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 あれから、彼女ができたらしい黒尾とは挨拶とか、世間話くらいであまりどこに行くのか、何をするのかなんて聞くことも減っていった。本当は気になるけれどあの彼女のところなんでしょ、とか思うと胸が刺されたように痛んで身動きできなくなる。

 彼も俺との関係をどうしていいのかわからないのか、あまり積極的に話をすることもなかった。そんな日が続いて、ある仕事から帰った日、黒尾がリビングで何かやっているのが見えて声をかけれずその行動を見守る。彼が何気なく、棚をあけて取りだしのたのはあのピローケースで。

 やめて、お願い。見ないで、見つけないで。

 俺の願いは虚しく、黒尾は手に取ったピローケースじっと見た後ケースあけて中を見る。その指輪には俺と、黒尾の名前が彫ってある。お願い、気づかないで。お願い。

 そんな願いも虚しく黒尾の顔色と表情で、その彫られた字を見つけたらしいことがわかった。体が凍ったように動かない。逃げ出そうと思うのに、見ないでって指輪を取りたいのに。

 根が生えたような足がピクリとも動かず、見たくないのに黒尾の行動を見守ってしまう。

 彼は、眉間に皺を寄せて指輪をピローケースにおさめたあと、それをごみ箱に落とす。それがスローモーションのようにゆっくりと目に入る。

 指輪がゴミ箱へと落ちていくのを見ながら当走馬のように笑い合った日が駆け巡る。指輪を買った日の気持ちも、付き合って、彼の両親に会いに行ったも、2人で過ごした休日も、築いてきたすべてが棄てられたようで、ガコンとピローケースがゴミ箱に落ちた音を聞いて弾かれたように無我夢中で部屋を飛び出す。物音につられて黒尾がこっちを向いたような気がしたけどかまっていられなかった。

 走って、走って、とりあえず遠くに行きたくて電車に飛び乗る。爆発しそうな心臓がうるさい。ぐっとあふれる感情を我慢していたけど、耐えられたのはほんの一瞬で夜も遅いとは言え人目のある車内で溢れる感情と涙の止め方が分からなくて泣いてしまう。指輪と一緒に2人で過ごした思い出が、恋人だった俺が、恋人だったという事実が棄てられ、否定された気分だった。記憶をなくした高校時代を生きる彼にはルームシェアだなんて言っていって縋って出来るだけ近くにいようとした他人の俺なんてただただ重かっただけじゃないか。名乗り出る勇気がないほどの想いなら最初から諦めてればよかった。

 応援してくれた彼の両親に悪いことをした。期待に応えられなかった。落ち込む俺を励まそうとしてくれた赤葺と月島、心配してくれていた木兎にもどんな顔で会えばいいかわからない。でも本当はこれでよかったのかもしれない。だって俺と付き合っていれば見れなかった孫を黒尾の両親に今度は見せてやれるかもしれない。俺のことも優しく受け入れてくれたご両親だった。俺の家族は、黒尾と付き合っていることを話すと怒って殴られて泣かれてそして二度と敷居を跨ぐなと家を追われた。あれから何年も会っていない。1度だけ用事があって黒尾と実家の近所に行った時、近所の人に挨拶するとひどく驚かれて、理由を聞くと俺は死んだことにされていた。俺も別にそれでいいと思っている。考えていること、住む世界が違ったのだ。しょうがない。本当に二度とあうことはないだろう。唯一応援してくれた姉ちゃんは、結婚して子どもが出来てその子に会いに行って以来連絡を取っているものの顔を見ていない。「俺たちもいつか養子をもらおう」穏やかな顔でこっちを向いて言う黒尾。なんで今彼の声を思い出すの

 乗った電車に揺られ、終点の度に乗り継いで乗り継いでどんどん家と彼から離れていく。少しずつ気持ちが落ち着いてきてぼんやりと景色を眺める余裕が出てきた。

 たまたま停車した駅が海の前の駅で、波の音でも聞こうとふらりと降りる。着の身着のままきてしまった。ザクザクと沈む砂にこれからどうしようかと考える。波の近くを歩くとついた足跡が波にさらわれて消える。俺みたいだと自嘲的に笑う。

 しばらく海際に沿って歩いて携帯を取り出す。姉ちゃんに「ごめん」とだけメッセージを送る。黒尾のお母さんに「期待に添えませんでした」と絵文字をつけて送る。いつも気にかけてくれる赤葺や月島、木兎にも準備メッセージを送ろうとした時だ。鳴り響く着信音と「赤葺」の文字。

「もしもし」

「太郎さん!今どこですか!黒尾さんから帰ってきたけど居なくなったって連絡が来て!なんか黒尾さんの声が焦ってたように聞こえたら何かあったのかと思って連絡したんですけどついに思い出しました?!」

 畳み掛けるような電話口からの声に少し笑ってしまう。思い出したらよかったのに。ザクザクと砂の上を歩く。足跡がついては消えて振り返っても軌跡は残らない

「残念。思い出してたらよかったけど」

「じゃあどうしたんですか?とりあえずどこです?迎えに行くんでゆっくり話しませんか」

「あのね」

「月島も呼んでおきましたから!今日は幸い金曜日なんで俺は明日あいてますし」

「あのね、赤葺」

 何か、焦るようなことでもあるのだろうか。俺に口を挟ませない勢いで喋る赤葺の名前を意識してゆっくり呼ぶとようやくひと息間ができる。深く息を吸ってなるべくいつもの声で、

「あの指輪、捨てられちゃった」

 電話口で息を飲むのがわかる。急に静かになった間に今度は自分からペラペラと喋る。

「帰ってきて、棚をあけてるから何をしてるのかなぁって見てたら、あのケース見つかっちゃって、指輪の彫ってある字を見られちゃって。たぶんびっくりしたんだと思う。ルームメイトとしか思ってない相手との指輪が出てきて。あーあ、早く捨てとけばよかったなぁ」

 ペラペラとよく回る舌だな。肝心な時には何も言えないくせに。

「太郎さん」

 ゆっくり、名前を呼んでくれる声がなんとなく泣きそうに聴こえて優しい彼をこんなに心配させているのだと申し訳なくなる。

「大丈夫、頭冷やしたら帰るから。それでちゃんと恋人だったことを伝えて上手に離れるから」

「....」

「大丈夫だって。俺のこと忘れないもっといい恋人探すし。だからまた電話するから黒尾伝えるときは一緒にいて」

「....わかりました。落ち着いたらまた連絡してください。迎えにいくんで」

「わかったよ」

 どこまでも優しい赤葺に彼みたいな人を好きになれればよかった。黒尾なんてぽいっと捨てて、俺も彼女を作ればよかった。でも、もう疲れてしまった。忘れた彼に気を使って、思い出してほしいけど重荷にはなりたくなくて。黒尾は何も悪くない。仲間を庇っての出来事だ。むしろその行為もこれからのことも称賛しなければならない。俺が弱かっただけなのだ。実家には頼れない。あの2人で過ごした部屋にももう俺の居場所はない。戻るところなんてどこにもない。

 俺の足跡を消す波の方へ足を向ける。服が水を含んでどんどん重くなる。右に左に揺れる波が心地いい。足が砂につかなくなる。力を抜いて体を浮かせると真っ暗な空に星が見える。時々顔にかかる波が鬱陶しいが体が揺れてだんだん眠くなってゆっくり瞼を閉じる。

 夢の中ではどうか黒尾が俺を忘れませんように。

「庇うつもりが転けてやんの格好悪いわ〜」

 なんて病院で起きた彼をからかって、退院祝いだって2人で夕飯を作った後に指輪を渡して、片膝をついてわざとらしくプロポーズしたら愛し合って朝まで抱き合って眠るのだ。

 ゆっくり意識が闇に溶けていく。

「太郎」

 愛してるって言われるような優しくて甘いこっちが恥ずかしくなるような黒尾の声で名前を呼ばれた気がして、その声がなんだかとても懐かしくて

 少しずつ溶け出す意識も沈んでいく体もなんだか幸せに思えてくる。
「俺も愛してるよ」

 そう言った声は泡になって暗闇に消えていった。

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