Bうたた寝・猫・いたずら
役人として働くようになった私は、屋敷に出入りする回数がとても減った。年に数回帰れたら良い方。帰ってもゆっくりと過ごす程の時間はなく、二、三日したら戻らなければならなかった。今日も数ヶ月ぶりに帰ってきたけど、明日には帰らなければならない。一日もいられないならば帰らずに執務室で寝ていれば良いと言われるけど、私は少しでも時間ができたら屋敷に戻りたかった。街で人気の甘味を土産に屋敷に戻ると、父と弟達が出迎えてくれた。そこには母とななしの姿はない。
「ななしは母上から裁縫を教えてもらっている最中ですよ」
私の視線の動きに気付いた察しの良い弟がななしの居場所を教えてくれた。いつも一番最初に出迎えてくれたななしの姿がないのは少しだけ寂しかったけど、母から裁縫を教わっているなら仕方がない。明日までに一目でも見られれば良いから、父に今の中心部の情勢を伝えた後は自室で大人しく書物を読み漁るとしよう。
父と弟との話を終え、自室で新しい書物を読んでいたら、背後に気配を感じた。その何かは振り返らなくても誰だかわかる。一体何をしてくれるのかと愉快な気持ちになりながら気付いていないふりを続けたら、思い切り背中に突っ込んできた。その衝撃は思ったよりも強くて、思わずのけ反った。
「伯寧、お帰り!」
「ななし……随分と強くなったね……」
「びっくりした?」
「ああ、とても驚いたよ」
驚かされたことではなくて衝撃の強さに驚いたけど、ななしは自分が驚かせたと満足しているようだったからそういうことにしておいた。ななしは後ろから私の手元の書物を覗くと、とても嫌そうな声を上げた。
「その書物、どうして今読んでるの?」
「これかい?仕事で使うから復習をしているんだよ」
「何だ、伯寧が意地悪であの時のことを思い出させようとしてるのかと思った」
「私がそんなことをすると思うかい?」
「ちょっとだけ」
「酷いなあ。私はそんなことをする人だと思われていたのか」
昔のななしだったら傷付いた風を装ったらすぐに謝ってきたのに、今はそんな素振りも見せない。全く傷付いていないと見抜かれているらしい。身体的な強さに加えて、精神的にも強く育ってきたようだ。小さい頃から見守ってきた兄としてとても頼もしく思う。
ななしが嫌がっていたこの書物には、落書きがされている。文字に被っている部分もあり、そこはとても読みづらい。これはななしが幼い頃にいたずらをしたものだ。私がこの書物を広げて席を外した隙に筆で落書きをしたらしい。紙でできたとても高価なものだったから、父も母も大層怒り、ななしをこっぴどく叱っていた。出来心で落書きをしてしまったようだったから大泣きしながら随分と反省をしていたけど、それ以降紙の書物を見ると当時のことを思い出すからと苦手意識を抱いているようだ。わざとではないにせよ、ななしに嫌な思いをさせてしまったのは事実だから、機嫌を直してもらおうと袖に隠していた物を取り出し、ななしに手渡した。
「あ!お菓子!」
「今街で流行っている甘味だよ。侍女達も好きなものだから、きっとななしも気に入ると思う」
「ありがとう!」
桃の形をした饅頭を渡すと、可愛いと連呼しながら色々な角度から眺め始めた。侍女達と同じことをしている様子を見ると、女性に好まれる甘味類なのだろう。外見を堪能した後、ななしは饅頭を半分に割った。
「伯寧も一緒に食べよ」
「そうだね、頂くとしようかな」
官府で何度も食べているものだけど、こうしてななしが分けてくれた物を断る理由はない。ななしから半分受け取り、一口で口の中に入れた。
「美味しいね!」
「そうだろう。私も気に入っているんだ」
甘味は疲れた時に良い。気分転換をしたい時にも最適だから、考えが行き詰まった時などによく食べている。だから味はよく知っているはずなのに、ななしと半分に分けたものは特別に美味しく感じた。ななしの嬉しそうに食べる姿のお陰だろう。
ななしは饅頭を食べ終えると、母から習っている裁縫の進捗状況を話し始めた。どうやら裁縫は苦手なようで、大変な思いをしているらしい。
「お母様がとても上手な人だから、自分の下手さがより際立ってちょっと辛いんだ」
「習い始めたばかりだから、これから上手になるさ。ななしは料理が上手だから、手先も器用なはずだよ」
「それは私が料理屋の子供だからだよ」
「それでもその年であそこまで作れるのは凄いよ。だからきっと裁縫もすぐにできるようになるさ」
「そうかな……」
「ああ、きっと大丈夫」
「伯寧がそう言うなら、できる気がしてきた」
子供の成長は早いから、次に会った時には何か凄いものを作っているかもしれない。ななしは何を作ってくれるのかを考えたら楽しくなってきた。次に会うときの楽しみがまた一つ増えたな。
それからななしの口数が段々と減っていった。目もとろんとしているから、眠くなってきたのかもしれない。
「眠いのかい?」
「ん、少し……。今日は伯寧が帰ってくる日だから、いつもよりも早起きして裁縫教わっていたの」
「そうだったんだね。眠いなら一眠りするかい?」
「でもこの後またお母様の所に行かないといけないから……」
「少し寝るだけでも頭はすっきりするよ。私が起こしてあげるから、休むといい」
「うん」
ななしはそう言うと、私の側に来てこてんと横になった。よほど眠かったのか、すぐに寝息が聞こえてきた。大きくなったと感じていたが、このようにすぐに眠りにつく様子を見ていると、まだまだ子供だ。ちょうど私がななしと出会った頃の年齢になっただろうか。あの時は私自身子供ながらにも大人の一員として働いた気になっていたけど、この姿を見るに、私が想像していたよりも子供だったようだ。
目元にかかった少し長めの前髪に触れる。艶のある綺麗な黒髪だ。それを少しだけずらすと、幼い頃に木登りで負った傷跡があった。当時は傷跡がちゃんと消えるかどうかとても不安だった。結果あの頃よりもかなり薄くなっていて、よく見ないとわからない。しかし、完全に消えることはなかった。ただ、左の額の生え際辺りだった為に普段は前髪で隠すこともできる。化粧を覚えたらもっと綺麗に隠せるようになるだろう。
少し寝づらかったのか、体勢を変えて今度は丸くなった。その様子はまるで猫だ。体の一部が私に触れている辺り、本物の猫がいるように感じてしまった。
「うたた寝している猫みたいだね」
声に出しても返事はない。気持ちよさそうな寝息が一定の感覚で聞こえてくるだけだった。
20220310