事件が起きたのは、『孫子 計』をかなり読み進めた頃合いだった。竹千代自身も予習を始めるようになってしまい、嬉しいやら年上の威厳が消える焦燥感やらで忙しい。
竹千代は基本、邸から一歩たりとも出てはならない。しかし従者の私は別で、見張りがいれば市井に買い物などに出かけても良いそうだ。
そんなわけで、何度か買い物に出かけたりしているわけだが、そのさなか、のことだった。

「どうかされましたか」

ふと足を止めた私に、見張りの人が声をかけてきた。
私が逃げ出さないためにか、もしくは単純に心配しているのか。見張りの人は外に出る時、基本的に手を繋いでくる。よく親子に間違えられる。まあそうですよね。なので、私が足を止めればすぐにわかるのだ。
私の視線を負った見張りは「ああ」と呆れたように息を吐いた。

「喧嘩ですな。最近多いのです」
「そうなんですか?」

初めて見たなあ。
どうやらチンピラ同士の揉め事のようだから、あまり関わらない方が良いだろう。そう思って視線を逸らしたが逸らした先に見覚えのある影があって、私はびくりと肩をゆらした。見張りもその姿に気付いたらしく「うわ」と気まずそうな声を上げた。

──吉法師。
いやによく覚えている名前だった。彼によって行われた殺戮は正直目に焼き付いて離れない。視線を逸らすということもできないほどに圧倒的な力の差であの場を平定してしまった男だ。
まさかあのチンピラたちを殺してしまいやしないだろうかと心配になった。
実際、吉法師は颯爽とチンピラたちに向かっていくと。

「ウワァアアアア!」
「き、吉法師ィイイイ!」

殴る蹴るのオンパレードだった。ていうか、まじ理不尽な暴力過ぎてやばい…。一応恩人では(精神的には全く恩人ではない)あるので言及はしないが、どうやら顔と名を知られている程度にはあちこちの人間にヤバい人認定されているようだった。
喧嘩していた2人が完全に沈黙し(あれ死んでないよね?)、吉法師はすっきりとした面持ちだった。その後ろに第三者が見え、私はハッと声を上げた。

「後ろ!!」

驚いたように吉法師が私を見たのは一瞬だった。すぐに姿勢を低くして振り返った彼は、後ろから振り下ろされていた木の棒を間一髪避けて見せた。が、避けきれなかった肩に棒が直撃したようだ。
あれ、怒らせてるよね、たぶん。あの男の人大丈夫かな…。
はやりチンピラの方が心配になる。どうしよう、恩人(やっぱり精神的には全く恩人ではない)の肩より、チンピラの方が心配になる。
実際、吉法師は少し怒ったのだと思う。だってひと蹴りで成人男性が5m以上吹っ飛んだ。

「見なかったことにしましょう」

私は見張りの手を引いて足早に屋敷へと向かった。が、そうは問屋が卸さないのが世の常であった。吉法師の声が突き刺さるように飛んできた。

「おい!そこの子供!!」

ものすごくこっちを見ながら叫ばれた。私のことですよねはい。足が縫い付けられたように進まなくなった。吉法師のひと声の威力が凄まじい。
大股で近づいてきた吉法師は私のすぐ近くまでくると不思議そうに顎に手を当てた。

「礼を言おう。…お前、どこかで見たな…」
「って覚えてないんかァい!!」

こっちは目からも脳からも焼き付いて離れないのに!思わず突っ込めば、見張りが真っ青な顔をして強く私の手を引いた。

「月子!なんて口のきき方を…!」
「よい。子供の言うことと思えばかわいいものよ」
「…」

言い返す言葉がなくてとりあえず黙った。いや言いたいことなら山ほどあるが、言える内容ではない。
しばらく黙っていた吉法師だったが、ふと見張りのひとが織田の兵士だと知ると見張りに私のことを尋ねた。

「この子供は誰だ?」
「は、月子と申します。先日の松平の人質である竹千代の従者でございまして、従者では唯一の生き残りです」
「…ああ、なるほど、あの」

思い出したように吉法師の声がわずかに高くなった。

「あの時は妙な服を着ていたからな。あの服は俺がもらい受けている」
「え!?」

あ、そういえばそんなこと言われてたような…!いやでも捨てたって聞きましたけど!?あ、気を使ってくれたのかな!?
ていうか、なんで服にそんな興味津々なんだこの人…!安物なんだけ、…いや安物でもオーバーテクノロジーなのか。この時代、刺繍一つ入ったものでも非常に高価なはずだ。しかもそれが未知の技術で、新しい発想の柄となると放ってもおけなかったのだろう。

「月子、褒美をくれてやっても良い。何がいい」

頼んで方がいいのか、だめなのか。思って見張り兵を見れば、何か頼むように言われた。マジか。でもあんまり高価なのはまずいよな…。でも、竹千代のお陰で生活には困っていない。どうしたものか、と悩んでから、ふと竹千代との勉強会が頭を過ぎった。

「本」
「本?」

吉法師が僅かに目を見開いた。

「竹千代さまでも楽しく読めそうな本が欲しいです」

その場にわずかな沈黙が降りた。それを引き裂いたのは吉法師の笑い声だった。

「あっはっはっ!!貴様の頭の中は全て松平の倅か!」
「そんなわけじゃないんですけどー…」
「よかろう。本だな、何か持たせよう。楽しみにしておけ」
「はい…」

颯爽と去っていく吉法師を見送り、私は困ったように見張り兵を見た。彼もまた、どこか呆れたように私を見るばかりだった。

本が届いたのはそれから3日後の事だった。竹千代と恒例の勉強会をして、意味を調べたりしながら『孫子 計』を読み進めていた頃だった。かなり佳境に入っていて、私は頭の中で次の書物を思い浮かべていた。もしくは『孫子 計』の写生でもいい。「月子殿、月子殿」とどこが切迫した声で見張り兵に呼ばれた私は玄関の方へと連行された。何が起こっているのかと目を白黒させていると、目の前に現れたのは1人の男性だった。

「………は?」
「ほう、先日は構わんとは思ったが、口の利き方は躾ておくべきか」
「えっ…え!?!?」
「本が欲しいと言ったろう」
「え!?!?」

まともな単語が出てこなかった。本当に本を渡してくるとは思わなかった。というか、まさか自分で持ってくるなんて誰が想像したか。
控えていた吉法師の従者がずい、と目の前に突き出したのは10冊ほどの本だった。古文書のように少し古びた気配があるその本の題目は、国語や歴史に疎い私でも聞いたことのある題目であった。

「こ、『今昔物語集』…!」
「珍しい本だ。お前が欲しがったものに一番近いだろう。受け取れ」
「い…っ、いいんですか…!!」
「礼と言ったろう」
「ありがとうございます!!」

思わず頭を下げた。90度の深々とした礼だ。今昔物語集。逸話がたくさん集った本だ。竹千代に読み聞かせるにはこれ以上とない本である。子供なんだから兵法書ばかりじゃだめなのよ!!感性と思いやりはやはり昔話や逸話にこそ眠る。残虐なのも少なくないけど。理想は童話だけれど、日本の童話ってどこかジメジメしてるのでこっちでいいだろう。

「倉で眠っているものを全部持ってきた。巻数は飛び飛びだが問題なかろう」
「ええ、全く!ありがとうございます!」

決まりだ。『孫子 計』が読み終えたら、次は『今昔物語集』に決まりだ。健全な話を選んで抜粋して読んで、それを多角的に読むことで物事を良い意味で“批判”することを覚える。
『孫子 計』を読むことだってそうだ。あれは千年以上前に編纂された本だ。それをこの戦国時代で鵜呑みにするのも危険である。いい感じに“史料批判”することを覚えてくれたらいい。

「ところで月子、お前明日登城しろ。お前の話が聞きたい」

本を見て1人でテンションを上げていた私に、上総介がそう告げた。その瞬間、その場の空気が凍ったことをここに追記しておく。

 
ゆりのやうに