竹千代様、若、千代様。
どれも竹千代は嫌がった。竹千代。そう呼んで初めてこの幼子は笑顔を浮かべたのだから仕様がない。竹千代が目覚めた次の日から、私は忙しかった。竹千代が私を側付きだと清洲城の人々に申し上げたので、大急ぎで衣装を整えられた。とは言っても、血のついた現代服からこの時代の作業着に変わったというだけなのだけれど。
基本的には竹千代から離れることは少なかった。毒味(何回か行われる最終毒味)や朝の着替え(これはもはや竹千代に教わった)、竹千代の身の回りの清掃と御遣い。雑務ばかりだ。
しかし思いのほか楽しいし、体を動かすのが嫌いではない私としてはちょうど良い仕事だった。
…毒味は怖いけど。

ちなみに竹千代は、松平から今川に送られる予定だった人質だそうだ。それが野盗騒ぎで織田家に人質として取られるようになった。
住居は城の麓の囲いのある小さな家だが、不自由は少なかった。それを見たのは、洗濯物を干し終えたある日の朝だった。

「――……のじ、情を、もと…?む…」

微かな声がして、部屋を覗いてみれば絵本でものぞき込むような体制で竹千代が本の文字を追っていた。

「一にいわく道、二にいわく天、三にいわく地、四に――」

なんだか難しそうに読んでいるが、悪いことではない。月子の祖父母世代の日本人も、難しい新聞漢字によって多くの日本語を学んでいた。むしろ月子世代は問題視される程に漢字を知ら無さすぎる。
微笑ましい気持ちになって、あとでお茶でも持ってきてやろうと決意した。

「―――み、道とは……たみ、としてかみと、…ん?意…?を同じくせしむるなり。地とは…ええー…。将とは…」

分からんところ飛ばしやがったぞ。これだから子供は…。
遠目だが、竹千代の読む本は所謂活字という奴で何とか読めそうだった。近寄ってのぞき込んで見て確信する。区読点や送りがながないが、なんとか読めなくもない。

「えー『将とは遠近、険易、広狭、死生なり』」

竹千代が驚いて目を見開いて振り返った。

「…月子、読めるのか?」
「うん、読めるね」

ドヤァ、と笑みを浮かべれば、竹千代の顔がぱっと笑顔になった。あれ、悔しがらないぞ…?

「どういう意味?」
「う゛っ」

そこ突っ込まれたら辛い。読めても意味は分からない。読書の意味が無いですね知ってる。

「…わ、分からないから調べよっか…」

見張りの兵士さんにでも申し付けて、辞書持ってきてもらおう辞書。と思ったが、ふと思い至る。
この時代に辞書なんて編纂されてるのか?そもそもあったとして、読めるか?

──絶対無理だ。
思わず頭を抱えそうになったが、ぱっとひらめくものがった。あまり使いたくはない手だが、携帯があったのだ。こちらへ来た時に持っていたものは、衣服と携帯だ。それ以外の荷物はなかった。というのも、あの野盗の騒動の最中でいつの間にか失くしてしまっていた。徳川家康の人物叢書も入っているので、正直すぐにでも回収したいところだが、もはやどこにあるのか…。せめて野盗にすでに燃やされていることを祈るしかない。
手元に残った衣服は血糊がひどくて勝手に捨てられてしまったのだが、そのポケットに入っていた携帯ならば手元にある。この中に、オフラインでも使えるそこそこ優秀な辞書アプリがあったはずだ。

「……」

いつかは電源もなくなり、使えなくなる代物だ。使えるときに使っておいた方がよい、か。いそいそと狭い自室に帰ると、棚の中からスマホを取り出す。電源をつけてみれば、充電は残り60%だった。切ない。
とぼとぼと竹千代のもとへ戻ると、竹千代はさっきまでの本に飽いたのか、別の本に目を通していた。

「あれ?さっきの本は?」
「よくわからんかったのでやめた」

おい。
思わずにはいられなかった。竹千代が放置したらしいその本を手に取ってみる。思いのほか薄い本で、題目を見てみれば『孫子 計』と書かれている。これ、戦国時代っていう時代を思えば重要なんじゃないの…。
竹千代をみる。相変わらず文字ばかり追っているようだが、孫子よりかは読みやすそうだった。
読書とはなんだった。勉強とはなんだったか。私の心のなかにふつふつと湧き上がるものがあった。私は黙って竹千代の部屋から退室すると孫子を持って自室にこもった。貰った紙に慣れない筆。指を汚しながら丁寧に丁寧に半紙に小さな字を並べていく。本を開いて分かったのは、竹千代が読んでいたのはかなり冒頭の部分だったということ。確かに6、7歳の子供にそんなものを読ませるというのもなかなか酷な気もするが、この時代ってそもそもの成人も早かった気がする。ともすれば、竹千代が無条件に様々なことを教えてもらえるのも時間の問題である。しかも、人質だ。扱いなんて底辺でもましな方だ。

「すみません」
「はい?あれ、月子ちゃん」
「辞書ってありますか?」
「辞書?」

正直に言おう。やけくそだった。
あるわけないと確信しながら見張りの兵に辞書がないかを聞いた。そもそもあっても『辞書』なんて題目ではないことは想像に易かった。

「あるが…城に行かないとなあ。それに許可もいるだろう。何がほしいんだ?」
「……は…」

まじか。
まさか普通にそんな返答が帰ってくるとは思わず、反応が遅れた。マジか。あるのか。というか、通じるのか。

「こ、国語辞典とか…」
「こくご?なんだそりゃ」

ですよね!

「あー、漢和!」
「分かった。申請しておこう」

漢和辞典はあったことにほっとする。
みていろ竹千代。現役大学生が勉強の仕方というやつを教えてやるからな。

 
ゆりのやうに