満寵と不思議な話
今日の仕事はこの山積みになった竹簡全てに目を通すことだった。いくつか読み終わったけど、まだまだ半分にも満たない。気が遠くなりそうだし眠気に襲われそうだ。あくびを噛み締めながら新しい竹簡に手を伸ばした時、右腕の痣が目に入った。いつできたやつだろうか。今日は調練も行っていなくて思い当たる節はないけど、これくらいの痣ならどこかにぶつけたんだと思う。触れてみても痛みはなかったから、すぐに治るだろう。その様子が気になったのか、満寵殿が筆を止めた。
「腕、どうかしたのかい?」
「知らない間にぶつけたんだと思います」
それ以上に言うこともなかったし、満寵殿もそれ以上に気になることがなかったみたいで、そっか、という言葉で会話は終わり、お互い目の前の仕事に集中し始めた。
ようやく半分程読み終えただろうか。凝り固まった身体をほぐそうと両腕を上げて伸びた。特に右側の凝りが酷い。竹簡を読むだけなのに利き手側の負担になっているのだろうか。腰をひねるとぽきぽきと気持ちの良い音が鳴った。その時、また満寵殿に声をかけられた。
「ななし殿、痣が大きくなっている気がするけど」
「え?…本当だ」
腕を下ろして見てみたら、さっきよりも広がり、くっきりと変色していた。だけど触れてみても痛みはない。ただ痣が広がっているだけで、少しだけ不気味だった。
「痛みは全くないので大丈夫だと思います」
「それならいいけど。気分が悪くなったらすぐに休むんだよ」
「ありがとうございます」
満寵殿には大丈夫と言ってしまったけど、正直ちょっと気持ち悪くて、集中できなくなってきた。竹簡を読んでいても袖口から広がっている痣が目に入ってしまう。しばらく右腕は封印してしまおうと思い、左腕だけで竹簡を漁った。
あれからまた時間が経ったけど、痣のことが気になりすぎて全然集中できない。気になるけど腕を見たいとは思わなかった。相変わらず痛みはない。さっきの変色具合で時間経っても違和感がないのが逆に気味悪い。本当なら満寵殿のお言葉に甘えて部屋で休みたいところだけど、一人になるのも怖かった。それなら満寵殿がいてくれるぎりぎりまでここにいようと思った時、満寵殿が側にやってきた。
「ななし殿、腕を見せて」
「私はあまり見たくないです」
「私が確認したいんだ」
満寵殿は半ば強引に私の右腕を取り、袖を捲くった。反射的に目を瞑ってしまったけど、満寵殿の反応がない。名前を呼んでも何も返ってこなかった。薄っすら目を開けてみたら、満寵殿は腕を見つめたまま固まっていた。恐る恐る目線を下げたら、先程よりも痣の形がくっきりと出ていて、その形が何か認識できた時、背筋が凍り、息を呑んだ。痣が人の手の形をしている。腕を握られたように、くっきりと指の痕が出ていた。どこかにぶつけてできるような形じゃない。それはもう物理的なものではない理由しか考えられなかった。満寵殿の手を振りほどいて袖を下げる。
「私、呪われたんですかね…恨みを買うことたくさんしてきたし、人もたくさん…」
「ななし殿、まだそうと決まったわけではないよ」
「でもこんなこと初めてですよ…!こんな、こんなにはっきりと手の痣が出てくるなんて…!」
「大丈夫、大丈夫だから落ち着いて」
取り乱す私を満寵殿は抱き寄せた。ゆっくりと頭を撫でられると、少しだけ落ち着いてきた。私一人だったらずっと取り乱しておかしくなっていたかもしれないから、満寵殿がいてくれて本当によかった。
「今日は側にいるから、このまま休むといい」
満寵殿の言葉に、こくんと頷く。迷惑になるとわかっていても、一人で過ごせる精神状態ではなかった。力を抜いて、胸元に寄りかかる。落ち着いたのが伝わったのか、頭を撫でていた手が背中に回される。
「もし明日まで残っていたら、朝一番に殿に相談しに行こう」
「殿に相談して解決することですかね…?」
「殿のつてを頼るんだ。左慈とかいう有名な方士がいただろう?」
「左慈…?」
「もしかしたらななし殿が来る前だったかもしれないな。不思議な術を使う方士がいるんだよ」
「そうなんですね」
術の類に強い人がいるのは心強い。けど、医者ではなくて方士に頼らなければいけないところまでいってしまうのも怖い。できれば明日の朝には綺麗さっぱり消えていて、痣が出来たという記憶ごとなくなっていればいいのに。
そんな事を考えていたら、満寵殿に抱かれている安心感と緊張が切れたせいか、いつの間にか意識が途切れていたようだった。外から聞こえる鳥の声で目が覚めた。
「おはよう。少しは休めたかい?」
「おはようございます。お陰様で…」
眠っていたのか気を失っていたのかわからないけど、満寵殿はずっと側にいてくれたみたいだった。昨日の体勢のまま、片手で竹簡を読んでいた。仕事の邪魔をしてしまったから本当に申し訳ない気持ちで一杯だ。身体を離そうとしたら、満寵殿は持っていた竹簡を机に置いて私の右腕を取った。
「確認するけど、怖かったら見なくていいからね」
「いえ、私も見ます」
ここまできたらどうなってようが何でも受け入れるつもりでいた。左慈という方士の存在を知れた事である程度の安心感を得たのかもしれない。一度深呼吸をして、満寵殿もそれに合わせてくれて呼吸を落ち着けたところで袖を捲った。
「…なくなっているね」
くっきりついた痣は綺麗さっぱりなくなっていた。少しの跡も残らず、まるで何もなかったかのようないつも通りの腕だった。軽く腕を動かしてみたけど、いつもと変わらない。消えたことはよかったけど、それはそれで不気味だった。
「あの痣、本当にありましたよね…?」
「うん、見間違いではなかったよ」
満寵殿も見たはずの手形の痣が、次の日には綺麗さっぱりなくなっている。考える程謎は深まるけど、元凶がなくなったのだからこれ以上考えてももっと怖くなるだけだから考えるのはよそう。
「この事はこれ以上考えないようにします」
「その方がよさそうだね」
「忘れましょう」
完璧に忘れ去ることは難しいかもしれないけど、話題に出さなければいつか記憶から薄れて、そんな夢を見ていたかもしれない、と思える日が来るかもしれない。もう一度右腕を見たけど、やっぱり何もない。腕を伸ばして、身体も伸ばす。寝起きのせいか関節がぱきぱきと鳴ったけど、身体はすっかり軽くなっていた。
20200923