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 黒尾鉄朗が、記憶をなくした。

高校、大学を卒業しプロとして活躍し始めた彼と恋人として付き合ってもう何年になるだろうか。

 周囲で結婚も増え、自分が周囲から結婚を進められることも増えたが、人をからかっているようで存外優しい彼抜きの生活は考えられない。理想の結婚生活とはとゆっくり考えてみたが彼と恋人になる前は可愛い奥さんと子どもが2人くらいでなんて思っていたが今思い浮かぶのは彼の笑顔と一緒に観るDVD、たまに失敗する料理。一頻り考えたあと給料3ヶ月分とは言わないが彼が好んで使うブランドの指輪をサイズ違いで2つ買って帰る。

 彼の誕生日とか、そういう特別な日に渡そうと思ったがどうしても今すぐに渡して抱き合って眠りたい気分だった。

 結局、叶わなかったけれど。

 事の発端は、練習中にふいに飛んできたボールからチームメイトを守るようにして強く頭をぶつけたらしかった。彼らしいなと笑っていたのはそこまでで、俺の太郎を聞いても首を傾げたと聞いて笑えなくなった。彼の記憶は高校3年の半ばのころで止まってしまったらしい。高校3年の終わりころになって話すようになった俺のことは全くわからないようで、いい笑顔で「はじめまして」と言われた時、ちゃんと返事ができたか覚えていない。

 医者の話によると検査の結果、脳に損傷は見られず記憶が戻るとも戻らないとも言えないらしい。

「いろんな人に会ったり、思い出深い場所へ行ってみたりするとそのことがきっかけで記憶が戻るかもしれません」

 なんて曖昧な。頭を抱える俺に俺たちの仲を知っている黒尾の両親は実家にいるよりも俺と今の生活をしている方がいい刺激になるだろうと言ってくれた。けれど、初めましての挨拶をされた俺が、きっと今自分が男と付き合うだなんて考えもしてない黒尾に「本当は恋人だよ」なんて名乗る勇気もない俺が、彼の記憶を呼び覚ませるだなんて全く自信がない。

 そのあと病院にはバレーのチームメイトや高校時代の友人が駆けつけた。黒尾は記憶を失っているという事実を戸惑いつつも受け入れて、顔馴染みのメンバーとはすぐに打ち解けた。

「ほー!お前そんな感じになるのね」

「黒尾だってちゃんと鏡みたか?ちゃんと順調に老けてってるだろうが」

「はー?色気が増したっていうんですー」

 落ち着いていたように見えていた黒尾も本当は不安だったのか見知った顔に楽しそうに話しているのを遠目から見つめる。

 なんであそこに俺はいないんだろう


大丈夫だよ、心配ないよとすら声もかけられず、初めて会う今の俺は彼にとって精神的な支柱になれるほどの信頼がない。

「大丈夫ですか?」

 談話室の端から座ってみていた俺に赤葺が心配して話しかけてくれる。彼は黒尾と通じて仲良くなったうちの一人で俺個人でも付き合いがある今日集まったメンバーの中で話しやすい人だった。もちろん、黒尾と俺の仲も知ってる。まぁ、黒尾は隠さないタイプだったからチームメイトのほとんどが知っていたように思うけど。

「...大丈夫だよ。みんなに会えてアイツも嬉しそうだ」

「太郎さんのことは?」

 声に出して言う勇気がなくて、認めたくなくて小さく首を振る。

「......そうですか。太郎さんから言うまで黙っておくように伝えておきます」

「ありがとう」

 赤葺の気遣いが身に染みる。声を上げて笑う黒尾を見る。ああ見えて不安だろう彼をこれ以上混乱させたくなかった。大丈夫、俺たちは上手くやってた。そのうちきっと思い出してくれる。それで、改めて指輪を渡して。そして今日の日を笑い飛ばすんだ。「忘れやがって」と言って黒尾をからかって。そうだ、お詫びにオフシーズンに旅行でも連れてってもらおう。俺も休みが取れなくてなかなかゆっくりできてなかったから。

 なるべく思考が暗くならないように前向きにものを考える。大丈夫、大丈夫。

「大好きだ、太郎。愛してる」

いつだったかそう言ってくれた黒尾の声が聞こえた気がした。

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