満寵と虫を退治する話


 昨日の徹夜のせいで少しだけ寝坊をしてしまった。寝坊と言っても遅刻する程ではないけど、気持ち的にやってしまった感は拭えない。徹夜も寝坊も全部自分のせいなんだけど、あまりの辛さに泣きたくなって元々朝が苦手なのに更にやる気が出なかった。
 執務室に入ると、満寵殿は既に仕事に取り掛かっていて、さらさらと筆を進めていた。満寵殿は逆に昨日早く帰っていたから朝早く来たんだろう。徹夜どころか朝まで仕事する時もあるし、なんならその後仮眠も取らないで仕事を続ける化け物みたいな満寵殿にどうやったらそんなに起きていられるのか聞いてみたいけど、どうせ気付いたら時間が過ぎていただけとか参考にならない言葉が返ってくるだろうなと思って聞くのをやめた。

「おはようございます」
「おはよう、ななし殿」

 声を出したら欠伸が出そうになったから慌てて噛みしめる。起きて顔を洗って髪をまとめて出てきたから、まだまだ眠気が強くて頭が働かない。自分の席に座って、墨の用意に取り掛かる。その時に引き出しが少しだけ開いているのに気が付いた。昨日きちんと閉めずに帰ったのかなと思い、そのまま引き出しを開けて筆を取ろうと手を突っ込んだ時、もぞ、と明らかに筆とは違う感触の物が手に触れた。反射的に手を引き、恐る恐る引き出しの中を見てみたら、引き出しに収まってしまう程の大きさの百足がいた。寝惚けていた頭が完全に覚め、大きな声を上げると同時に机をひっくり返した。

「ななし殿!どうしたんだい!?」
「満寵殿!む、む、むか…むか……!!」
「むかむか?」

 私の驚きように慌てて側に来てくれた満寵殿に、奴のいた方を指差す。机をひっくり返してしまった為、奴は散乱した書簡の影に姿を消した。満寵殿が書物をどかしていくと、時を見ていたかのようにものすごい速さで飛び出してきた。しかもあろうことかこっちに向かって一直線に。言葉にならない叫び声を上げながら満寵殿の腕にしがみつく。

「これはまた大きな百足だね。ななし殿が育てたのかい?」
「冗談言ってないで何とかしてください!!」

 満寵殿の背中をぐいぐい押して盾にして、奴の突撃から身を守る。あまりの大きさと速さに恐怖を覚えて目を反らしたいのに、奴から目を離した隙にまた姿を消したらと思うとそっちの方が怖くて満寵殿の背中越しに凝視することしかできなかった。

「ななし殿、大丈夫だから少し落ち着いて」
「あんな大きさのむ……満寵殿来てるー!!」

 満寵殿は床に落ちていた書簡を拾うと、すぐそこまで迫ってきた奴を器用に書簡に乗せて近くの窓へ投げ捨てた。ぼとっという音が聞こえてきたけど、奴がどれだけの大きさだったのかを物語っていて安堵と共に身震いした。

「ななし殿、もう大丈夫だよ」
「ありがとうございました……」

 上手く息ができていなかったのか、大きなため息が漏れた。落ち着かせる為にゆっくりと深呼吸をする。

「ななし殿、そろそろ離してもらってもいいかな」
「え?あっ、失礼しました…!」

 無意識に腕にしがみついたまま、しかも背中に寄りかかって息を整えていた。慌てて押し返すように手を離して距離を取る。

「ななし殿がそんなに虫が苦手だと思わなかったな」
「無理ですね…」
「野外で陣を張っているとたくさんいるだろう?」
「戦中は耐えますけど、他の兵達に何とかしてもらってました」
「獲物を使って叩き殺してそうなのに」
「そういう時もあります。ただ今日のは大きすぎですよ」
「確かにさっきのはかなり大きかったね。大きいのはもっと暖かい所に行かないといないと思っていたよ」
「ですね…」
「いい勉強になった」

 奴一匹から何を学んだのか謎だけど、何を企もうとしてるのか考えるだけでも怖いから何も聞かないことにした。大分落ち着いてきたから、ひっくり返した机と書簡を片付けないと。墨を用意する前で本当によかった。墨をぶちまけていたら掃除だけで半日使ってしまうところだった。机を元の位置に戻していたら、満寵殿が書簡を集め始めた。

「満寵殿、大丈夫ですよ。自分でやります」
「二人でやった方が早いだろう」
「すみません…」

 お言葉に甘えて満寵殿には書簡をお願いして、私は引き出しや他の小道具を整理することにした。引き出しに色々な物を入れていたせいか、集めるのが大変だった。

「ななし殿が落ち着くまで背中を貸してあげたかったんだけどね」
「そんな、とんでもないです。無礼でした」
「そろそろななし殿の声を聞いて誰かやって来そうだからさ」
「え?」
「ななし殿の声、凄かったから」

 満寵殿がそう言った直後、徐晃殿が慌てた様子で部屋に入ってきた。そういえば朝のうちに徐晃殿が訪ねてくると言っていたような気がする。騒ぎを聞き付けて走ってきてくれたのかもしれない。…非常に申し訳ないし恥ずかしい。

「満寵殿、凄い声と音が聞こえてきたのだが、何かあったのでござるか?」
「ははっ、ちょっとね。もう大丈夫だよ」
「そうでござるか。…今日は一段と散らかっているのだな。ななし殿も大変であろう」
「いえ、これは私のせいでして…」
「ななし殿の?」
「徐晃殿、わざわざありがとう。あちらでゆっくり話そうか。ななし殿、最後まで手伝えなくてすまないね」
「いえ、全然。むしろありがとうございました」

 立ち上がった満寵殿に合わせて一度立ち上がり、軽く頭を下げる。その時、満寵殿の手がぽんと肩に乗り、耳元でこう言われた。

「必死にしがみついてるななし殿が可愛くて誰も来なかったらそのままでいて欲しかったよ」
「は!?」

 反射的に振り返ったけど、満寵殿は何事もなかったかのように徐晃殿を奥の部屋へと案内し始めた。満寵殿らしかぬ言葉が聞こえてきたけど、郭嘉殿が言いそうな歯の浮くような台詞を本当にあの満寵殿が言ったんだろうか。にわかに信じられないけど、耳元であんなにはっきりと言われてしまっては聞き間違いと思い込むこともできない。戻ってきた満寵殿とどういう顔で会えばいいのかわからず、書簡の山に頭を埋めてため息をついた。


20200703

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