満寵が髪に触れる話
盛大な寝坊をしてしまった。今までもたまに寝坊することはあったけど、今日の寝坊は非常にまずい。完全に時間を過ぎている。寝台から飛び起きて急いで着替えて顔を洗い、部屋を出た。部屋から執務室は近いからよかったけど、その近さ故に油断してしまうのだろう。全力疾走して執務室に飛び込み、息を整える。まだ満寵殿は来ていなかったから少し安心したけど、そういう問題ではない。急いで墨を用意して書簡を広げた。その時にようやく気付いたけど、髪をまとめていない。動くのに何か邪魔だなと思っていたのに今の今まで気づかないとは。髪紐も忘れてしまったからどうすることもできなかった。取りに戻ることも考えたけど、これ以上執務に支障をきたしたくなかったし、今日はずっと部屋での作業だから諦めてこのまま取り掛かることにした。
「おはようななし殿。急に軍議が入ってやっと戻ってこれたよ」
「お疲れ様です」
お昼過ぎ、満寵殿が書簡を小脇に抱えて戻ってきた。軍議で新しい課題が見つかったんだろうか。満寵殿がそれに取り掛かるなら、早く今の仕事を終わらせて手伝った方がいいだろう。軍議の内容を聞こうと思い、書簡を閉じて棚まで持って行った時、あれ、と満寵殿が呟いた。
「髪下ろしてるなんて珍しいね」
「これは…」
「ははっ、寝坊したかな?」
「すみません…」
満寵殿には全てお見通しのようで、顔が熱くなった。満寵殿は気にしていないのか、笑っている。書簡を順番通りになるよう並べていたら、後ろに気配を感じ、後ろの髪をくっと引かれた。
「寝癖、ついているよ」
「えっ!」
「ここだけすごくはねてる」
髪に触れて確かめると、確かに毛先の一部があらぬ方向にはねていた。はねているというよりも、直角に曲がっている。どうやって寝たらこんな寝癖がつくのだろう。寝相は良い方じゃない自覚はあるけど、この寝癖は不思議で仕方がなかった。これは梳かしたところで直らないだろうから、後で水に濡らしてから布を当てて伸ばすことにしよう。
「そのくらいの寝癖でも気にするんだね」
「まあ、それは…」
髪を整えることも身だしなみの一つだと思うし、何よりも大切に思っている人の前で寝癖つけたまま過ごすというのが耐えられない。ならば無造作に下ろすのではなくて綺麗にまとめろという話になってしまうけれど。そこまで満寵殿に言う必要はないと思い、言葉を濁した。
「私は寝癖くらいいつもついているけど」
「それはちゃんと直して下さい」
なぜか誇らしげな顔だ。意味がわからなかったから書簡で小突いておいた。満寵殿は癖の付きやすい髪質をしているから、気にかけないと本当にとんでもない寝癖を付けて城に来ることがある。女官に直してもらわずに来るのかと疑ってしまうけど、満寵殿のことだから起きてすぐにふらっと城に向かってしまうのだろう。女官は何も悪くなくて、満寵殿が寝惚けて女官の声掛けを聞き流しているだけだと思う。女官ができなかった時は決まって私がやる羽目になってしまうんだけど。たまにとんでもない強者な寝癖を付けてくるから、水をつけて思いっきり引っ張る時もある。満寵殿は痛がっているけど、屋敷で女官の言うことを聞かないのが悪い。だから手を緩めずに力強く引っ張ってやるのだ。
満寵殿の寝癖の変遷を一人で思い返していたら、また満寵殿の手が伸びてきて、前髪に触れた。まさか前髪まで癖がついていたのだろうか。個人的に前髪のうねりは許されない癖だからじっくり見られる前に隠そうとしたら、それよりも早く指で前髪を分けられた。何をするつもりなのかと考えるよりも先に、満寵殿が距離を詰めてきて、額に何かが触れた。何をされたのかわからなかったけど、離れた時にちゅ、という音がして何か起こったのかを全て理解した。触れられた部分から一気に熱が広がっていく。額を抑えて一歩引いたら棚にぶつかってしまい、書簡がいくつか落ちる音がした。
「ま、満寵殿…!今何を…!!」
「何って、くち…」
「いいい言わなくていいです!!」
平然と答えそうな満寵殿を力づくで押して遮った。頭の中が真っ白になり、思考が停止する。熱くなりすぎて変な汗も出てきた。何とか顔の熱だけ冷まそうと手で仰いでみたけど、全然意味がなかった。満寵殿は口元を押さえて笑いを耐えている。これは絶対にからかわれるな…。
「ななし殿から聞いてきたのに」
「し、執務中!です!」
「執務後だったらよかった?」
「それは…!」
「それは?」
「…自分で考えて下さい!」
からかわれているとわかっていても、否定はできなかった。だけど一緒にいられないと思い、満寵殿を押し退けて執務室を飛び出した。その時たまたま近くの廊下を歩いていた荀攸殿と出くわし、大層驚かせてしまった。悪いと思ったけど謝る余裕もなかったからそのまま走り去った。
20201031