E朝日・欠けた月・君


 夢を見ていたような気がした。ななしが泣いている夢だ。子供の頃のように大きな声をあげて泣いているのではなくて、静かに涙を流していた。その涙を拭おうと手を伸ばすけど、何故だか触れることができなかった。すぐそこにいるのに、どんなに手を伸ばしても触れられない。それを繰り返していくうちに、ななしがどんどん遠くに行ってしまった。夢はそこで終わり、目が覚める。どうもすっきりしない目覚めだ。窓から差し込む朝日が丁度顔に当たり、眩しさに目を細める。気分の悪い夢の余韻を消したくて、ななしに会いに行こうと体を起こす。ななしの笑顔を見ればこの気分の悪さはすぐになくなるだろう。部屋を出ようとした時、屋敷の中が騒がしいことに気付いた。何か問題でも起こったのだろうか。部屋を出てななしのいそうな場所に向かう途中、母が慌てた様子で駆け寄ってきた。普段冷静な母がここまで取り乱しているのは、何か大変なことが起こったのだろう。母は手に持っていた竹簡を私に渡すと、涙声で声でこう言った。

「ななしがいなくなった」

 ななしがいなくなった。そんなはずない。昨日の夜遅くまで一緒にいたのだから。何かの冗談だろうと思いたかったけど、屋敷の中の慌てようと母の憔悴した様子から、どうやら本当らしい。母に渡された竹簡はななしの残した文だった。文にはこう残されていた。

――まず最初に、勝手に家を出ていく事をお許し下さい。賊に襲われ、一人になった幼い私を助け、今まで本当の家族のように育てて下さったことを感謝します。成長するにつれて、何も出来ない自分に嫌気が差しました。これ以上満家に迷惑をかけたくないです。この御恩は一生忘れません。ななし――

 文を読み終えると、力が抜けて、手元から竹簡が落ちた。この少し不格好な字はななしの字で間違いない。呆然とする私に、母がもう一つの竹簡と布を渡した。急いで竹簡を開くと、短い文章でこう書かれていた。

――この手巾を伯寧様に渡して下さい。近頃の伯寧様は忙しさのあまりに身嗜みが疎かになり、墨や汚れが目立ちます。これで汚れを拭いて下さい――

 一緒に渡された布はどうやら手巾のようだ。広げると、懐に入れるには丁度良い大きさと厚みで、桔梗の花の刺繍が施されていた。いつかななしと共に遠出したときにななしから教わった思い出の花だ。お世辞にも綺麗とは言い難い刺繍だったけど、裁縫が苦手だと言っていたななしらしい味のある出来になっている。
 母は落ちた竹簡を拾って巻き戻すと、私の腕に触れた。

「ななしのことは私達に任せて、貴方は早く官府に戻りなさい」
「いえ、私も探します」
「貴方はもう役人なのですよ。家族一人の為に仕事を滞らせてはなりません」

 母の言う事は正しい。しかし、仕事を棄てて今すぐにななしを探しに行きたかった。どうして急に出ていってしまったのか。もし見つからなかったらこのまま一生会えなくなってしまうのではないか。考えれば考えるほど悪い方へいってしまう。これが仕事ならばすぐに対処法が浮かぶのに、今回ばかりは何も良い考えが出てこなかった。

 結局私は父と母の再三の説得を受け、渋々官府へ戻ることにした。残された手巾と、共に置かれていた竹簡を引き取った。夜更けに女の足で出ていったから、まだそんなに遠くまで行っていないはずだ。馬を使って探せばすぐに見つかるかもしれない。ただ、黄巾の乱以降、各地の治安は荒れに荒れてしまっている。十五歳の年頃の女の子が一人で歩いているというだけで色々な危険があるだろう。一刻も早く見つかってほしい。どうして私はこのような時に何もできないのだろうか。ななしが木から落ちてしまった時のことを思い出す。あの時も助けることができず、泣いているななしに何もしてあげられなかった。ななしが辛い時に兄として力になれない自分がとても情けない。そういえば、何故先程の文で私のことを様付けに呼んでいたのだろう。今までそんな呼び方をしたことがなかったのに、急に他人行儀な呼び方に疑問を感じる。けど、ななしがいない今は確認する術もない。

「ななし、君はどうして私の前からいなくなってしまったんだ……」

 ぽつりと溢した言葉に、勿論返事はない。空を見上げると、欠けた月が白くぼんやりと浮かんでいた。その様子はまるでななしを失った私の心を表しているようだった。


20220320

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