あまりに一瞬のことだった。
いつの間に移動したのか。いつの間にか、それは沙耶の後ろに佇んでいた。あっという間に沙耶をその身にのみ込んだ。
「…くそ…!」
短い啖呵のあと、小夜が一直線に泥の中へと突っ込んだ。ぼちゃんと大きな音がする。
義勇は一瞬は迷った。だが、修羅はこの泥の中から出てきた。つまり、この向こうに元凶はいるし、何よりこの泥から鬼の気配がする。
義勇は意を決すると己も泥の中へと身を投げた。
水中のようだった。圧迫感はあるが、さほど深いものではないと察せられる。とにかく上へと足をばたつかせればすぐ水面に至った。
強烈ない磯の匂いとベタつく感覚に、海だと悟る。
すぐ近くの岩岸へ上がると近くに小夜と沙耶がいた。小夜は全身濡れているものの、特に変哲はない。
沙耶の小袖が大きくはだけて、衣服としての意味をなしていない。しかし、その下に見慣れぬ洋装を着込んでいる。沙耶はやや雑に帯を解いて小袖を脱ぎ捨てるとむせながら立ち上がった。
それを手助けしながら、義勇に気が付いた小夜が瞳を鋭く光らせた。
「いま、たぶん鬼がいた。僕が斬ればどこかへ行ったけれど」
「そうか。修羅は」
「辺り一帯そこかしこ。というより、この暗さが修羅だ」
あたりは暗い。
闇が深くてお互いの視認も難しい。
空を見れば星が浮かぶ。
西を見れば、日は沈んだもののまだ明るさを残した水平線が見える。
──異常な暗さだった。
「っげほ…あの、闇ですね。修羅のものです」
「名が分かれば姿を見せるんだったか」
ええ、と沙耶がやや苛立たし気にあたりを見渡しながら頷く。
「一体何を励起すればこんな闇を顕現できるのか、想像もつきませんね」
「それにしても。ここはどこだ…」
辟易したように義勇が呟くと、ああと沙耶があっけらかんと答えた。
「拾い岩です」
「…なんだと?」
拾い岩と言えば、村長が話していた海上の岩島である。
しかし、そこは先の村から沖合に出なければたどり着けない場所だ。何故ここがそうだと分かったのか。少なくとも、今いる岸側からは一面の海しか見えない。
沙耶が自分の目を指さした。黒々とした目である。
「時間に制限はありますが、1里程度なら見渡せる目がありますので。少し離れたところにさっきまでいた陸がみえます」
「…お前、人間か?」
「鬼に見えますか?」
「…」
「ちょっと、黙らないでください」
心外だと憤る沙耶を目の端に追いやって、義勇はあたりの気配を探る。一先ず近くに鬼がいるようだが、妙な圧迫感があってどこにいるかが掴みにくい。
この圧迫感が修羅なのだろうか。
「それにしても、あの泥、ここに繋がっていたようですね。けっきじゅつ、でしたっけ?」
よくしゃべる女だ、と少し疲れた気分になる。
「鬼が使う異能だ」
「へえ、鬼の力って便利ですね」
便利だが、人でない証でもあると思う。
それに近い力を持ったこの女は、義勇にとっては少々異質であった。鬼の気配ではない。人間だとは思う。しかし、人間にしてはあまりに突飛な力も持っているようだ。
「鬼の居場所は分かるか」
「向こうです」
迷いなく一点の方を指さした。
「そこの岩から上に上がれます、その先に死体が山になって転がっています。きっとここはさしずめ鬼にとっての食事場所なんでしょうね」
「そんなことも分かるのか」
時政沙耶を名乗ったこの女性は謎が多かった。
最初はただの薬売りだと思っていた。しかし、鬼の術に巻き込まれるようになってから、異能とも言うべき能力がいくつもあった。
「ええ。そのもう少し先の洞窟に鬼らしき者が潜んでいますね。姿はよく見えないんですが、顔に白い布のようなものを貼ってるから、きっとこれが鬼ですね…」
キョロキョロと周りを見るこの女。まるで千里眼である。その場にはいないのに、まるでその場を見ているかのように言う。実際見えているかのようだった。
また、彼女が『修羅』と呼んだ存在。そんなものを義勇は初めて聞いた。励起の術とやらも、なにもかも。血鬼術の間違いじゃないかと思ったが、義勇には沙耶を否定する材料も肯定する材料も持たない。
「動く気配はありませんね」
「俺が行く。お前たちは待て」
言われた通り、沙耶の言う方向に行ってみるとする。岩場を登れば、今いる場所は海上にぽつりと浮かぶ小さな岩島であることが分かった。そして、遥か先にさっきまでいた小さな漁村も見える。
沙耶の言う通り、ここは拾い岩のようだ。
積みあがった腐臭をまき散らす死体の山もある。
彼女を本当に信用していいのか。義勇には判断しかねた。
ただ、掴めるようになってきた鬼の気配のする方角は確かに沙耶の指さした方角だし、そこにある洞窟には、確かに鬼が潜んでいた。
鞘を払う。今は余計なことは考えないようにする。悪鬼は滅するだけだ。
「小夜、行ってあげてくれますか?」
「何故」
残された岸辺で、沙耶は小夜に向かってそう言っていた。
「あの人は鬼を斬れるでしょう。かなりの強者です。けれど、それを守る闇は斬れないでしょうから」
「それは僕も同じなんだけれど…」
「でも、ある程度は祓えるでしょう?」
「まあ…」
あの闇は厄介だ。
おそらく、闇──歴史修正主義者が鬼を守っているはずだから、きっと鬼を斬るのに苦労する。あの闇は斬るに斬れない。
同じように励起されたモノで、しかも神性を持つ小夜なら、多少なれど退けることもできるはずだ。
「だから、お願いします。行ってください。その間に、私は闇の本体を探します。本体が分かれば、それを破壊すればいいだけの話ですからね。大丈夫、【あなたの本体】は肌身離しません」
「…分かった」
しぶしぶ、小夜が踵を返した。
それを見送った沙耶はわずかに息を吐く。
鬼の方はこれで解決するだろう。
問題は修羅──歴史修正主義者の方。
彼らには、時政沙耶という人間が、まして審神者がこの世界にいるなどとは決してばれてはならない。
──取逃がしは許されない。
瞼を閉じる。
しかし視界は実に良好だった。周囲のことは裸眼で見るより明瞭だし、小夜や冨岡の位置も把握できる。
おそらく、闇として鬼の近くにいる歴史修正主義者の本体を探さなくては。これだけの闇だ。それなりの依代のはずだ。
範囲を拾い岩だけにして手際よく探していく。
脳へのストレスが大きいから、あまり長くはもたない。
「(…祠、そういえばここは神域に該当するんだっけ)」
祠の中だけはやけに視界がわるい。唯一、その奥にやたらと美しい巨大な貝殻が見えただけだ。おそらく神田殻だ。
正直、この神田殻を疑っていたが、励起された依代ではなさそうだ。
では一体、敵は何を励起した?
また、鬼と冨岡と小夜以外に何者かがいる気配がない。どこかに、おもちゃや闇の大元に対して励起の術を使った者がいるはずだ。
しゃん、と澄んだ鈴の音がした。
目の前でしたので正直驚いた。
沙耶は霊視を取りやめて目を開けた。目の前で、ほんの1歩2歩先の場所で、鈴を持った誰かが舞っていた。
どっと冷や汗がにじみ出た。
目の前に、修羅がいる。
姿を持たぬ修羅だ。気配は限りなく修羅に近いが、少し違う。
さっきの人形と同じような気配。きっと刀が依代ではないのだろう。
沙耶が知る修羅──歴史修正主義者は刀等の武器が依代だ。依代が全く違う。刀剣男士と歴史修正主義者くらいに違う。それでも、彼らと同じ気配がするということは、何かしらの関係があって励起されているのだろう。少なくとも、励起に歴史修正主義者が関わっているはずだ。
「あなたは、何」
ぽつりとそう呟いたとき、ぴたりと鈴が動きを止めた。
小夜を呼んだ方がいいだろうか。