05
最早指先まで飲まれた女の周囲をも斬り落とさんとしたのだろう。青い刃は泥を縦に真っ二つに斬り裂いた。その瞬間、小夜が泥の中に手を突っ込んで女を引きずり出した。どしゃ、と水音と強烈な血の臭気と磯の香りが鼻を突いた。子供は未だ泣き叫んでいる。
女を引きずり出された泥は消えることなくその場でスライムのように蠢いていた。やがて先程断ち切られたもう半身と繋がったかと思うと、溶けるようにして地面に沈んでいく。

「逃がさん…!」

男が大きく刀を振るい改めて泥を斬ったが、泥は霧散するように消えてなくなった。
夜は晴れない。子供の泣き声だけが大きく響く中、今度はあたりが暗くなる。月明かりは変わらない。なのに、やたらと周囲が暗くなっていく。

「これは、この気配…」

間違えるわけもない。

──歴史修正主義者。

その気配を、確かに感じた。何故、今、この暗闇で。

ぎゃあああ、と泣き叫ぶ赤子の声にはっとした。赤子を返さねば。そもそも、女性は無事なのか。
沙耶は女性の近くまで駆け寄って女性の容態を確認し、息を飲んだ。
──胸から腹にかけて大きくえぐれている。臓腑ごと抉られたその体では、当然ながら息はない。
思わず沙耶は泣きわめく赤子の顔を自分の胸に寄せ、その視界に物言わぬ母が入らぬようにする。頼りない手が拒絶するように動いたが、奇しくもその手の行き先は母の亡骸のある方向であった。

「……どうか、冥福を…。この子どもに幸を」

そう呟く告げると、1度目を閉じて、すっと泥に視線を向けた。哀悼に沈む時間はない。どんどん暗くなる周囲に、沙耶は僅かに目を細める。
少し離れたところに、闇がやけに深く靄がかっているところがあった。暗くなる事にその靄も近寄ってきているようだった。
青年もその気配には気が付いているようで、沙耶を気にしつつも闇深いところから目を逸らさない。赤子の泣き声がいい加減耳に痛くなってきた。

「小夜」
「なに」
「斬れる?」
「形がない」
「そうですか」

短い会話だったが、ありがたい情報であった。
斬れるかどうか、という問いに形がないという回答。斬れない。しかし、逆を言うと【形さえあれば斬れる】のだ。さらに言うと、この闇は【斬れないものではない】ことが確定した。小夜がそう言うならそうなのだ。

兎にも角にも、状況からの打破が必要だ。
沙耶は大きく息を吸い、出来うる限り心を落ち着かせる。

「冨岡さん、貴方、先ほどあの泥を斬りましたね」

解答はないが、意識が自分に少し向いたのは分かった。

「手ごたえはありましたか」

青年は少し考えたようだった。

「泥の感覚はあったが」
「そうですか」

黒い泥も、この闇も、形はない。つまり本体じゃない。もしくは、今は斬れる状態ではない。

「あの泥、音に反応しましたね。音さえなければ村人は大丈夫でしょう。それから」

沙耶は女性の半開きの目と口を閉じてやった。少しでも、健やかに眠ってほしい。
沙耶は赤子を抱き直すと立ち上がる。

「磯の臭い。海辺へ行ってみましょう。何かあるはずです」

冨岡は少し迷った様子だった。そうしている間にも、沙耶は小夜の手を取った。

「僕が離さない限り、手を離さないで」
「ええ、承知しています」

その様子を見た冨岡はざり、と一歩を踏み出した。

「行くぞ」

沙耶は頷いて小夜とともに走り出した。
赤子は未だに強烈に泣いている。耳は痛いが、靄はそれを目印にするように追いかけてくる。

港に着いたとき、一隻の船が停泊していた。沙耶らの気配に気が付いたらしい者が数人、決死の形相で声を上げた。おそらく漁から帰ってきたのだ。
船にはいくつかの明かりが灯っていて、辛うじて彼らの姿形を浮き出していた。

「ま、また出やがったのか!」
「あなたがたは…」
「あんたらはなんだ、それにその子供、きよんところのチビじゃないのか!」

暗くて顔はよく見えない。見えないどころか、影でしか人だと判断が付かないがこの村の男たちだろう。声をかけようとしたが、沙耶の言葉は遮られた。ついでにかかった子供への問いかけにも答えようとしたが、それも阻まれた。

「この子は…」
「泣き止まねえのか、あいつは音に反応するし、そろそろ仕返し鬼が出てくるぞ!」

仕返し鬼?
そう疑念を持った時、不意に小夜の手が離れた。はっと周りを見れば、あたりはまるで新月の夜のように真っ暗だった。
船に灯っているはずの明かりも、どうにも意味をなしていない。

赤子の泣き声の合間に、鈴の音を拾った。
それは一瞬のこと。前後左右、どこにも音源らしきものは見えないし、鈴の音も一度だけだった。

「(気のせい…?)」

そう思い始めたとき、また、今度は確かに鈴の音が鳴った。たった1つの鈴ではなく、いくつも連ねた多数の鈴を鳴らすような音だった。
どこからともなく聞こえるその音。
その音の正体を、名を、沙耶はよく知っていた。

「──神楽鈴」

はっきりと、その姿を思い浮かべながら沙耶が呟いたとき、闇が少し晴れて、代わりに一本の鈴が唐突に姿を現した。合計15個の鈴が山形に結ばれた、舞にも使われる鈴だ。
音の主の姿は見えないが、ぽつりとそこに浮いているから、『いる』のだろう。

「今、なにをした…?」

冨岡が鈴から目を離すことなく呟いた。

「名を当てただけです。名は体を現します。小夜はさっき、形がないと言った。つまり正体を、名を明かせば【彼ら】は私たちの前にも形として明かされることになる」

そう、形がないということは、そういうことだ。こうして形を与えれば、斬れる。

「言っている意味が分からない」
「まあつまり正体を知って、当てれば姿が見えます。そして斬れます」

シャン、シャン、と一定の間隔で音が鳴る。右へ、左へ移動し、時たままわる。
誰かが舞っているのは確かで、その舞手を特定しないことには意味はない。
むしろ、今鈴を斬ってしまうと舞手の居場所も突き止めることができなくなる。
下手に斬ることができない。

やがてぴたりと鈴の動きが止まった。


──嗚呼、彼の方の瑕や如何にしてやなおすべき。

まるで悲観するような声がして、その後ポトリと鈴がその場に落ちた。──鈴の音すらしない。
唐突にそこを中心に地面がぬかるんだ。
──やつだ。
また出たと思ったが、それは鈴を飲み込んだ後すっと音もなく消え果てた。

次の瞬間、カッと目の前が白く弾けた。
余りの眩しさに赤子ごと顔を腕に閉じ込めた。やがて耳がさっきまでは聞こえなかった海鳥の声を拾っていることに気が付いた。
おそるおそる顔を上げた。
眩さに目は慣れないものの、沙耶の目はきらきらと光る穏やかな海を映した。

頭上から気の抜けた海鳥の声が多数降ってくる。
あたたかな潮風が吹いて、清めるように沙耶らの全身を撫で、村へと吹き抜けた。
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ゆりのやうに