竹千代が目を覚ましたのはその日の夜のことだった。彼の目覚めは実に静かだった。半日歩いてたどり着いたその城でももちろん、その道中すら私は竹千代のそばを片時も離れることはなかった。トイレすら行くのを惜しんで傍につき、いつ目覚めるか・目覚めないかと見つめていた。頭を強く打った様子で、額にうっ血がみられる。脳震盪かと思ったが、それにしては目覚めが遅いように思えて心配になる。
 ふと視線をそらし、部屋の造りに目をやる。小さな窓が二つほどある中庭に面した部屋だった。また竹千代に目を戻すと、いつの間にか竹千代は目を開けていた。余りにも突然で、そして静かな目覚めであったから、私は一瞬竹千代の目が開いていることに気が付かなかった。

「…、え。千代…!」
「…うん」

 小さなうめき声のような声だがしっかりとした返事に、私はホッと息を吐いた。

「頭、痛むよね。冷やすものとってくるね」

 未だに痛々しい色をする額を見てそう言えば、竹千代はすっと自分の額に触れて痛みに体を竦ませた。それから、不安げに私を見上げてきた。

「…すぐに帰ってくるか?」
「もちろん」

 おや、と思った。あまり6歳には見えない子供だけれど、今は年相応だと思った。
 …いや、現代の6歳児なら行かないでと喚きかねないか。やはり、年不相応に落ち着いている。
 背中に竹千代の視線を感じながら部屋を後にする。事前に教えられていた水汲み場まで来ると、桶に水を汲んで来た道を戻った。その間、ずっと一人の人が私の後ろに付いていた。女性の見張りのようだった。室内までは入って来ないので気にせず水を汲んで部屋に戻った。身を起こしていた竹千代をまた布団に戻すと、その額に水を絞った小さな手拭いを乗せた。

「…ここ、どこ?」
「清洲城だって」

 竹千代が僅かに目を見開き、それから目を伏せた。

「…おだか」
「おだか?」

 ぼそりと呟かれた言葉に、一瞬理解が追い付かずオウム返しした。しかし、すぐに悟る。今いる場所の事を言っているのだと。
 織田か、と。

「ああ、うん…織田だよ。よく分かったね」
「…近隣諸国の主要な城なら知っておる」
「へぇー」

 知ってるものなのか。あれか、地名や主要幹線を覚えるようなイメージだろうか。
 思わず感心したが、それどころではない。織田と竹千代の所属する松平は敵対関係にあるという。竹千代が生きているのが奇跡だ。
 それにしても、織田って織田信長とかの織田だろうか。もしもそうなら時代は戦国よりかは以前であることに間違いはないだろう。確証はないけれど。織田信長がいたりして。…いや、流石にない…か…?

「織田信長って知ってる?」
「のぶなが?信秀ではなく?」
「あー、うん。大丈夫、間違えた…」

 ノブヒデって誰だろう…。信長に似た名前だから近親者かもしれないけれど。
脳裏に鉄砲を持った青年が過ぎる。

 鉄砲の伝来は戦国時代の後期…中期だっけ?とりあえず前期ではなかったはず。となると、時代としては鉄砲伝来以降で、信長はまだ台頭していない時代…と考えるのが妥当だろう。

 …………。


 思いっきり戦国時代じゃねーか。


 思考が白ける気がした。
 自分、日本のどの辺にいるんだろう。京すら焼けた(んだっけ?)戦国時代ですよ。安全地帯がない。

「月子?気分が悪いのか?」

 視界に竹千代の顔が映りこんだ。心配して起き抜けてきたらしい。こんな子供に心配させてしまい、抜が悪くなって笑顔を取り繕った。

「なんでもないの。これからのことを考えてただけ」

 間違いじゃない。これからどう生き延びるか考えてた。私なんて、市井に放り出されたら2日目には死んでる自信がある。

 だから寝ていて。そう思って竹千代の肩を押すと、その手を払われた。え、待って流石にショックだ。けどよくよく考えたら、笹百合さんの件で嫌われてないわけがなかった。
 が、意外にも竹千代はむしろずいっと体を寄せてきた。え、ちょっと待ってどうなってんの。

「月子、帰るのか!?」
「…え」

 血相を変えて私の服を掴んでかかってきた竹千代に、思わず仰け反った。暗い室内でもしっかりとその表情が見て取れて、私は呆気に取られた。
 笹百合から引き離した張本人である私から離れたがらない素振りを見せたから。
 驚く私に、何を思ったのか、竹千代は丸々とした目をさらに丸めて瞳を揺らした。

「ひ、ひとりは…」

 竹千代はそう呟き、はっとしたように息を飲んだ。そろそろと力なく手が離れたが、名残惜しそうにゆっくりと離れていく。
 ひとりはいやだ。
 当然の気持ちだ。しかも、いつでも自分を殺せる人のところにいるのだ。その不安計り知れない。
 思い出すのは、この城へ来る時の事。竹千代は松平なる家の子だ。どこかの城へ護送中にあんなトラブルに遭った。共は少なからずいたはずなのに、この城へ来る時は文字通り私1人しか付き添わなかった。
 ──それが何を意味しているか、なんて。

 私は黙って竹千代の手を取った。

 それに私は、行く宛などないのだ。ならば竹千代の近くにいてやってもいい。否、近くにいて保護してもらわないと、きっと生きてはいけまい。さすがにこの子にいらない判定されたら路頭に迷うしかないのだけれど。

「ひとりにしないよ」

 竹千代がそばにいてほしいと言ってくれるなら、傍にいてあげようと思った。
 正直、軽く考えていた節もある。いつかは現代へ帰ることが目標になるが、その頃には、もっと竹千代に寄り添ってくれる人ができるだろうと。

 ──『竹千代、さまを…!どうか、たの、みます…!』

 笹百合の声が脳裏に蘇る。頼む、とは何をどこまで指しているのか。笹百合さんの代わりなのか、それともあの場所からの救出を意味しているのか、それとも別のことか。可能性がありすぎて正直迷う。

「千代…あ、竹千代さまが、それで元気になるのなら」

 しばらくの間くらいなら、笹百合さんの代わりになってもいいかな。あんな心の広そうな人にはなれる自信ないけれど。
 へらりと笑えば竹千代がほっと力を抜いて私に寄り掛かってきた。これが大学生の体なら母のような気持ちにもなれたのだろうけれど、生憎私の体も子供なもので、少々重い。
 それを耐え忍びながら、その背中をトントンとあやす様に撫ぜた。

 
ゆりのやうに