「人生はままならないな」
兄はそう呟いた。
この2年で恐ろしく増えた墓石に、どうしてもそう呟いた。
「この世は苦しみに満ちていて、不条理だ」
漁村の民は善良であった。なのに、不漁続きで子供がほとんど死んでしまった。
「この世は諸行無常でできていますから」
生きるとは、すなわち地獄であり、修行である。仏門ではそう教えられる。死後の安寧を祈って、生前に善行と修行を繰り返すのだ。
「兄様のおっしゃるとおりです。ですが、俺は…不謹慎なことに、今年も兄様と一緒に春を迎えられることがとてもうれしい」
「お前な…」
兄が呆れて私を見た。
風は爽やかで新緑の緑を揺らす。晴れ渡る空から降り注ぐ日の光は包むように温かい。拝殿から見える海は限りなく穏やかで美しい。
なのに、この村は死に直面するような貧しさを見せていた。かつてないほどの不漁。例を見ない極端なものであった。
「後悔はいくらでもできます。兄様はこの村のために稼いできたお金をすべて米や野菜にして村人たちに施してきました。素晴らしいことです。だから今年は子供が10人も生き残りました」
「理草…」
仏門に下って以降、兄にはその名で呼んでもらうようお願いした。
理草。兄は名を連(むらじ)と言ったから、連理の草を意味して理草と名乗った。
ずっと一緒だと、助け合って生きようと誓い合った兄に因んで名乗ったこの名は、私にとって限りなく素晴らしい仏名であった。
「(これは、なに?)」
目の前に広がる景色に、沙耶は愕然とする。
声を出すこともままならない。何故か体も動かない。
目の前に鈴を持つ何かが現れて、小夜を呼ぼうか迷っていたところまでは覚えている。だが気がつけば、暖かな日差しが降り注ぐ──拝殿の前に、私は立っていた。さっきまでは拾い岩にいたはずなのに、拾い岩は拝殿の遥か沖合にぽつりと浮かんでいる。
「(霊視…?でも、あれはこんなに現実味を持たせるものじゃない、はず)」
2200年代、この時代は科学とオカルトが出会う時代でもある。
OMS…オカルティックセンス・マニピュレイト・システムの開発が、その最たるものだ。
日本人は生後まもなく、例外なく脳に電子神経回路制御装置を埋め込まれるが、その上位互換装置を使う。審神者専用だ。
人間が持つ第六感覚と呼ばれるものをこのシステムが捉えてくれる。第六感覚、いわゆる霊感だ。
実はこの第六感覚は誰にでもあって、脳は第六感を確かに受信していることが近年の調査で証明されている。ただし、脳の大半を思考することに使う人類はそれを知覚操作することが出来ない。脳へのストレス負荷があまりに大きいからだ。
どれだけ感覚が優れていようとも、これを人間は生きたまま、はっきりと知覚し操作することは生物学的に不可能なのだ。
だがこのシステムは人間が知覚できないその第六感を精緻に捉え、五感神経にフィードバックして知覚化する。
知覚化の方法は様々だが、多いのは視覚へのフィードバック。眼球に施した投影技術で確認する程度がほとんどである。
霊視によって過去の記憶を覗き見ることはできる。しかし、意識しなければこんなに視界を占拠されるようなことは無い。
「(暖かい風…皮膚感覚、鳥の声…聴覚、草木の匂い…嗅覚…それからこの景色、視覚)」
五感全てが記憶に支配されている。
沙耶は内心でどっと冷や汗を流す。
こうした例は全くないわけではない。しかし危険な状態だ。意識が体と完全に乖離している。体は無防備だし、体に意識がないということは、最悪の場合呼吸すら出来ていない可能性すらある。
「(帰らなきゃ帰らなきゃ帰らなきゃ帰らなきゃ…!!!)」
焦って意識的にOMSを切ろうとするが、どうにも上手くアクセスできない。
ぎゅっと目を瞑る。体感を取り戻すことに集中しなくてはならない。
「(……え、私いま、目を瞑った…?)」
つまり、体の支配権が戻っている?おそるおそる目をひらく。そこにあるのは果てのない闇。海の音はしないし、岩場特有のごつごつとした感覚も足元にはない。ただ広がる闇だけが支配する。まだ意識は取り戻せていないようである。
体の感覚を確かめてみようとしたとき、目の前に鈴が現れて、また舞い始めた。
「……あなたは何ですか」
ぴたりと動きを止めた鈴が、しばしの間を置いて半円を描くように動く。持ち主が体の方角を変えたように見えた。
そこに体があるとして…その視線の先を追うと、いくつもの松明が円を描くように突き立てられていた。
さっきまではなかった。
円の中は硬い土の地面が見える。
──鬼じゃ、鬼が悪さをしておる!
どこかで聞いたような声だな、と思った。最近聞いた声だ。
松明の中心で、顔に鬼の面を付けた男が踊っていた。男が叫んだ。
──鬼が魚を遠ざける!さあさあ皆の衆!鬼を狩れ!
弟。そうだ、この声は、先の弟…理草の声だ。
火が躍る。爆ぜる火の粉は舞うようだった。
ついで聞こえたのは男たちの雄叫びのような大声だった。
──さあさあ狩れ!さもなくばお前の家族が餓死してしまうぞ!
叫ぶ鬼の周囲を、たくさんの男たちが囲っていた。それぞれに硬そうな木の棒を持って、垂直に勢いよく定期的に振り下ろす。
そこに踊る鬼が近寄って合間を縫うように抜けていく。
時折木の棒が鬼にぶつかっては鈍い音を立てる。しかし男たちは棒を振り下ろすのをやめないし、鬼は踊るのをやめない。
「待って、そんなことをしたら」
どかり、どこんと鬼と木の棒がぶつかる回数が増えてくる。
ぶつかる度に鬼の動きは鈍くなる。鈍くなればなるほど、鬼は幾多の棒にどつかれた。
鬼の男から血が流れるが、振り下ろされる棒が少なくなることは無かった。
何をしているの、何が起きているの。
──ああ、憎い。悪さをする鬼が憎い!!そうだろう、そうだろう!
鬼の男が怒号のような声を上げた。
鬼がどうじゃどうじゃと問いかける。
そうだそうだと、誰かが返した。
やまない打撃、止まらない踊り、飛ぶ血飛沫。
このままでは死んでしまう。
何をしているの。唖然とそれを見ている時、ふと聞こえる声があった。
──3度鬼が踊りきれば、この村はまた不漁!
…つまり、これは豊漁を呼ぶ、祭り?
思わず腹が立った。
「……祭り、ですって?あれが?」
ふざけないでほしい。怒りのままにその集団へと近づこうと足を動かしたが、不思議なことに少しも距離は縮まらない。鈴は相変わらず隣に浮いている。
苛立って、思わずその場で地団駄を踏んだ。ここは現実の世界ではない。体を動かしたところで意味は無いのだろう。
鈴を睨みつけていれば、どさりと重い音がした。見れば、倒れ伏して動かなくなった鬼を、男たちがどこかへ運んで行ってしまうところだった。
船で沖合まで進み、小さな岩島の祠に到達する。
沙耶は、息を飲んだ。
事故で神主の弟が死んだ等。
嘘だ。
殺したのだ。この村人は。
神事という名で覆い隠した殺人だ。
それも、とても質が悪い。
なまじ効果が多少あるものだから、余計に。
「何が神事!時代遅れも甚だしい!」
怒りながら、沙耶はあることを思い出していた。
神主の弟が、神器を傷付けたこと、彼が祭りの事故で死んだ年、この村は大豊漁だったということを。
「神鎮めですね、人身供犠によって荒ぶる神を鎮めたのですね、他に方法があったでしょうに、神は正しい祭りと儀式で鎮めることもできたでしょうに、なんて…!」
沙耶は閉口した。誰かの泣き声がする。
兄の方だ。兄の方が、いつの間にか弟の亡骸に追いすがって泣いていた。
兄はともかくだ。
弟は、祭りの概要をきっと知っていた。
でなければ途中で逃げ出したはずだ。
それをせずに踊ろうとしたということは、弟はこの祭りが自分を生贄にするものだと知っていた。
…なぜ、参加したのか。
「………これ以外に知らなかったのですね。神の扱いを、…償い方を。あなたは…」
きっと、自ら望んでそうなったのだろう。
「……理草さん」
姿を持たぬ誰かが、鈴を持って私の隣に立っていた。
何故、どうやって、どのようにして彼は励起されたのか。死者が励起される等聞いたこともないが、事実彼は今、ここに励起されて立っている。…実際に励起されているのは、理草の一部、なのだろうが。
それにしても、やはり姿が安定しない。沙耶が名を呼んだにも関わらずだ。
「なんのつもりで、…私に何を見せたいのです。何を望んでいるのですか」
──彼の方の瑕や如何にしてや直すべき
いつか聞いた嘆きと共に、おぞましい断末魔が聞こえた。
見遣れば、兄が頭から血を被って、真っ赤に染まっている。岩場には人のようなものが杭で磔にされていた。両肩、腕、首、鳩尾、脚。打ち付けられたその先はメリメリと音を立て回復する、正しく異形。回復する異形を許さないといいたげに、回復する度に兄に手足を斧で切り落とされていた。1度では切り落とせないのか、何度も同じ箇所を殴るように切り付ける。
あまりにもグロテスクで、見るに堪えない。硬直した沙耶の耳に飛び込んで来たのは、おどろおどろしい色を混ぜた兄の声。
どこからここへ流れ着いてきた!
どこでその不死身を手に入れた!
その体さえあれば、理草は、理草は!
どうやってその姿になった!!!
手を切り落とし、時に額を割り、心臓を抉った。骨を剥き出しにするように折る。その様は正しく狂気の沙汰だった。
あんまりだ。沙耶は恐怖するが、体が現実世界のものではないからか、吐き気も呼吸不全もない。…戻った時が恐ろしいな、と沙耶は気を遠くする。
……様の血を飲めばいい。
……様…?
あの方の血を飲めばいい。俺の血にも混ざってる。
その方はどこにいる?
分からない。
静かな問答が終わった時、兄は唐突にその心臓の部位に斧を突き立てた。内腑を取り出し、その血を啜りだす。
なら、お前の血を飲めば同じこと…!俺も鬼になれば、弟にもこの血を飲ませればいい!弟はまだ息があるんだ、祠の前にいる、まだ…!
なんどもそれをくりかえし、次第には切り落とした手足すら齧り始めた。その時には、兄は体の色も、体格もメリメリと変わり始めていた。
…これが、鬼の正体。
「これを見せたかったのですか?」
──彼の方の瑕や如何にしてや直すべき
またこの声だ。今ならわかる。理草の声だ
。目の前の彼は相変わらず佇むだけだし、実際に喋った訳では無いけれど、たしかに聞こえた。
この人は、死人だ。
死者は蘇らない。生前の直前の思い残しが、所謂幽霊として残存する程度で。彼はその理草の残り滓のようなものだ。だから、これしか言わない。
闇は理草。何者かの手によって──おそらく、歴史修正主義者か、歴史修正主義者に手引きされた何者か──励起された、理草の心残り。
「彼の方の瑕。あなたは、死の直前に気が付いたのですね」
この村に、かつてあった加護はないことに、気がついてしまったのだろう。おそらく、それを取り戻すために身を捧げ、祟りのような不漁は回避した。怒りはたしかに鎮まった。だが加護は返っていない。
加護が返らないその理由、可能性があるとしたら、神田殻の瑕だ。
もしかしたら、彼の方──神田殻を修繕すれば、戻るかもしれない。
あくまで可能性の話だが。
きっと理草はそれを言っている。
──彼の方の瑕や如何にしてや直すべき
「直ぐには難しいですが、村に戻れば掛け合いましょう」
──彼の方の瑕や如何にしてや直すべき
…うるさいな。
けれど、雰囲気が穏やかになったから、きっとこれが正解だろう。