法正


 仲の良い女官仲間は皆法正様にお熱のようだ。すれ違う度に「素敵」「格好良い」という言葉から始まり、法正様の話題で持ちきりになって皆仕事の手が止まる。先程も執務室に入る法正様のお姿を一瞬見ただけで話が盛り上がり始めた。私はそれを横目に見ながら炊事場へ行き、洗い物を始める。少ししたら皆が来るけど、それまでに少しでも進めておきたかった。一人で仕事を進めていたら、あろうことかここ最近話題になっているご本人様が現れた。作業の手を止め、腰を下げて挨拶をする。何の用で炊事場に来たのだろう。理由はわからないけど、目障りにならないようにと思い、その場から動かずに洗い物を再開した。その時、法正様がこちらに向かって真っ直ぐ歩いてきた。何か仕事を任されるのかと思って顔を上げたら、法正様が不意に私の手に触れた。洗い物の真っ最中で手が濡れていたから、法正様のお召し物を濡らしてしまうと思い、慌てて手を引く。だけどそれよりも早く法正様は私の手を掴み、そっと撫でた。

「こんなに傷だらけの手で冷たい水に触れたら更に酷くなってしまいますよ」

 法正様はそう言うと指先で手の甲の荒れている部分をするっとなぞった。水仕事で荒れ、乾燥で更に傷が広がって血が滲んでいて、お世辞にも綺麗とは言えない手をそっと撫でるその様子は、普段の法正様からは想像できないお姿だ。返す言葉の正解がわからずに固まっていたら、ようやく手を離してくれた。

「手荒れに効く薬を手配しましょう」

 法正様はそれだけ言うと炊事場を後にした。慌ててもう一度腰を下げてありがとうございますと声を出したけど、既に先を歩いている法正様にちゃんと届いているだろうか。法正様の姿が見えなくなった後、法正様に触れられた手にそっと手を重ねた。先程まで冷たい水に触れていたはずなのに、竈を扱っている時のように熱い。ついでに言うと、胸の音もうるさいくらいに聞こえている。ゆっくりと呼吸をして落ち着かせていたら、女官達が炊事場に入ってきた。

「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
「そう?顔が赤いから熱でもあるのかと思った」

 女官は私の頬を指でつつくと、各々の仕事に取り掛かった。何もないわけないけど、これは他の人に話したくない、私だけの思い出にしたかった。ここではっと気付く。そう思ってしまった時点で私も法正様の虜になってしまったのではないかと。あれだけ他人事のように聞いていた女官達の話も今ならわかる気がする。だけどこの先も彼女達の話に加わる気はない。今日のお優しい法正様は私だけの思い出の法正様なのだから。


20210614

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