「笹百合!遅いぞ!」


そう言って怒鳴る男の目が私ではなく、私を抱き上げる女性に向いていることにはすぐに気付いた。
事実女性──笹百合と呼ばれていた──も大声で返した。


「悪い!村人は全員ここか!」


叫びながらも、女性の足が止まることはなかった。ラストスパートと言わんばかりに速度が上がり、滑り込むように屋敷の門へ続く橋をわたりきった。


「正直分からん!だがもう限界だ!!」


その言葉に、女性は言葉を返さなかった。ただ、近くにいたからこそ分かった小さな舌打ちの音が、正しくこの女性の心だろう。
その横で、男は大きく手をぐるぐる回して外に向かって合図を送っていた。足早に同じような甲冑の男たちが入ってきたから、撤退とか、集合とか、そういう合図だろうか。
外から見た時よりも、想像以上に大きなこの門は徐々にその入口を狭めていく。
冷静な面持ちでそれを見つめる男に反して、女性はじりじりと恨むような視線を扉に向けていた。


「若を守るためだ、耐えろ」
「くそ…」


ちらりと女性を一瞥した男は扉に背を向けて屋敷の方へ向かう。女性も私を抱く手に力を込めて悪態をついたが、すぐにその背を追った。
しかしまた立ち止まる。彼女が見たのはやはり閉まりゆく門だった。最後の一人が滑り込んだところで、派手な音を立てて扉は閉まりきった。
それを見届けて、女性は静かにその場を離れた。
奥へ奥へと歩くうちに、すぐにさっきの男と合流し、女性はやっと私を地面におろした。
しばらく抱き抱えられていたせいか、少し足もとが安定しない。ふらふらする私に気付いたのか、そこで初めて男は私に目を向けた。


「この子供は?」


目を向けるのはいいが、……子供?

子供?

子供って言ったかこの人。
思って私は男を見上げる。
てかこの人でかくないか……って、え、これ、まさか…

女性を見た。やはり顔を見ようと思えば上を仰ぐことになる。

……。
目線が子供になってない?


「村の外れで助けた。逃げ遅れたんだろう」
「変わった服だな…お前、名前は…」


な、名前?名前……これ、例えば名字とかいうとやばいんだろうか。
ありえない状況であるのはわかるのだが、それだけは直感的に思えた。


「だんまりか」
「もう少しで辱められるところだった。そう凄むな」
「ああ……それはー…、まあ、別嬪さんだしな、コイツ」
「だろう?」


女性がどこか呆れたように男に同意した。このままだんまりを貫き通しても大丈夫なのでは?そんな考えが私の中によぎった。


「笹百合!」


そこに、稚い声が高く響いた。ハッと驚いたように2人が振り返った。


「若!!」


驚きと、それからどこか途方に暮れた悲鳴のような色が混じった声で女性がそう叫んで走り出した。その先にいるのは10歳にも満たない小さな子供だ。女性の子供かとも思ったが、雰囲気的に少し違う。
そもそも、女性の言うことが正しければ、少年は「若」と確かに呼ばれていた。どこかのお家の子だろう。
少年は今にも泣きそうな顔で女性に駆け寄ったが、女性の数歩手前ではたとその足を止めた。


「笹百合、血が」


言われて女性──笹百合は己の服に目を止める。胴体部分や手にべっとりと血がついていた。


「ああ、すみません。すぐに落として参りましょう」


少年の目線に合わせてしゃがみ込んでいた笹百合は苦笑すると立ち上がる。そのまま着替えにだろうか、踵を返したところで、少年が慌てたようにぐいとその袖を引いた。


「さ、笹百合っ!怪我っ、怪我はないのか…?」


どこか必死な様子の少年に、笹百合は一度きょとんとする。その後ふくふくと笑い出すとしゃがんで少年と目線を合わせた。その目は強気で、爛々と輝いている。


「返り血です、怪我はありません。この笹百合、簡単には怪我など負いませぬ」


必死だった少年の顔が徐々に穏やかになっていく。それを見た笹百合はひとつ笑うとすくりと立ち上がり少年の頭を撫でた。
「血を落としてまいります」と言うと私を見た。


「子供」
「えっ…えっ、わたし…?」
「ああ、そうだ。名前は」
「なま、え…」


言うのか。言わねばならないだろうか。
…まるでなにかの戦場のようなこの場所で。衣服はまるで江戸や戦国のようなこの場所で。


「…月子」
「…分かった。月子、この御子は千代様と申し上げる。話し相手になってやってはくれんか」
「千、代?」


まるで女の子のような名前だな、と思った。
男の子に見えるが、実は女の子なのだろうか。このような状況下であるし、この子供が女の子でも不思議ではない。


「笹百合…すぐにもどるか…?」


千代が寂しそうにつぶやいた。
笹百合は笑顔で「もちろん」と返した。
それから千代と私の手を引き、どこかの部屋へと入れるとここで待っているように言い、1人退室した。
木の床はひんやりとして敷物はない。物置なのか奥の方に大きな箱がいくつも積み上がっていた。

ぽつりと残された私を少年。ちらりと少年を見やれば、少年も私を見ていたようだ。しかし、すぐにふいと視線がそらされた。名残惜し気に笹百合が消えた方を見ている。


「えっと…千代…?」
「…」


返事がない!
ガン無視である。ただひたすら笹百合の出ていった襖を見つめるばかり。
この状況下なので、この年齢の子供としては普通の反応に思えるが、笹百合に頼まれた手前、構ってやらねばならない気がした。
笹百合の頼みは、ようは千代の不安を和らげてやってほしいということである。実行してやらねばと思うが、さて、どんな話ならこの千代は食いつくか…。


「笹百合さんって、とっても強いひとだね」


笹百合さんの名に反応したのか、千代が顔をあげてこちらを見た。
ああ、やはりというか、笹百合関連が千代の興味ポイントらしい。


「…笹百合は、本当に怪我をしていなかったか?」
「どうだろう。でも、わたしと会ってからは怪我してないよ」
「…そう、か」


少しほっとした様子の千代はわずかに笑みを浮かべた。おおう、年相応で可愛いじゃないか。


「笹百合はな。とても強いんじゃ。たださねが槍を教えたらしいから、女でも誰よりつよいんじゃ」
「へえ…」


たださねって誰だろう。思うが今は関係なさそうだったのでスルーすることにする。


「ずっと一緒だったの?」
「そうじゃ」
「へえ…」


若、というからにはどこかの御曹司なのだろう。


「襲ってきたの、なんなんだろうね…」


そう呟けば、千代がはっと息をのんだ。


「おまえ、親はどこにおるのだ?」
「…どこ、って…」


どうこたえたものか。親など、果たしてこの付近にいるのだろうか。いたとしても、こんなところだ、いてほしいとも思わない。

だが、もし、ここにきていたら…そう思うとぞっとする。
顔色が悪くなった私につられてか、千代までもが顔色を悪くした。


「千代?あの、」
「…わしの、せいじゃ…」


すまん、と蚊の鳴くような声で言った千代に、私はなんと声をかけてよいかわからなかった。何に関して謝られているのかが分からなかった。


「わしが、とっとと捕まっておれば、この村は…」
「え、ちょ、ちょっと待って。捕まってって?」
「あいつら…野盗なんじゃ…。わしが松平からの人質と知って、狙ってきおった。きっと金になると思ったんだろう…。やつらの狙いはわしじゃ。わしが、怖がって逃げたから」


えっと。つまり、ここで起きている戦争のような惨劇は、この少年を狙って起きたもの…ということなのだろうか。というより、この少年が逃げ込んだのがこの村だったから、あの野党に襲われた…そういうことだろうか。
この戦争のような出来事がこの子供ひとりの所為だというのか。正直信じられなかった。
そもそも、そんな理由ならこの子供一人の所為であるとは到底思えなかったが。


「千代、私のお父さんとお母さんは、もともとここにはいないよ。少なくとも、私は千代を恨んだりなんかしない」


私のために、現代なら小学生のこの子供が責任を感じる必要が、どこにあろうか。そもそも父母がいる可能性は限りなく低いというのに。
はっきりと言うと千代はわずかに目を見開いて、それから力なく笑った。


「ありがとう。おまえ、名前はなんという」
「月子」
「月子」
「うん」
「どこからきたのだ?」
「うーん、私もわからないけれど、ここからはずっと遠いよ。すっごく歩き回ってここまで来たから。そしたら、これに巻き込まれちゃった」


千代の顔が曇った。きっと罪悪感にでもまみれているのだろう。そんなこと、気にすることでもないのに。


「千代は?」
「えっ?」
「千代は、どこからきたの?」
「あ…」


千代が言い淀んだ。
そう言えば、この子はどこかの…そういえば、松平からの人質とかなんとかって言っていたな。やはり御曹司か。となると、その身分も言いにくいのだろうか。
嫌なことを聞いちゃったなぁ。千代は未だに心苦しそうに視線をさまよわせている。


「そういえば、千代はいくつなの?」
「へっ、あ、もうすぐ、7つになる…」
「え゛っ」
「な、なんだ…?」
「い、いや、おもったよりこどっ…年下だったというか、なんというか」
「…?そうか?」


てっきり8、9歳くらいかと思いきや、思いのほか子供だった。本人前にして子供というのははばかられたので年下と表現したが、まさか6歳とは。
…うん、6歳には見えない。6歳にしては大人びているように思う。


「あ、ねえねえ、そういえば、今って何年なんだろう?」


なんだか妙な空気が流れて、取り繕うようにそう聞いた。江戸?戦国?もっと前?非現実的だと思いつつも聞かずにはいられないことのうちのひとつだった。
千代はやはり変な顔をした。


「天文17年」


テンモンっていつの年号だろうか。

 
ゆりのやうに