月子にとって幸運だったのは、まずひとつめに服装だ。マイナスにもプラスにも働くその身なりは、笹百合たちに対してはプラスに働いた。
その次に、今までの教育。特に、ほぼ毎日ペンを持って筆記に力を入れていたことか。月子の手に出来た字を書く者特有の肉刺が、笹百合らにある一定の教養を予感させるには充分足りえた。


「月子、という名に覚えは?」


笹百合の問に、男が僅かに眉をしかめた。


「聞かん名だな。家名は」
「名乗らなかったな」
「上等な服を来ていたしな、家名くらいならありそうだが」
「聡そうな子だったからな。あえて名乗っていない可能性もある」


話の的は笹百合が拾ってきた女児にあった。年の頃は10歳かそこら。健康的な体つきをしていて、笹百合らが見たこともない織り方の装束を身にまとっていた。


「…手に肉刺があった。戦う者の肉刺ではない。筆を持つ者特有の肉刺だ」
「…!つまり、あの子供は」
「農具も持ったことのない手だったよ。どう考えてもどこかのご息女だ」


笹百合はふと顔を上げて少し遠くに見える襖を見やった。その襖の向こうには、笹百合らが己が命よりも重要視する小さな子供と、不思議な子供がいる。


「何故、こんなところにいる」
「さあな。訳ありだろうが…」


笹百合らが今最も優先するのは、千代”の命だ。あの子供の身一つで国が動く。せめて月子がどこの家の娘かわかればそれを利用する手立てもあったはずだが、うまくはいかない。
少し疲れたように息を吐いた笹百合に、男が心配そうな視線を向けた。それに肩をすくめて、笹百合は踵を返した。


「そろそろ戻る。若が寂しがるだろうし」
「本当に母親代わりだな」


笹百合は苦笑した。


「…私も、あれくらいの子供がいてもおかしくはないんだがな」






静かに襖が開いて、私はおかえりなさい、と口角を上げた。
やっぱり、笹百合さんがいると安心するなあ。
そう思いながら言うと、笹百合も笑顔を返してきた。少しうとうととしていた千代は私の声に反応してハッと顔を上げた。


「笹百合!」
「千代、笹百合さんが返るまでは絶対に寝ないって息まいてたんですよ」
「それはそれは。お待たせしてしまいましたね」


抱き着いた千代を抱き上げた笹百合は目をショボつかせる千代に、「布団か、その代わりになるものを出しましょう」と笑う。
部屋を漁って出てきたのは、薄い布が数枚。まだ外は日が傾き始めた頃合だが、幼いこの少年は体力の限界なのか今にも寝こけそうだ。


「月子はどうする?」
「…寝ててもいいの?」
「構わない。眠いのなら寝た方がいい。夜とて騒がしいこともあるしな」
「…じゃあ、寝てる」
「良い事だ」


笹百合は笑んで私の頭を撫でると、掛布を1枚手渡してきた。
布団はない。これにくるまって寝ろということだろう。どこで寝ようかとキョロキョロと見渡す。端っこがいいなぁという日本人的な習性に従い、隅っこに体を横たえて布にくるまった。
千代も寝るためか、しばらくごそごそと音を立てていたが、やがて無音になった。

「(テンモン…テンモンって結局何時代なんだ…!)」

目を瞑るも、寝れるわけなどなかった。目を瞑っているだけでも体力の回復にはなるので意地でも目を開けるつもりは無かったが、何も見えない分脳みそは活発に活動していた。
今が何年くらいなのか知ろうとして何年かを千代に問いかけたわけだが、返ってきた答えを理解することはできなかった。
昔の和暦なんて知らない。西暦の返答を期待した自分こそが阿呆だ。

「(にしても…あー。これタイムスリップか…まじかー)」

どうすれば帰れるか。1番いいのは来たところの確認なのだが、正直ここまでの道のりなど覚えていないし、来たときの景色すらあまり覚えていない。積んでないかこれ、と脳内で楽天的に呟く。
…楽天的にしなければ、少しでもマイナスな思考に走れば、二度と立ち上がれない気がして。


誰かに肩を揺さぶられ、ハッと目を見開いた。
思いのほか、寝付いてしまっていたらしい。しかし硬い床で寝こけたせいか、体の節々が痛む。こんな寝床じゃ健康なんて保てないわな。昔の人々って大変だ。
起こしてくれたのは千代だった。目を覚ました私を見て、ホッとしたような顔をしていた。どうしたのか、と聞く前に千代に立ち上がるように言われてふらつきながら立ち上がる。
それから、やっと気付いたのが、どこからか微かに聞こえる絶え間ない雄叫びだった。まるで呻き声のようにも聞こえる雄叫びに、私はぞわりと得体の知れない焦燥感を感じる。

「野党が入ってきた。逃げるぞ」
「…えっ」
「もうすぐ笹百合も来る。早う」

手を引かれ、部屋の奥までくると、千代は積み上がった箱のうちのひとつに手をかけた。

「箱の中に隠れていろと笹百合が。月子も早く」
「う、うん…、っあ」

がしゃんと外から音がした。私は慌てて千代を箱に押し込むと蓋をした。千代の驚いたような声がしたが「黙って」と一言言うと和箪笥の影に隠れた。ばたーんと派手な音を立てて蹴破られた扉にびくりとする。思わず上げそうになる声を必死で押さえ込み、敵がこの部屋をすぐに去ることを祈った。
しかし、敵はのっそのっそと入室してくる。私の方を見ることは無かったが、まっすぐに千代のいる荷物たちを漁り始めた。
まずいと思った。このままでは千代が見つかってしまう。思わず駆け寄ろうとして、ふと気付く。この部屋には、敵の男しかいない。入口は開きっぱなしで、ひっそりとにげだすこともできそうだった。
このまま逃げてしまおうか。きっとそのうち、男は千代を見つけるだろう。そうすれば、この騒動も終わるはずなのだから。

──わしが、怖がって逃げたから

震える声が蘇った。
ああ、もう!!
私は男を睨みつけた。それから近くにあった細い花瓶を持ち上げる。これでこの男を殴ろうと思った。振りあげようとして、ふと思い立つ。

「(中途半端は、いけない)」

そう、中途半端に殴って、男の意識があれば体が子供の自分は負けてしまう。というか、確実に、殺される。
ならばだ。一撃で男の意識を奪わねばならない。それこそ、殺す気でやらねばならない。

そう思った瞬間に足がすくんだ。目の前で子供が1人犠牲になろうとしているのに、なんと薄情なことか!私は花瓶を振りかぶったまま硬直してしまった。
そうしているうちに、私に気付いた男が振り返って目を見開いた。

「なにしてるこのガキ!!」
「ひっ…!」

思わず後ずさった。男は血走った目でぎろりと私を睨みつけ、手に持つボロボロの刀をチラつかせた。

「ガキ、その花瓶を離せ」

恐ろしく低い声で、唸るように命令された。しかし、恐怖に支配された体は言うことを聞かなかった。指にうまく力が入らず、ただ後ずさるばかりだった。

「離せって言ってるんだ!!」
「…っ!」

ぱっと手を離し、がらんと花瓶が床に転がった。その瞬間だ。男に蹴飛ばされ、床に体を叩き付けられた。

「っぅが…っ」

視界がぶれ動き、壊れたテレビ画面のようになった。打ち付けた体が痛み、呼吸すらままならない。言うことを聞かない体をなんとか起こして男の方へ目線を向けると、ちょうど男が刀を振りかぶっていたことろだった。

「…ぁ…」

死ぬ。心臓も体も冷えきったように感じた。一瞬の間で脳裏にたくさんの景色が甦る。友達、学校、アルバイト先の人、それから家族。死にたくない。それだけがひたすら脳裏を駆け巡る。
スローモーションで動く男が不意に動きを止めた。気がつけば、その喉元から鈍く光る何かが飛び出していた。
それが槍の先端であると気付いたのは後になってからだった。

「やぁあああっ!!!!」

若い女の叫び声と同時に男の首が跳ねられた。ばしゃりと血が顔にかかる。崩れた男の体がすぐ横に転がり、ひいと声が漏れた。
男の後ろに目を配れば、女が1人立っていた。笹百合だった。笹百合は槍を持っていた。男の首をはね飛ばしたのは笹百合の槍であったのだ。
未だに恐怖から抜けきらない体は笹百合を見てもちっとも安心しなかった。むしろ血濡れた姿の笹百合に恐怖すらした。

「…月子」
「…!」

不意に呼ばれた名前に、びくりと反応すれば、笹百合が倒れ込むようにして私の近くに這いつくばった。
そこで初めて気が付いた。笹百合に付く血は、私を助けた時のような返り血ではなかった。彼女自身の血であったのだ。

「笹百合さん…!怪我…!」
「月子、月子殿」

笹百合が槍から手を離してまた近寄ってきた。私は男の死体を避けて笹百合に近寄り、しゃがみこむ。すると彼女は縋るように私の服を掴んで離さなくなった。そのあまりの力強さに思わず身を引いたが、逆に力を加えられて近寄ることとなった。
げほりと咳き込んだ彼女の口から、大量の血が吐き出された。ひゅうと到底人間の喉が立てる音には思えない音がした。

「笹百合さ…!」
「月子!どうか、どうか…、若を…!」
「笹百合!!」

異常を感じたらしい、千代が箱から這い出してきた。千代は笹百合の容態を見て驚愕に顔を歪めて急いで箱を抜け出した。しかし笹百合はそれを見ることはなかった。血塗れのまま、私だけを必死に見据えていた。

「竹千代、さまを…!どうか、たの、みます…!」
「たけ、ちよ…?え、笹百合さん!?」

まるで蚊の鳴くような声だった。しかし確かに私に声を届けた笹百合は、言うやいなや手から力を抜き、ずるりとその場に倒れ伏した。

「笹百合!!」

千代が駆け寄り、ぐらぐらとその肩を揺らした。ぐったりとした様子の笹百合に、私は指一本触れることができなかった。そもそも、触れて良いのかどうかすら分からなかったからだ。

「笹百合!しっかりせい!!」
「たけ、ちよさま、……どうか、いきのびて…」

笹百合がにこりとわらった。笑っていられるような状況じゃないはずなのに。話す度に声が掠れ、小さくなる。既に聞き取るのも難儀するほどの声だった。

「あなたは、われわれの、きぼう、なんですから…」
「や…笹、笹百合…!!」

はくりと口を閉ざした笹百合は、そこから眠ったように動かなくなった。僅かに開いた目からは光が消え失せ、彼女の死を物語っていた。

「ささゆり、…ささゆりぃ…」

千代がぽろぽろと涙を流しながら笹百合の肩を激しく揺らしたが、彼女はされるがままに揺れるだけで、自力で動くことは無かった。
目の前で知った人の死を見た私もまた、固まるよりほかなかった。


 
ゆりのやうに