G優雅・愚かしさ・赤い
今日の料理の仕込みを終え、椅子に腰掛けて一休みをする。暑い季節に扱う竈ほど大変なものはない。額に流れる汗を手の甲で拭いながら水を飲んでいたら、手に何かを持ったおばあちゃんがやってきた。
「ありがとう。あとは大丈夫だから、お店が開くまでゆっくりしておいで」
「ここに座って休むだけで充分だよ」
「秋華は本当に働き者で良い子だねぇ」
おばあちゃんの優しい笑顔につられて私も笑う。おばあちゃんが椅子に座ったから、おばあちゃんの分の水を用意して渡した。
満家を出た後、私はできるだけ遠くに行こうと人の多い街を通りながら彷徨っていた。少しずつ貯めていたお金とあまり得意ではない刺繍で稼いだわずかなお金で何とか生き延びていた。おばあちゃんとは、その旅路の途中で出会った。大きな街を出て山道に差し掛かった所で倒れていたのを助けたのがきっかけだった。石に躓いて転び、足を捻って動けなくなっていたらしい。私はおばあちゃんをおぶって家まで送り届けた。おばあちゃんは料理屋をやっていたみたいで、少し寂れた小さなお店にたどり着いた。
「本当に助かったよ。ありがとうねぇ」
「大丈夫ですよ。ご家族は?」
「私一人だよ。旦那も子供も昔に戦でね……」
そう言うおばあちゃんの顔は悲しそうで、私も自分の昔のことを思い出し、自分と重ねてしまった。
「その足で一人で生活できますか?」
「何とかなるでしょう。何とかするしかないよ」
「あの、足が治るまででいいんで、ここのお店のお手伝いをさせてもらってもいいですか?料理の腕には自信あります」
ずっと歩き続けるのに疲れたという下心はあった。それに本人はこう言っているけど、怪我をしたおばあちゃんを一人残したまま旅立つなんて、そんな中途半端なことはできない。このご時世に今日出会った人にこんなことを言われても怪しまれてしまうかもしれないけど、私は何と言われようとも怪我が治るまではおばあちゃんの側にいたかった。おばあちゃんはすぐに笑顔になると、快く受け入れてくれた。
「本当かい?それは助かるよ。名前は何というんだい?」
「あ……秋華です」
「秋華って言うんだね。これからよろしくね」
おばあちゃんは私の手を取ると、何度もありがとうと言い続けた。
私がななしという名前を名乗らなかったのは、満家の誰かが私を探しにくる可能性を考えたから。だから先程までいた街でたまたま聞こえてきた名前を適当に答えた。その瞬間から、私はななしという名前を捨てて、別の人間として生きていくと決めた。
おばあちゃんの怪我が良くなっても、おばあちゃんにずっとここにいて欲しいと言われたから、その言葉に甘えてこの料理屋で働かせてもらっている。育ててくれたのは満家ということ、そこの人に敵わない恋をして辛くなって出てきたこと、本当の名前は伏せた上で、私の過去を話した。ここにいさせてくれる理由は、私の話を聞いたからというのもあると思う。行くあてがないならずっとここにいなさいと言ってくれた。料理の腕を買ってくれたことも嬉しかった。母の作る肉まんが大好きだったから、何とかしてその思い出の味を作りたくて、必死に試作を重ねた。ついに出来上がったその肉まんは、お客さん達にも好評で、今やこのお店の看板商品にもなっている。
おばあちゃんは私が渡した水を飲み干すと、手に持っていたものを私に差し出した。よく見るとそれは見たことのない赤い花だった。
「綺麗なお花。これどうしたの?」
「これはお客さんから秋華に渡してほしいと言われたものでね」
「私に?」
おばあちゃんからその赤い花を受け取り、手に取って眺める。木になる花らしく、枝にいくつかの花をつけていた。
「それは石榴という花で、はるか西の方から伝わってきた花なんだよ」
「ざくろ?聞き慣れない名前」
「この辺りでは見ない珍しい花なんだけど、その人は秋華に見て欲しかったんだろうねぇ」
おばあちゃんは私の隣に座ると、ざくろの花を持て私の手を取り、ぎゅっと握った。
「石榴の実は種が多いから子孫繁栄の縁起物と聞いたことがある。これを秋華に渡したいってことは、その人は秋華に思いを寄せているんだよ」
「そういうことだったの……」
「今まで辛い思いをしてきた秋華には、この先幸せになって欲しいんだ。だからそろそろ良い人を見つけて欲しいんだよ」
おばあちゃんは頭を下げて、何度も手を握った。本当に私の幸せを願ってくれていると伝わるから、おばあちゃんのこの気持ちはとても嬉しい。けど、私はまだ誰かと結婚したいなんて思えなかった。私はおばあちゃんの手を取り直してこう伝えた。
「おばあちゃん、ありがとう。でもね、私はまだ結婚とかあまり考えられなくて。この人だって人と出会えたらいいんだけどね」
「そう。秋華が言うなら無理強いはしないけど、愛される幸せを知って欲しいんだ」
「そこまで考えてくれてありがとう。石榴を挿せる花瓶を探してくるね」
おばあちゃんの手をそっと解いて、裏口から外に出る。手頃の瓶を探して水を入れて、石榴の枝をそっと挿した。そういう意味の込められた花なら店に飾らない方が良いと思い、自室の机に置きに行くことにした。
愛する人に愛されるなんてことが本当にあるのなら、それ以上の幸せはないだろう。思いが通じるということは奇跡に近いと思う。愛する人から同じだけの愛を貰えないと知った時の悲しみは、言葉にできない程耐え難いものだった。もうあんな思いは二度としたくない。あれからかなり時間が経ち、毎日が忙しかったこともあり、伯寧のことを思い出す機会は大分減ってきた。もう忘れられた。私はもう大丈夫。と思っていても、ふとした瞬間に思い出してしまう。夢にも数え切れないくらい出てきた。伯寧の優しい声で「ななし」と呼ばれる度に、その腕の中に飛び込みたい気持ちになった。伯寧のことを忘れるために家を出たのに、伯寧への気持ちは全くと言っていいほど消し去ることができなかった。今までずっと大切に育ててくれた満家のことも裏切る形になったのに、身勝手な自分の愚かしさに嫌気が差してしまう。
自室の机の端に花瓶を置き、椅子に座る。こんなに綺麗な花をくれる人は、優しくて優雅な人なんだろう。そんな人に好いてもらえたら、きっと今までのことを全て塗り替えてくれるくらい幸せになれると思う。机に伏せて目を閉じたら、静かに涙が零れた。新しい恋をすれば忘れられるのかもしれない。それでも私は伯寧のことを未だに忘れられないのと、次も同じようなことが起こってしまったらと考えたら、怖くて先に進むことができなかった。
20220328