「コーヒーくらいは出してやるよ」

【歩視点】

中間試験最終日の放課後、四軒茶屋でのバイトを終え、帰ろうとしたところにちょうど通り雨が降ってきた。

どしゃぶりで、走ったところでこの状態で電車に乗るのも憚られるレベルですでに濡れてしまっている。

いっそ駅に向かう途中にある銭湯にでも寄ろうかと思ったが、生憎今日は財布を忘れてきていた。

とりあえず雨宿りをしようと、とっさに目についた喫茶店の軒下に避難した。

…………。

何分くらい経っただろうか、雨は止むそぶりを全く見せない。

連絡する相手もいないが、手慰みにスマホを点けたり消したりして、時間を潰していた。

「お前、いつまでそんなことにいる気だよ? もう店閉めるぞ」

スマホいじりにも飽きた頃、ぼーっとしていたら突然声をかけられた。

横を見ると、そこにいたのはこの店の店主らしき中年男性。

「あ……すみません。雨宿りしようと思ってたんですけど、今手持ちがなくて……」

「ハァ……そんなことだろうと思ってたよ。中、入ってけ」

「え、でももう閉店なんじゃ――」

「コーヒーくらいは出してやるよ」

一方的にそう言って戻っていった店主。

このまま立ち去るのも何だか心持ちが悪いから、仕方なく従うことにした。

ああいうお人よしは少し苦手だ。

ともあれ、店内に入ると、そこは何の変哲もない普通の喫茶店だった。

「適当に座っとけ。あと、これな」

店主から渡されたのは白いタオル。

礼を言ってから、とりあえずカウンター席の端寄りのところに腰を下ろし、濡れたところを――と言っても全身濡れているが――拭いていく。

「ん……?」

コーヒーを淹れ始めた店主は、不意にこちらを見て、怪訝な表情を見せた。

「お前、名前は?」

「え……戸川歩、です」

突然名前を聞かれて驚いたが、普通に名乗れば店主はきょとんとした表情になり、安堵したように一息つく。

「ああ、悪い。昔の知り合いに似てたモンで、ひょっとしたらと思ったんだが、人違いだったよ」

「……」

「妙なこと言って悪かったな。忘れてくれ」

微妙な雰囲気を察したのか、店主はもう一度謝り、コーヒーに集中し始めた。

「お客さん?」

店主の話を忘れて大人しく待っていると、カウンターの奥から店主とは別の声が聞こえてきた。

その声に店主は"黙って皿洗ってろ"なんて返していたが、あまり動じていないようだ。

しかし、振り向いてこちらを見たその人物には見覚えがあった。

「あれ……もしかして、来栖くん?」

少し前、同じクラスに転校してきた奴だ。確か、前歴持ちで保護観察中だとかいう噂の。

「ん? お前ら知り合いか」

「えっと……クラスメイトです」

「知り合いじゃねえか」

来栖の微妙な返答に、店主の鋭いツッコミが入った。と同時に差し出されるコーヒーをお礼と共に受け取る。

「来栖くんは、バイト?」

「いや、ここに居候させてもらってるんだ」

「そうだったんだ。って、え、お店に?」

「狭い屋根裏だけど」

「嫌なら出ていくか?」

「十分です」

漫才をしないと会話できないんだろうか……というのは冗談だが、どうやら店主の家ではなくこの喫茶店に住んでいるらしい。

「じゃあ実質一人暮らしなんだ、いいな」

「そんなにのびのびとはしてないけど……」

そう言った来栖の表情には少し翳りが見えた。おおかた学校中で噂されている彼の前歴うんぬんのことだろう。

「……噂のこと、気にしてる?」

「! それは……」

少し踏み込み過ぎてしまったかも。どうしてそんなことを聞いたのか、自分でもよくわからなかった。

多分、疲れてるんだろう。

……まあ、わざわざ嫌われる必要もないし、ここで良い印象を与えておくのもいいかもしれない。

「あっ、ごめん、いきなり変なこと聞いて。……でも、やっぱりあの手の噂は嘘っぽいな」

「え?」

「話してみてわかったよ。でも、ちょっとデリカシーなかったね、ごめん」

「いや……気にしないでくれ」

そう言うと、来栖は少し戸惑ったような表情になったが、嫌がられてはいないようだ。

これ以上余計なことを言う必要もないかと思い、口を閉じた。

しかし、実際俺は学校中で囁かれている彼の噂について真に受けてはいなかった。言っている奴も半分面白がってというか、とにかく騒げる話題が欲しいだけのように見えたし、怖がっている奴も本当に彼が危害を加えてくるとは思っていない。

……まあ、俺には関係のないことだけど。

頂いたコーヒーも飲み干したところで、そろそろ店を出ようかという頃、さっき突然2階に上がっていった来栖が何かを手に持って戻ってきた。

店主にはすでにお礼も済ませて、まさに店の扉に手を掛けたところだ。

「戸川、これ……使ってくれ」

来栖から渡されたのは黒い折り畳み傘だった。

確かにまだ外は雨が降りしきっている。

断っても多分こいつは引かないだろうと、直感的にそう思った。

「……ありがとう。明日、学校で返すよ」

素直に受け取れば、来栖はなぜかきょとんとした表情を見せた。

「あの、コーヒーありがとうございました。おいしかったです。……じゃあ、来栖くん、また明日」

何なんだろうとは思いつつ、店主に改めて礼を言い、今度こそ店を出た。

借りたばかりの傘を広げ、ここからすぐの駅へ向かう。

店にいたときはなんとなく居心地が悪いと思っていたのに、いざ帰るとなるともう少しあそこにいれば良かったとも思う。

勝手だなとは思うものの、誰が聞いているわけでもない。少しくらいいいだろう。

しかし、これで明日も来栖と話さなきゃいけなくなった――

「…………って、明日日曜だった」

別れ際に来栖が不思議そうな顔をしていたのはそういうことだったのかと、ちょっと恥ずかしくなった。

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