昨日あれだけ残業したのに仕事が終わらず、早朝出勤をするはめになった。体はだるいし頭も重たくて、完全に睡眠不足だ。午前中居眠りしないように気をつけないと。コンビニで買ったメガシャキを握りしめて、自分のデスクへと向かう。廊下を歩いている途中、コーヒーの良い香りが鼻をかすめた。私以外にも早く出社をしている人がいるのだろうか。そうだとしたら、朝からコーヒーを淹れるのだから、仕事が終わらなくて早く出勤した私と違って心の余裕がある人なのだろう。少しだけ気になったから香りのする給湯室へと向かい、ゆっくりとドアを開ける。挨拶をすると同時に中を覗いたら、そこにいたのは意外な人だった。
「賈詡さんですか…?」
「あれ、随分と早い出社だね」
「賈詡さんこそ。いつもこんなに早くないですよね」
賈詡さんは私の配属部署の課長で、必要最低限のことしか話したことがない。もちろん私みたいな下っ端が気軽に話せるような人じゃないというのもあるけど、顔が怖いから、というのが私の中で一番の理由なのは秘密だ。だから今給湯室のドアを開けたことを少しだけ後悔している。
「仕事、終わらなかったんだろ?」
「そんなところです」
「それで早朝出勤なんて頑張るねえ」
あっはは、と独特の笑い声が響く。そうしないと仕事が終わらないのだから仕方がない。仕事が終わらなかった私と違って、賈詡さんはどうしてこんなに早く来ているのだろうか。賈詡さんは仕事が早い人だから、時間外に来てまで仕事を進めるような人じゃないと思うけど。普段話さない分、今聞かないと答えがわからなくなるかもと思い、早く仕事を始めたい気持ちに反して疑問をぶつけてみた。
「賈詡さんはどうしてこんなに早いんですか?」
「俺か?俺はたまにこうしてゆっくりコーヒーを飲みに来てるんだよ」
そう言う賈詡さんの手には、ドリップバッグの乗ったマグカップ。まさかコーヒーを飲むためだけに早く来ている日があるとは思わなかった。
「賈詡さんは缶コーヒーを飲んでいるイメージでした」
「仕事の合間は缶コーヒーだけどな、ゆっくりしたい時はこっちにしているよ」
賈詡さんはそう言うとウォーターサーバーからお湯を出して、ドリップバッグに注いだ。その瞬間、コーヒーの良い香りがまた部屋の中に広がる。確かにこの香りを嗅いでいると、ほっと一息つける気がする。私も余裕のなかった気持ちが少しだけ落ち着いてきた。けど、私は今落ち着いちゃいけないんだった。仕事を終わらせるために早く出社したのだから、ここでゆっくりしていないで早く仕事を始めなければいけない。
「ゆっくりしているところお邪魔してすみませんでした。私はもう行きます」
「おう、仕事頑張れよ」
片手をひらひらと振る賈詡さんに頭を下げて、給湯室を後にした。
何とか普段の始業時間までには終わらせられそうだ。出来た資料を印刷してホチキスで留めている時だった。デスクの上にこと、と何かが置かれ、同時にコーヒーの香りがふわりと広がる。私のマグカップにカフェオレが入っていた。
「あんたのカップ、これで合ってるよな?」
「え?あ、そうです。ありがとうございます」
「よかった」
「あの、これ私にですか?」
「ああ。朝から仕事を頑張っている部下にコーヒーの差し入れだ」
「ありがとうございます…!」
「牛乳は冷蔵庫に入ってた誰のかわからないやつをちょっと拝借したから、内緒な」
「えっ、それ大丈夫なんですか」
「大丈夫大丈夫。賞味期限はちゃんと見たよ」
賞味期限とかそういう問題じゃないんだけど、と言おうとしたのに、賈詡さんは給湯室の時と同じように手をひらひらと振りながら自分のデスクへと戻っていった。淹れてもらったものはどうしようもないから、お言葉に甘えて頂くことにした。資料をまとめ終えてファイルにしまい、デスクの上を綺麗にする。賈詡さんが淹れてくれたカフェオレに口をつけると、少し時間が経ったせいでちょっとだけぬるくなっていた。でも猫舌の私にはこれくらいが丁度よい。実を言うとコーヒーはそんなに得意じゃないんだけど、牛乳のおかげでコーヒーの苦さがまろやかになっていてとても飲みやすい。苦手だと思っていたものが実はそうでもなかったというのは、少しだけ賈詡さんに似ているかもしれない。課長というのと顔が怖いというだけで嫌厭していたけど、意外と優しい一面があると知ってしまった。気付かれないようにこっそりと賈詡さんの方に視線を向けると、いつも通りの怖い顔でパソコンをいじっていた。前まではその表情を見るだけで近付きたくないと思っていたけど、もう今はそんな感情は湧かない。カフェオレを飲み干し、席を立つ。先程仕上げた資料を持って、賈詡さんに渡しに行った。
20211101