強き瞳に宿るものよ


 私の母はとても美しい。整えられた毛も、引き締まった体も力強い目も、誇り高い生き方も。私より少し大きい姉も母に似て強く美しく成長した。私も、そうなるのだと確固たる自信と誇りを持っていた。強く、美しく生きるのだと。


この日までは


 いつも通りの穏やかな日、母と姉の元に戻ろうと木々の間を通り抜け緑の青々しさやあちこちから聞こえる生き物の息遣いを引き裂いたのは耳慣れぬ大きな破裂音だった。


 音と同時に鳥たちは飛び立ち、異様なまでの静けさが包む。咄嗟に身をかがめてあたりの様子を伺うが先ほどの音は少し離れた場所であったらしい。不審な足音もしないと確認した時ふと破裂音がした方向を思い出した。


 どこまでも響き渡る銃声が聞こえたのは東。そこは緑が豊かで水辺もある。美しい場所。暖かい日差し、穏やかに見守ってくれる母と姉。


 ぞわりとした悪寒に全身の筋肉に力を入れる。筋肉のバネ一つ一つを利用して飛ぶように駆け抜ける。頭は低く、重心はブラさない。母から教わったことだった。枝が顔に当たる。小さな小石を踏む。何も気にはならなかった。速く、速く、もっと速く。


 脇目もふらず走り抜け、小川を抜けた先にいつもの顔が見える、はずだった。最初に見えたのは大きな猟銃を持った男達。誰だ。何故ここにいる。視線を移した先、血に濡れた姉を庇う等に立つ母。何度も起き上がろうとしては横たえる姉。現実が受け止められないのか体が動かない。男達よりも力強い母も姉を庇っていては本領を発揮出来ないようで姉を背に威嚇しては近づく男達を蹴散らそうと爪を立てていた。自分の指がピクリと動いたと思ったらもう駆け出していた。触るな、母と姉に触るな

 
 何も考えず激昂のままに走り出したのが悪かった。男達は慌てふためき持っていたものを振り回し始め紐の様なそれが体に絡む。何人かの腕や足を切り裂いてやったが絡むそれにどんどん体の動きが制限され思うように体が動かせない。しかし、男達は母と姉から距離を置き私に集中している。今のうちにどうか、遠くに。ちらりと母と姉を見たその時、体に何かが突き刺さった。そこが焼ける様に痛くて雁字搦めの体を動かすとジンジンと脈打つ様に熱が広がる。なんだこれは。やめろ。体に力が入らなくなっていく。骨がなくなった様にぐにゃりと不安定な体。ブレる視界。姉はもう、体を起すこともできない様だった。母が何かを叫んでいる。私を取り囲む様に男達が集まってくる。男達に遮られて母と姉の姿が見えない。力がいればこいつらなんて蹴散らしてやるのに。


「見ろ、上物だ。体が大きい分毛皮もでかいぞ」

 目の前の男が鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌に話す。筒のようなものを持っていて、腰には矢尻だろうか、尖ったものがいくつか飛び出ている。


「馬鹿、生け捕りにできたんだ。生きたままの方が高く売れる。ペットでもサーカスでも趣味でも金持ちはこういう奴らを欲しがる」


「わからん趣味だね」


「可哀想ではあるがな。いい金になる」


 男達の言葉が耳に入る。やめろ。やめてくれ。母と姉が、姉が起きない。やめてくれ。殺さないでくれ


 男達が何を言っているかはわかるのに口から出たのは荒い息だけで目蓋がぐるりと落ちるのがわかった。


 目を覚ますと箱の様なものに入れられていた。潮の匂いがする。森を出て海の方まで連れてこられたのだろうか。この辺は木々が少なく生き物も多くないためほとんど寄り付かない。だから一向に場所がわからなかった。箱の様なものは硬くてびくともしない。姉は、母は。この血の匂いは。


 箱の中をぐるぐると回っていると奥から男達の足音と声が聞こえる。それとずるずると何かを引きずる音。もう一つ金属の擦れる様な音。ようやく姿を見せたと思ったら、男達に引きづられているのは美しい毛皮が血と土で汚れ白濁とした目で空を見つめる姉。そんな、嘘だ。何故!何故!!何故!!!そのあとに続いて鎖の様なもので縛られた母がぐったりと動かず台車に乗せられてやってくる。


「母よ、無事ですか、母よ!」


母は、ピクリとも動かない

 
 男達は談笑しながら姉を解体して売れる部分だけに分けると、これでしばらくは遊んで暮らせると笑っている。何故私たちなのだ。私たちもただ、誇りを持ち気高くあろうと生活しているだけなのだ!返してくれ!悲痛な叫びは、男達には聞こえないらしい。千鳥足で近づく男が近寄ってきて「お前も良い値で売れてくれよ」と赤ら顔で酒の混じった吐息を漏らしながら言う。


「姉さん、姉さん」


 美しかった毛皮が汚れていく。どろりと溢れる内臓は誰かに食われるわけでも土にも還れない。走るたびに躍動したしなやかな肉が切り落とされる。


「姉さん」


 『無駄に殺さない。私たちも世界の一部だ』そう言ってた強い瞳が何もうつさずこちらを見ている。


「姉さん」


 声に、反応したのは母だった。ピクリと耳を動かすとこちらを見て、周囲を見渡す。母さん、姉さんが。そっちを見ないで。目と耳と鼻で、姉だったものを確認した母は静かな眼で私を見る。自然のこと、狩りのこと、生き方を教えてくれていた時と同じ優しい眼だった。目があって「母さん」と呼ぶと、母は一瞬微笑んで、ずっと動かさなかった体を起き上がらせ目の前ぬいた男の首に噛み付いた。叫びながら絶命した男を見た仲間達がパニックになりながら姉をバラした刃を母に向ける。刃が母の体を引き裂くがそれでも爪を立てることをやめなかった。何人もの男が地を這い、呻き声を上げている。鎖に繋がれた母もあちこちから血が出ている。鎖はどんなに暴れても外れない様でそれが食い込んでそこにも傷ができていた。


 やがて奥から叫ぶ声と足音が聞こえる。応援がきたのだろう。紐が繋がった矢を持った男が母を囲む。シュルルと風を切る音がして母の体に矢が突き刺さると幾ら動いても外れず、紐食い込む。ギチギチと張った紐のせいで母は動きを止めざるを得なかった。そこに丸々と太った髭を蓄えた男が大きな銃を構えてやってくる。


「おうおう、大暴れしてくれたな。これじゃあ大損失だ。せっかく捕まえたから生かしたまま売り捌こうと思ったが若い方が売れるだろうしいいだろう。大人しく金持ちの足元で鳴いてればもう少し生きられたのになぁ」


 笑いを含んだ喋り方には、何の敬意も感じられなかった。姉を殺したのに、母を傷つけたのに、それを楽しんでいるかの様な声と、手にかけた銃を弄ぶ仕草。銃口がゆっくりと母の頭に向けられる。母も男をじっと睨む


「やめてくれ!母さん!やめて!」


 声の限り叫ぶが、誰もこちらを見向きもしない。母が、こちらを見て微笑んだ。


パァアアアアアアアアアン


 森に響いたものよりも大きく重い鼓膜を波打つ様な音がして母の頭が弾け飛ぶ。肉と骨がブチブチとちぎれて跳ぶ。そのあと、ゆっくりと体が傾いでバタンという音がする。耳がぐわんぐわんと痛い。


 叫び声は唸りをあげたが、太った髭の男はこちらを見て満足そうに笑い「獣の分際で」と言い放った。ああ、どうして。私はお前の言っていることはわかるのに。私の言葉が人のものならお前達は手を止めていただろうか。母も姉も奪いはしなかっただろうか。人間の家族が叫べば頭を吹き飛ばすことはなかっただろうか


 口から出るのはグルグルといった唸り声だけで、誰も聞いてはいなかった。

 母を殺した髭の男はどうやら役職があったのか、上機嫌で矢を打った男達を引き連れて出て行った。大きなものを仕留めると美味しい酒が飲みたくなる、などと言って。快楽のためだけに殺すのだ。母の動かない体に擦り取りたいのに硬い檻は何度ぶつかっても開きはしなかった。火も消え暗くなった場所は土と潮と血の匂いでいっぱいで頭がぐるぐると回る。嗅ぎ慣れた緑と川と日光で暖かくなった母と姉の匂いが嗅ぎたい。暗い。遠くで楽しげな声が聞こえる。憎い。目を閉じ、耳を伏せる。何も感じたくなかった。


 それから、どれくらい経っただろうか。ザリザリと土を踏む複数の足音が聞こえる。うるさかった声はもうしない。耳を立てる。今度は何を奪いにきたというのだ。もう何もないのに。足音が私の前で止まる。目を開けてやるのさえ億劫で動かない


「出たいか?」


 ここに連れてこられて聞いたことのない声だった。ピクリと音に反応して耳が動く

 
「ここを出たいか」


 私が聞いていることを前提にしたかの様な話方に体を起こして座り、真正面から男を見据える。いつのまにか外には火が戻っており、逆光でよく見えないが、今まで見た男達よりも細く、叩けば死んでしまいそうな、しかし母や姉のような強い意志を持った目の男だった。


 座ったままジッと見ていると、再度男は「出してやろうか」といった。その時にはもう鉄格子に手がかかっており、金属のぶつかる音がしてガチャリと何かが落ちる。キィと高い音を立てて目の前を遮るものが何もなくなるが、私は男を見たまま動かない。男も檻を開けるためだろう、端に動いてから手で戸を開けてもジッと動かない。


「暴れたいなら暴れてもいいが、抑え込むぞ。こちらからは手を出さない」


 不健康そうな男がそう言った時、当走馬のようなものが駆け巡る。この男の名はトラファルガー・ロー。海賊で、この世界を私は知っている。私は人間だった。断片的な記憶。撫でてくれる母親の優しい笑顔と暖かい手、父親、兄弟、学校の友達。


 殴られたような衝撃だった。人間だったこと、この世界を知っていることが頭に叩き込まれ何故かそれが本当のことなのだと納得している。しかし、断片的な記憶のせいでその時の家族がどうなったのか。何故私が今ここにいるのかはわからないが、二つもの家族を失ったことだけは理解でした。トラファルガー・ローから目をそらしてフラフラと外へ出る。手を出さないと言っているし、私も関係のない人間を相手に暴れる気力もなかった。血溜まりの中、皮一枚まで体から切り離された姉の頭をべろりと舐める。それだけでは美しい毛並みは戻らず、血も落ちなかった。ふわふわとした感覚で、頭のない母の隣へすり寄る。体温を失った体からは匂いもしない。鼻でつつくがもう固くなっていた。「母さん」グルグルと喉を鳴らすが返事はない。冷たい。舐めてもくれない。血の匂いしかしない。


「キャプテーン!金目のものはあらかた奪いましたよー!なんかあいつら宴だったみたいで一つの部屋にいたんでやりやすかったですー!ってうわ、きたな!エッ!うわっ!虎!?キャプテン!虎!」


 また足音が増えて声がする。若そうな声は興奮しているのか弾んでいて、騒がしい。


「そうか。引き上げる準備をしろ」


「アイアイ!キャプテン虎は!?...うわ、ヒデェことしやがる」


 周囲を見渡して血の匂いと姉だったものを見てツナギの男のトーンが下がる。恐らく、姉と母を殺した連中は彼らが捕えたのだろう。引き裂いてやりたいと思うが、そんな気力もない。


「おい。そいつはもう死んでいる。解放してやれ」


 母にくっついたまま尾だけを揺らす私に近づいてトラファルガー・ローがいう。コイツは私が怖くないのだろうか。暴れ回らないという保障はないだろうに。母が死んでいることなんてわかっている、それでも。母の背中に額を撫でつけて姉を見て目を伏せる。せめて二人がまた巡る様に草木が多くて他の動物がいるところまで連れて行ってやりたかった。こんな開けた場所に動物達は寄り付かないだろう。伝わるかはわからないが、トラファルガーをジッと見つめる。私は、家族をこんな姿で残しておきたくない。しかし私は彼らを運ぶ術を持たない。


 見つめつづけるとトラファルガー・ローは大きなため息をついて「おい、ペンギン。死んでる2体を運んでやれ」と近くにいたツナギに言う。


「どこに運ぶんです?」


「...おい。案内しろ」


 トラファルガーはまるで自分の言っている言葉を私が理解していることを知っているかのような口ぶりで私を見て言う。不思議な事もあるものだ、と思ったがここが私の知っている世界ならあり得なくもないか。クエスチョンマークを浮かべたままのペンギンを尻目に喉を鳴らして母の背中に身を寄せるとゆっくりと起き上がる。のしのしと重い足取りで姉の元に向かって顔を舐める。二人の人間をじっと見つめて喉を鳴らす。そして今日、こんな悲劇が起こるとはおもわず、今ではもう懐かしい緑を目指してゆっくりと歩き始める。


「おい、いくぞ」


「エッ⁉キャプテン⁉おい!ベポ!こっち手伝ってくれ!台車があれば持ってこい」


 後ろで喋る声が聞こえる。ペンギンと呼ばれた男がもっと人の気配がする方に叫ぶと遠くから「待ってー!」という返事が聞こえて、足音が増える。台車と地面の小石がぶつかる音。帰ろう。


 一人だけ手ぶらでやってきたトラファルガーは結局手伝うこともなく埋められる母と姉を私の横でじっと見ていた。まさか埋めてくれるとは思っていなかったが、埋葬の感覚は私が前にいたところと同じなんだろうか。突然思い出した人間だったころの感覚に浸りながら埋められていく母と姉を尾を揺らして見つめる。よかった。これできっと彼女達はまた命をつなぐ。


『ありがとう』伝わっているかは分からないが横にいるトラファルガーに頭を擦り付ける。彼は嫌がる様子もなく私の頭に手を置いてポンポンと数回叩く。

 それからしばらく。私は船の上にいる。埋められた家族の側をトラファルガーの横の伏せたまま動かず見ていたのを気の毒に思ったのか『来るか?』と言われたまま船に乗っている。時折海底に潜る船の中で運動不足にならない様と構ってくるクルーもいるが彼らが十分強いのも知っている上で爪を立てないように気を使って気が気ではない。たどり着いた島でしばらく狩りをしたり走る回ることが目下のストレス発散だ。そして


「太郎、キャプテンを寝かしつけてくれるか」


 明日の飯の仕込みをしていた料理番から放られた生肉を口で掴みバリバリと骨ごと飲み込むとそれを報酬として船の奥、トラファルガーがいる部屋と向かう。私の仕事は寝ずに本と向き合い隈を携えた彼を寝かしつけることだ。


 口の周りを舐めながら肩で扉を押し部屋に入ると本塗れの部屋のソファで埋もれている家主を発見する。ドアの音で気づいていたのだろう、側によると「太郎?」と頭を撫でられる。力を抜いてソファに横たわるトラファルガーの袖口を噛んで上半身を半ばソファから下ろすとその下に潜って体を差し込み立ち上がる。


 のそりと起き上がれば背中にトラファルガーが乗り、そのままベッドにずるずると連れて行く。


「おい、太郎。まだ本が残っている」


 抵抗の声は聞こえるものの、体の力は抜けたままなのでベッドに運び下ろすとその横に体を伏せてゆっくりと尾を揺らす。背中に感じる体温はだいたいこのまま文句をいいつつ呼吸がゆっくりになって体温が上がり眠りにつくのが最近の日課だ。私の役割はさながらクッションか湯たんぽのようなものである。


「太郎」


 今日は眠りに落ちるまで時間がかかりらしいいトラファルガーが私の背中を撫でながら酷く懐かしい音で私を呼ぶ。どこかで聞いたことがあるような、昔から私を示すものだったとも思える音。


「ここの方が賑やかでいいだろう」


 男の普段より低く落ち着いた優しい声音に耳を動かして顔を見る。顔には強い瞳の周りに相変わらずの隈を乗せて穏やかな笑みを浮かべていた。喉を鳴らしてゆっくりと瞬きをするとトラファルガーは一層満足そうに笑みを浮かべてゆっくりと私の目を見た後目を閉じる。


「だが、お前が来てからクルーがお前を使って寝かしつけようとしやがる。お陰でずいぶん早寝だ」
 

 そういうとトラファルガーは次第にゆっくりと深く呼吸をし始めた。最初はなかなか本を手放さなかった彼も最近は私が来ると一応寝る気があるらしい。目を閉じるまでの時間がずいぶんと短くなった。同じように彼のベッドで尾を揺らしていた夜。なかなか寝付けなかった彼はじいと穴が開くのではないかというほど私を観察してその後しばらく目を見て言った。


「いい目ェしてるな、お前」


 そうだろう。母譲りの自慢の瞳だ。

『太郎』


とても優しい人間の女の声で懐かしい音で私を呼ぶ声が聞こえた気がした。静かになったトラファルガーの横で私も目を閉じる。静かな夜だ。

 私も、母や姉とはちがうこの男の瞳の強さに、惹かれたのかもしれない。


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