どさりと、強い衝撃が全身を襲った。反射的に目を閉じていた月子が確認できたのは、ツンとした土の匂いと、タイルにしては柔らかな感触、(しかし衝撃は強い)それから大量の枯葉が擦れ合う音だった。
地面に叩きつけられた衝撃と痛みに、しばらく体も動かせなかった。20秒ありがとうございますおたほどかけて立ち上がるのがやっとだった。
この時には、私はある種の『異常性』を感じ取っていた。呻き声をあげながらなんとか立ち上がり、とにかく周囲を見渡した。足と腰と腕が特に痛む。軽い打撲状態であろう。


「…っつぅ…はぁ…」


体中に付いた土や落ち葉を緩慢な動作で払い落とし、衝撃で硬くきしむ体を叱咤して背筋を伸ばした。
――森の中だ。
ついさっき――否、今しがた歩き回っていた大学の面影すらない深い森の中だった。典型的な純広葉樹林で、生い茂った木々で陽の光はほとんど差していない。
木々は巨大で、人の手は一切入っていないことが伺える。


「……ん?」


暫し森を観察して、変だな、と思う。比較的若い木もその大きさだけは大木のように見える。目算で幹周50センチ程度だろうと思われた木が、近寄れば1メートル近い大きさがあったりする。
それは稚樹にも言えて、まだ自分より小さいと思って近寄ってみれば、身長はほぼ同じであった。


「んんんん?」


私は地球科学学科という、それなりに大きな分野の学科に属している。故にそれなりに広い範囲の学問は浅く(あくまで浅ーくである)講義を受けている。でもって、樹木学もその中に入っていた。

え、見た目とサイズが合わなくない?

なんだか奇妙なところに来てしまった気がする。
妙な焦りを覚え、学校用のリュックを背負い直すと私は体中の痛みを忘れて早足にあたりをうろつき始めた。
せめて人の気配のある場所はないか、状況の手がかりになりそうなものはないかと、神経を尖らせる。獣道や水場になら、何かしらの目印はあるかもしれないし、高い木があればそこから周囲を見渡せる。しかし歩けど歩けどそこは森の中で、人の気配よりも、岩や根や棘のある植物などと安定しない足場の方に意識を向けねばならなかった。
つまり全く周りには集中出来なかった。

そのまま3時間くらいは山の中をさ迷った。携帯様がいうのだからたしかだ。3時間と言わず、半日くらい歩いたような気分ではあるのだが。
事実、履きなれたはずの靴で靴連れをおこし、慣れない山道で足もがくがくと震えだし、何故か全身も筋肉痛を起こしたように痛い。


「(もうやだ、なんなのこれ)」


ろくに水分もとらないまま歩き回ったせいか、頭もクラクラしてきた。
そうした中、不意に耳が遠くからする金属音を拾った。鉄工のような、重い金属音が僅かながらに響いてきている。ぱっと顔をあげてその音がした方を見るが、やはり鬱蒼とした森が広がるだけだ。幻聴でなければ、確か私は金属音を聞いた。
どうせどこまで行っても森だ。何もせず死ぬよりかはいい。

そう思って、私はそちらへ足を向ける。しばらくすると、僅かながらも人の声も拾って、さらに走った。

人、人がいる――!!!

まさしく希望を見つけたかのように、私は一心不乱に走り出した。とにかく、助けを求めたかった。
木々の間から人家を見つけて、私は茂みからその『村』へ飛び出した。


「……は、はぁ…はぁ…」


急に走ったので息切れを起こしたが、それに構いやしなかった。
死すらも覚悟しなければならなかったあの状況から脱せたのは、奇跡だ。


「誰か……誰か、探さないと…」


ああ、足もきっと気持ちが悪いほどに皮が剥けているであろう。これからは筋肉痛と靴連れとの戦いだ。
思いながらなんとか民家の前まで来て見たが、何と言うか、そこでも私は違和感を感じ得ずには居られなかった。


「家?……小屋?」


民家、というより、それは小屋に近い。木造の簡単なその家は、所々が土で補強されただけの、小屋のような建物だった。
民家というより、倉庫や物置に近い。
わああ、と人の声がしたので、そちらに足を向けた。警察かどこかに連れて行ってもらおう。そう思って歩いていると、数メートル先の曲がり角で、血を流した人がぶっ飛んで地面に落ちた。

え?何が起きたか分からないって?
明らかに致死量の血を流した人がぶっ飛んできたんだよ。昔みたいな農民の格好をした人がね!
え、なにこれなんかのドラマ中だったりする?しちゃう?え、なんかごめんなさい。でも私もかなり死活問題な中歩いてきたんだからね、保護ぐらいしてくれ。
ぼうっとそれを眺めていると、その農民役の人を斬った人が角の先に現れた。
体はガリガリに痩せ、目は血走っている。ボロボロの刀のようなものを持っていて、その刀は全体的に血に濡れていた。
流石に私も気味が悪くて後ずさった。


「女……」
「へ?」


私を見るなり、ぼそりと呟いた人斬りの男性に、思わず素っ頓狂な声をあげた。


「おい!女がいるぞ!!」
「え」


大声で仲間を呼んだらしい男性は卑下た笑みを浮かべながらこちらに駆け寄ってきた。え、何コイツ気持ち悪い。
と思ってたら思いっきり胸を殴られた。


「だーい丈夫だお嬢ちゃん。顔に傷はつけねえよ」


……え。
突然の攻撃に地面に転がった私に、男性は近寄ってきて、嬉しげに私の太ももを掴んできた。
あ、これなんかヤバイ奴だ。
一瞬にして全身に冷や汗が吹き出し、心臓が早鐘を打ち出した。


「う、ああああああああ!!!!」


地面がアスファルトでないのが幸いだった。砂という砂を相手の顔面に目掛けて投げ付けると、怯んだ相手から抜け出して一目散に逃げ出した。
何あれ、なんかオカシイ!
後ろを見る間もなく逃げ出したが、追い掛けられている気がして仕方ない。そう思っているうちに、小屋のような建物の集まった所に出た。しかし、そこはそこでなんというか、まさしく地獄だった。


「……なに、これ…」


か細い声でそう言うのが精一杯だった。
家は火に巻かれ、その向こう側の開けた土地も焼畑よろしく燃え上がってる。焼畑程度に燃え上がるのはいいが、燃え上がり方が異常だ。熱い。それなりに距離はあるのに、とても熱いのだ。
今になってようやく気付く、辺り一帯の煙たさや人が駆け回る音や、不愉快な血のような臭い。まるで血抜きをしていない魚を食べたようだった。不思議と肉の焼けた臭いだと分かる臭いもあり、反射的に人が焼けたのだろうと察せられた。


「いやぁああああっ!!」


悲鳴。
目の前で上げられた悲鳴ではない。どこかここからは見えないところで上がった悲鳴である。
その代わりに、そこら中にぴくりとも動かない人の体が落ちている。地面は炎によるものなのか、血によるものなのかが分からないほどに赤く染まっている。視界全てが赤くなっているような気すらした。
不快で、恐ろしく、そして何よりも焦った。
このとき、私は生まれて初めて『恐怖』した。
ドラマや舞台ではない。
ここでは本当に人が簡単に命を落としていた。


「みつけたぁ」


背後からした声に、ぞわり、と悪寒が走る。慌てて振り返ろうとしたが、振り返る前に背中を突き飛ばされてまた体を打ち付けた。
反射的に閉じた目を開けると、ちょうど目の前に死体の顔があった。真っ直ぐに目を見開いたまま、硬直しきった顔のまま、動かない人の頭だ。
首は繋がっていたが、首筋から胸にかけてが大きく抉れて、内側からは肉片だけでなく白い骨らしきものも見え隠れしていた。


「……!!」


改めて感じる恐怖とこみ上げてきた吐き気に、思わず体は硬直した。死体と目が合ったような気がして、体は動かせなかった。呼吸すら忘れてただただ死体と目を合わせる私の頭上で、私に襲いかかろうとしていた男が一瞬にして姿を消した。


「ぐぁあ!」


かろうじて女性の影だとわかる残像が、男に襲いかかっていた。
のろのろと私が顔をあげた時には、女性が地面に倒れた男の首に太い針金を突き立てたところだった。ずぷ、ともずしゃ、とも言えない表現のしづらい音が耳についた。この音を、私は一生忘れないだろうな、とどこかで思った。
反面、この光景には、私も思考回路を停止させざるを得なかった。明らかな殺人現場に、私は完全に現実味というものを失ってしまっていたのだと思う。
ビクビクと足先などが動いた後、男はぴくりとも動かなくなった。
緩慢な動作で女が引き抜いた針金――どうやらかんざしのようだ――は鉄部分も真っ赤に染まり、女性の手も完全に血に濡れていた。
サッとこちらを向いた女性に、私はひいっと情けない声をあげた。


「怖がらないで。あなたを助けたい」
「ひ、え……え…?」


黒い髪は艶やかで、ポニーテールにされていた。凛とした顔立ちの、20代半ばの女性だった。服装は筒袖の上衣に、ズボンのような袴で裾はきゅっと締まっている。なんというか、着物のような服装なのだが、私はその服を何と言うのか知らない。
服にところどころ血がべっとりとついていて、今のようなことを繰り返していた事が伺える。


「(なに、これ…!なにこれなにこれなにこれなにこれなにこれ!!)」


私はずり、と地面に転がったまま体を女性から遠ざけた。今しがた目の前で死んだ男も、目の前の女性も、誰かを殺して殺して、ここにいる。
そして今、この場所では尋常じゃない数の人が死んでいよう。なんとなくそれは想像がついた。
私の表情と態度から、拒絶は見て取れるだろうに、女性は関係無しに早足でこちらへ寄ってくる。
何とか逃げようと立ち上がってみたが、どうやら腰が抜けているらしい。立ち上がる前に地面に転がった。


「や、や…!やだ…っ!」


伸ばされる手を全力で叩いたが、それも虚しく抱き上げられた。この時、女性の手についていた血が服について、一気に嫌悪感が体中をかけ巡った。
この時、私は何かしらの違和感を感じ得ずには居られなかったが、とにかくこの殺人者から逃れることを先決とした。とにかく暴れたくったが、物の見事に押さえ込まれた。恐怖で涙が出てきて止まらない。お陰さまで酷い顔だろうに、女性は嫌な顔もせずに私の顔を自分の服で拭った。


「怖いよね。ごめん。けど、もう怖くないようにしてあげるから」


そう言って私を見る女性の目は、まさしく『慈しみ』というものが詰まったものだった。思わずその目をぼうっと見つめると、女性は僅かに笑って「もう少し」と言う。


「走るからね」


私が返事をする間もなく、女性は一気に走り出した。
僅かながらに警戒を解いた私は、やっとここで『違和感』を認識した。

――なんでこの人私を抱いて走ってんの?


訳のわからない状況であることには違いないが、明らかにもっとおかしなことが今起きている。
大学も二回生で、二十歳の私である。成長期はとっくに終わり、体はもう成熟しだしている。身長は160センチと決して低いわけではなく、体重も至って平均である。そんな私を、他の女性がこうも軽々しく抱き運べる訳がないのだ。

何がどうしてそうなっているのか。

女性が大きいのか、とも思ったが、この女性、周りの家屋と比べると平均よりむしろ小さい様子である。
――否、ここの平均が大きい、ということもありえるが、この回答ではどうにも現実味に欠ける。自分が小さい、というのもまた然り。
どちらなのかは分からないが、このどちらかであることには違いなかろう。

しばらく走れば、煙たさは消え、辺りから悲鳴は聞こえなくなっていた。
その代わり、同じ方向へ向かって走る人がちらほらと現れだした。
そうしていうるうちに現れたのは、堀に囲まれた大きな屋敷だった。堀の奥は壁で中は良く見えないが、大きな平屋建ての建物が見えていた。
その門前に、黒い簡単な鎧を着た男たちが殺気立ちながら佇んでいた。


「笹百合!遅いぞ!」


鎧の男の一人が怒鳴るように声をあげた。
その目はほかでもない、私の方をしかと見つめていた。

 
ゆりのやうに