どれくらいそこで時間を取っていただろうか。喧騒が近くまで来ていることに気付いて、私は千代に──竹千代に「行こう」と声をかけた。

「嫌じゃ…」
「でも、行かないと死んじゃうよ」
「嫌じゃあ!」

竹千代が笹百合さんにしがみついた。頼む、と言われた矢先、竹千代を置いてはいけない。だから少し苛立った。

「動いてよ!笹百合さんだって生き延びてって言ってたじゃない!!」

ぴくりと竹千代が肩を揺らした。おそるおそる私を見た竹千代の顔は暗い。どこか睨むような視線を向けられたが、了承の合図だろう。

「また来よう。ね?」
「……」

黙って立ち上がった竹千代に、私はホッとして部屋の外を覗き込んだ。部屋の外には人はいなかった。しかし、死体がたくさん転がっていて、もしかして笹百合はこれら全てを相手取ったのだろうかと思い息を飲んだ。

「…どうかしたのか?」
「…なん、でもないよ。行こう」

竹千代の手を引き、できうる限り足音を立てないように駆け足で廊下を駆け抜けた。
人の気配がする度に部屋や軒下に身を隠してやり過ごした。段々と人の声も急いてきた。探し物が見当たらないらしい。

「ガキは金になるんだ!なんとしても探し出せ!」
「くそ、あのガキさえいればなんとでもなるのに!」

竹千代のことだろうな、と内心でぼやく。人が多くなってきたので、このまま行き当たりばったりで突破するのも難しそうだった。
どうするか…そう思っているうちに、大きな声が聞こえてきた。

「火を放て!出てきたところをとっ捕まえろ!!」

え、まじか。
急に周囲が油くさくなった。うそ、油撒いてんの!信じられない気持ちで軒下を素早く移動する。どこもかしこも油臭い。だからといって、下手に建物を出られない。
いずれにせよ、屋敷は出なればならないだろうから、まずは周囲を確かめることからか。人のいない所を探しているうちに火が放たれて、ところどころから熱気が近寄ってきた。それから、あちこちから聞こえる叫び声も酷くなった。吐き気すらする。

火から逃げるように軒下を移動していると、裏手側に人気のいない庭木が茂った所を見つけたので、そこに竹千代を隠すと私は1人逃げ道を探すことにした。

「いい?絶対出てこないでね。逃げ道を探してくるから、隠れていて」

竹千代の目があからさまに不安げに揺れた。

「大丈夫、絶対帰ってくるよ。だって、笹百合さんに頼まれたんだもん。ちゃんとここから逃げよう」
「…月子…わし…」
「おい、音がしたぞ!」
「「!」」

人の声に、竹千代がびくりと肩を揺らした。

「じゃ、待っててね」

そう言って茂みの奥に竹千代を突っ込むと、私はわざと音を立てて茂みから飛び出した。そうすると目の前に野党の男が1人そこに立っていた。ちょうど今しがたこの茂みを探ろうとしていたらしかった。それを悟って、サアと血の気が引いた。あと少し遅ければ竹千代が見つかっていたかもしれない。
私は一歩後ずさった。この男から逃げ切れれば…。そうは言っても勝ち目は薄いのだが。
私は姿勢を低くするとどうにでも動けるよう足に力を入れた。

「へえ、金になりそうな顔してるじゃねえか」

じり、と野党が近寄ってきた。どうにか逃げおおせられないかと周囲に目を配る。男は竹千代には気付いていない様子だった。ならば自分が逃げて気を逸らせば良いだけのこと。
私は咄嗟に近くの小石を掴むと素早く男の顔面に向けて投げつけた。そのまま身を翻して駆け出す!全力疾走だった。男が声を荒らげて追いかけてきたので、なお必死になって足を動かした。これで敵中に突っ込んでたらどうしよう。いやしかし、あの場で竹千代から男を引き離すにはこれしかあるまい。

「待て!!」

野太い声が背後から襲い掛かってきた。泣きそうになりながら足を動かし、目を配る。どこか野党を撒ける、入り組んだところはないだろうか。
そう思いながら走っていた所為か、何かに躓いて盛大転けた。今日はよく地面とご対面する日ですね…。
いっそ気を失いそうな衝撃が襲う。今度こそ死ぬかもしれない、と駆け寄ってくる男を見つめる。逃げられないかと足に力を入れるも、くじいたのかうまく動かなかった。
もう一度野党の男に目を戻したと同時、どおんと鋭く重い爆発音が響いた。それと同時に男の胸が破裂したように血飛沫を上げる。

「(……な、何が起こった…??)」

悲鳴を上げる暇もなく背中から倒れ込んだ男を呆然と見る。じゃり、と地面をふむ音がする近くでして、はっとそちらを見る。逆光で顔は見えないが、男がすぐ横に立っていた。質素な身なりをしていたが、凡そ農民が着るような襤褸ではないことは伺い知れた。
思わず座り込んだまま距離をとり、初めてその容貌が克明に見えた。男は、いや、男ではない、青年というにはまだ若さのある男だ。少々華奢な体つきで、あどけなさが残る顔立ちだった。歳の頃は14かそれくらいだろうか。精悍な顔つきをしていて、どこか気の抜けたような顔をしている。そう、つまらないものを見ているような顔だった。それなのに、強烈な畏怖を感じた。
青年はびくびくと青年を見ていた私のことなど知らぬ顔だった。ただじっと死んだ男の方を見ている。

「くだらんな」

男はまだ硝煙の上る鉄砲を肩に乗せ、特に表情の無い顔で言い放った。
私は焔がすぐ近くに迫っていることすら忘れ呆然と青年を見上げていた。背後の焔すら彼を惹きたてる背景に見えていた。すると、不意に青年がこちらに目を向けたので私はびくりと肩を揺らす。
思い出したように私を見ると、すっと片膝をついて私の足に視線を向ける。

「くじいたのか」
「え…、あの」
「時期に俺の兵が来る。手当してもらえ」

言うやいなや、青年は私が走ってきた方へと歩いて行く。すぐ横には燃え盛る屋敷がある。その炎をものともせず、マイペースな足取りで歩いてゆく青年に冷や汗を流した。まずい、そっちには竹千代がいる。

「ちょ、待って、つう!!」

立ち上がるにも、それを拒むような痛みだった。しかし、ここで痛みに負けて等いられない。逃げ道を確保しなければならないし、万が一竹千代があの鉄砲で撃たれれば一大事だ。
足を引きずって追いかけてくる私に気付いたのか、青年が足を止めて私を見た。初めて青年が表情を変えた。

「……お前、もしかして松平の者か」

訝しげに言う青年に、私は雷に打たれたような気分になる。
松平。竹千代がこぼした家の名だ。
私の反応に、青年は顎に手を当ててなるほど、と呟く。

「生きてはいるのだな。どうだ、助けてやるから、ちょっと賭けをしないか」
「生きっ…え、たす…賭け?」

一瞬何を言われたのか分からなかった。つまり、それは、この青年は竹千代の存在を知っていてここに来たのだ。それも、野党を相手取ることをしてまで。
敵なのか味方なのかもわからない青年に、果たして竹千代のことを漏らしても良いものか。答える前に、青年は私の様子からあらかたを察してしまったらしいが。

「俺が松平の倅を助けられたら、お前はその妙な衣服を俺に寄越す。駄目なら…まあ皆死ぬから意味は無いか」
「は、はあ!?ちょっ…!」

私が話について行けなくて唖然としていても、青年はどこ吹く風だった。つらつらと話を続けられたのでイエスノーを答える前にサクサクと接近された。

「とりあえず一緒に来い、松平の倅に逃げられては元も子もないしな」
「はいいいい!?」

逃げられ…え、敵!?
身構えるより早く私の腹に手をまわした青年はあろうことか私を小脇に抱えて歩き出した。子供とはいえ数十キロある子供を、まるでボールでも抱えるようにがっしりと抱えてしまった。バタバタと足や手を振り回すも、子供の力は大した弊害にならないようだ。なんの反応もなかった。

「持ちづらい。松平の倅を害されたくなければ大人しくするんだな」
「…」

攻撃をやめた。さすがに竹千代の話を持ち出されると困る。

「なんだ、やはりお前松平の者か」
「は、はぁああああっ!?」

や、やられた!はめられた!!
目を白黒させていると、青年がふと足をとめてわずかに腰を低くした実は後ろ向きに持たれていた私。青年が何を見たのかはわからない。だから一体なんだと思って青年を見上げようとした時だ。
どかぁんと強烈な爆裂音頭上で響き、思わず悲鳴を上げた。体を捩って見上げれば、青年がまっすぐに鉄砲を何かに向けていた。
その先を見てみれば、倒れ伏して血を流す野党と、地面に転がった竹千代がいて、血の気が引いた。めらめらと揺れる火のすぐ近くに転がった竹千代はピクリとも動かない。

「あ、うそ…千代ぉ!!」

思わず悲鳴を上げるようにその名を呼んで、私は青年の腕を振りほどいた。うつ伏せの竹千代をひっくり返せば、ただ気絶しているだけだったのか、無傷で息があった。ちがう、頭を強く打ったのかもしれない。目も口も半開きで、しかし唇がわずかに私の名を呼んだのだ。意識がある。
火から遠ざけようとずるずると体を引きずって十分に距離をとったのだが、家ごと燃えた火の力は強大でとても暑い。汗も乾きそうだった。
そこに青年がやってきて、そっと竹千代の額に手を触れた。竹千代がまた唇を動かしたが、動かなくなった。

「頭を打ったか。まあいい。城で養生させる」
「…し、しろ?」

言うや否や青年は踵を返した。その背中越しに、いつの間に集まってきていた野党たちが目に入り、私は思わず竹千代を抱き寄せた。
しかし、動じた様子のない青年には疑問を禁じ得ない。どうしたのかとその背を見つめていれば、わずかに青年が笑った気配がする。

「なんだ、思ったより少ないじゃないか」

なにが、と思ったそのすぐあと、青年は驚くべき言葉を放った。

「お前たち等、この吉法師にかかればひとひねりよ」

そして、終わらぬ銃声が響いたのだ。

 
ゆりのやうに