない……です。また誰かを犠牲にしないように、強く、なりたい……の、です」

「……なんと」

悲鳴嶼様は腰を上げて、こちらに近づいてきた。

「君は強い」

そう言って、頭を撫でられる。見上げると、彼はなぜだかまた涙を流していた。

撫でる力がとても強くて少し驚いたけれど、悲鳴嶼様の手はとても大きくて、安心した。

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