D夜更け・お酒・眠気
伯寧は屋敷に帰ってくる時はいつも元気そうなのに、最近は忙しいのか、とても疲れた様子だ。屋敷に戻ってもやることがあるのか、自室にずっと籠もって何かをしている。忙しいと帰れないのが当たり前と聞くから、戻ってきてくれるだけ嬉しいけど、同じ空間にいるのに何も話せないのは寂しかった。ほとんど話せない日々が続き、伯寧が官府へ戻る前日になってしまった。相変わらず部屋に籠もったままの伯寧だけど、少しでもいいから話がしたいと思い、夜食を用意して部屋へと向かう。扉を叩くだけでは反応してもらえないとわかっているから、名前も伝えたら「入っていいよ」と言われた。扉を開けると、いまだかつて無い位に部屋が散らかっていて、墨でぐちゃぐちゃになった竹簡や書簡が散乱していた。
「汚い……。よくこんな中で仕事できるね」
「そうかな。物の位置は把握しているから、むしろ仕事しやすい環境だと思うよ」
「有り得ない……」
整理整頓など手入れの行き届いた綺麗な屋敷で育ったはずなのに、これが仕事のしやすい環境になってしまうなんて、官府は相当散らかっている所なのかもしれない。片付けたい衝動に駆られたけど、位置を把握していると言っていたし下手に動かさない方が良いと思い、我慢をして部屋に踏み込んだ。
「夜食、置いておくね。今日何も食べてないでしょ」
「言われてみればそうだったな。ななしは気が利くね」
「明日帰るんだから、体力削るようなことはしない方がいいと思う」
「はは、君の言う通りだよ」
そう言う伯寧の目の下には隈ができていた。屋敷に戻ってきた時はこんなに大きくなかったから、屋敷にいる間も無理をして徹夜をしていたようだった。筆を止める様子のない伯寧を見ていると、夜食を食べないで仕事を続けそうだなと思ったから、夜食を食べるまでこの部屋に留まることにした。
「戻らないのかい?」
「伯寧がちゃんと食べるのを見るまでは帰らない」
「参ったな。もう遅い時間だから、私が食べないとななしも眠れないということか」
やっぱりすぐには食べないつもりだったようだ。伯寧は筆を置くと、箸を手に取った。お腹は空いていたようで、食べ始めたら物凄い早さで夜食がなくなっていった。慣れた様子で早食いをしていたから、普段からこういう食べ方をしているのかもしれない。
「お仕事、忙しいの?」
「まあまあ、と言ったところかな。思っていた以上に酷い有様でね」
「そうなんだ。体壊さないように気をつけてね」
「ありがとう」
「お酒、温めておいたから早めに飲んだ方がいいと思う」
酒瓶から杯にお酒を移し、伯寧に差し出す。熱めに火を通したから、今丁度良いくらいだ。伯寧はそれを受け取ると、一気に飲み干した。
「温かい酒は疲れた体に沁みるね」
「やっぱり疲れてるんだね。早く寝た方がいいよ」
「ななしの言う通り、今日はもう終わりにしようかな」
伯寧は筆を片付け、身の回りに散らばっている竹簡を片付け始めた。全て片付けるのかと思ったけど、周りのものだけ片付けていたから、寝床を作っただけのようだ。寝台で寝てほしいけど、徹夜続きの状態を知っているから、寝てくれるだけありがたいと思わないと。
「お酒はまだあるのかい?」
「うん、あと半分くらい」
「そしたらそのお酒がなくなるまで付き合ってもらってもいいかな」
こくんと頷き、伯寧の杯にお酒を注ぐ。このお酒を飲み終えるまでだけど、伯寧と話す時間ができてよかった。
「ななしは飲まないのかい?」
「私はまだ……」
「あれ、まだ飲めない歳だったっけ」
「ううん、少しずつ飲んでるけど、慣れないだけ」
単純に味が好きではないのと、胸が熱くなる感覚が苦手で、あまり飲む気が起きなかった。この家の人達は皆強いから羨ましい。伯寧が酔った姿も一度も見たことがないから、本当に強いのだろう。私もそれくらい強くなれたら伯寧と夜通し飲めるのかもしれないけど、そこに至るにはまだまだのようだ。
「歳はもう十五位になるよね」
「うん」
「そっか。あんなに小さな子供だったのに、大きくなったなあ」
「その言い方ちょっと年寄りみたい」
そう悪態をついても伯寧は嫌がる様子もなく笑いながら杯を傾けた。
「それくらいの歳になると、色々な心境の変化もあるだろう」
「そうかな。例えば?」
「うーん、例えば、誰か気になる人がいるとか」
「えっ……」
予想外の話題に驚く。伯寧は今まで自分の話も含めてそういった話題を出したことがなかった。だから驚きのあまり動揺を隠せずに固まってしまった。伯寧は動揺した私の様子を面白そうに眺めている。
「その様子だといるようだね。人間観察は得意なんだ。ずっと見守ってきた妹なら尚更ね」
「……」
動揺して固まってしまったのは本当だけど、伯寧の言葉も否定できなかった。それが事実だから。私は「気のせいだよ」と答えるか、「そうだよ」と答える方のどちらが良いか悩んでいた。どう答えた方が伯寧に響くのか悩んでいるうちに、伯寧が先に言葉を続けた。
「ななしなら大丈夫。こんなに自慢の妹をふるような男がいたら、私が許さないよ。私はいつでも君の味方だからね」
伯寧の言葉にすっと血の気が引いて、目の前が真っ暗になった。今まさにふられたも同然のことを言われてしまった。伯寧は私を勇気付けるためにこう言ってくれたのだろうけど、その言葉によって伯寧が私のことを女として見ることは絶対にないと突きつけられた。今までは妹だからという言葉だけだったから、まだこれからという気持ちも残っていたけど、今日で全て打ち砕かれた。笑えないし、今すぐにでも泣いてしまいたい。でも伯寧に何も悟られたくなかったから、力を振り絞って一言だけ伝えた。
「ありがとう」
少しだけ声が震えていたかもしれない。変な顔をしているせいで悟られてしまうかもしない。伯寧が私のことを妹と思い続けるなら、私は伯寧の妹でい続けなければいけないから、この瞬間から私の気持ちは隠し通さなきゃいけないものになってしまった。
それから伯寧が話すことを当たり障りのない返事をしながら流していたら、伯寧のお酒がなくなった。食器の片付けをしていたら、伯寧の頭が何度かかくんと落ちかけた。さすがの伯寧も、徹夜続きの後にお酒を飲んだことで眠気が強くなってきたのかもしれない。
「片付けももう終わるから、横になりなよ」
「うん、すまないね」
伯寧はそう言うと、先程作った空間に寝転がった。程なくして寝息が聞こえてくる。入眠までのあまりの早さが何だか可笑しく感じたけど、やっぱり上手に笑うことはできなかった。
お盆に食器をまとめて入り口に置き、掛け布団を持って伯寧の元に戻る。起こさないようにそっと掛け布団をかける。変わらずに寝息を立てていて、起きる様子は全くない。
お父様とお母様が伯寧の縁談について話しているのを何度か聞いてしまった。その頃から、そろそろ伯寧と呼び捨てにするのを止めなさいとお母様から言われていた。兄上か伯寧様のどちらかにするようにと言われていて、お母様やお父様の前では伯寧様と呼ぶようにしていた。どうしても兄として見ることができなかった。伯寧が結婚した場合、おそらく私は伯寧の侍女として仕えることになるだろう。伯寧が他の女の人と過ごす様子をずっと側で見ているなんて絶対に耐えられない。
先程の話で、望みはとても薄かったけど、もし伯寧の口から違った言葉が聞けたら、私には違う未来があったのかもしれない。でもこうなることはわかっていた。そしてこうなった場合に私はどうするかも心に決めていた。こんな夜更けにお酒を持って一人で男の部屋に行く意味だって理解しているけど、悲しいことに何もなかった。全ての結果が私の決意を固めさせてくれた。伯寧の頬にそっと触れる。起きる様子がないのをしっかりと確認してから、額をくっつけた。
「ありがとう。さようなら」
顔を離した瞬間、堪えられなかった涙が零れて、伯寧の頬に流れる。拭った方がいいかと思ったけど、もう伯寧には触れないと決めたから、自分の目元だけ袖口で拭う。額に残った伯寧の温もりが残っているうちに、早くここを出ていこう。食器を乗せたお盆を持ち上げて、振り返らずに部屋を後にした。
20220318