虚勢


 俺と母さんを変な生き物から助けてくれた人を好きになった。


俺よりも少し年上の高校生でとても強かったし、とてもかっこよかった。そんな彼は母さんのことが好きらしい。たぶん。礼を言う母さんに怒ったような照れた顔をしていた。それから、何回か様子を見にきてくれた。あんな化物を見ることは一切なくなったのに、調子はどうか、元気かなどと。会えるのは嬉しいけど自分が目的じゃないのが寂しくて、そっけない態度をとってしまうのが嫌だった。でも、母さんを見るその横顔がたまらなく好きで自分の感情を持て余した


「お前俺のこと好きでしょ」


 そういう彼に頭が真っ白になったのを覚えている。バレてないつもりでいたし一生隠しておくつもりだった。血の気が引いた俺とは正反対に彼は『お前の顔ならまぁなくはないな』と言い放った彼の顔は相変わらず整っていた。その顔に圧倒的に優位に立つものの笑を浮かべて。それでも母親に似ていてよかったと心の底から思ったのは初めてだった。


 そこから始まった関係は一方的なものだった。恋人と言えるようなものではない何か。好きな人のことを知りたい、とか一緒にいたいとか会いたいとかそうのは全部許されなかった。何を聞いても嫌そうな顔をするそう、面倒くさいと言われればどうしよもなかった。『好きなんだろ』確認作業だったのかもしれないけど俺にとってその言葉は脅迫めいたものだった。好きだから相手の嫌がることをしてはいけない。手を煩わせてはいけない。だってもう会ってくれないかもしれないから。募る焦燥感に口を塞ぎ言う通りにした。


 もちろん、体の関係もあった。そう言うは別にやりたかったわけじゃないけど『じゃあ顔だけ好きなのかよ』と言われたら脱ぐしかなかった。『意外と勃つもんだな』そう言って笑ったあんなにも大好きな彼の顔が歪んで見えた。母親に似た顔を見るために上を向かされていたけどどうしても目に入る男が嫌だったらしい。背を向けて膝を立てる。獣の様な律動に気持ちいいだとか嬉しいだとかそういった感情はまるで湧いてこない。痛くて怖くて泣き出しそうなのは好きだという気持ちが足りないのか。やっぱり俺は顔だけが好きなんだろうか。見てくれだけの愛なんだろうか。


 それからは気まぐれで呼び出された。何があってもいいように呼び出しがあると自分で後ろの穴をほぐした。前戯なんてあった事ないから切れて後で泣くのは自分なのだ。風呂場で1人何をやってるんだろうと胸を掻きむしりたくなる衝動とまだ呼んでくれる。彼に会える喜びと虚しさがごちゃ混ぜになって排水へ流れていく。


 高校生に上がってしばらく。誰かが俺と彼があっているのを見たらしい。男が好きなんだと噂がたった。リアクションを取らなければすぐに飽きるだろうと思っていたのに。『本当か確かめてやろうぜ』そう言われて何もかもを暴かれた。人数が増えれば同じ男でも力で勝てないこと、人数が増えるだけセックスはしんどいこと、慣らしていない粘膜を抉られると痛くてまともに歩けないことがわかった。


 でもそれもどうでもよかった。慣れていたkqらだろうか。


 彼の名前も絶対に出さなかったし、屈辱に耐えた自分を褒めてやりたい。散々欲を発散した彼らは満足したのかいつのまにかいなくなっていた。男は自分が満足すればそれでいいのだ。きっと。


 どうにもならない感情を持て余してただ蹲る。彼の顔を一目見たかった。どうにか押した通話ボタンを祈るように抑える


 知り合って初めて自分から彼に会いたい言って応えてもらえた嬉しさで何も見えてなかったようだ。面倒くさそうな顔も。普段着ではない服装も、何もかも。


「うわ、土埃だらけじゃん。きったねー、太郎、何してたわけ?よく見りゃ顔もボロボロだし。あーあ。で、なんの用?」


『汚い』言葉が頭の中を反芻する。そういえば散々顔も殴られて唇や頬がひりつく。せっかくあの人に似た顔なのに。彼が好きな顔なのに。傷だらけで土埃で汚い。今の俺に価値はない。


「あ、いや、なんでもないです。すみません」


 こんな格好であうのが申し訳なくて恥ずかしくて。それに『顔を見て安心したかった』なんて言うと呆れられてしまう。尻すぼみになる言葉と顔を見られたくなくて俯くと上から大きなため息が聞こえる。やってしまった。


「まぁいいけどさ。このあと予定あるからもういい?忙しいんだよね」


「すみませんでした」


 彼はもう一度大きなため息を溢すと足早に去っていく。会ってくれただけよかった。そういえば最近彼の顔を見れていない。顔が見たくて、安心したくて呼んだのに俯くばかりで顔をみる余裕がなかった。いつだろう。彼の笑顔を見たのは。好きになったあの輝くような表情をみたのは。


 高校から始まった一人暮らしの部屋に戻りたくなくてそのまま街をぶらつく。薄暗い街に制服だからかチラチラと見てくる人はいたが顔が傷だらけな男に話しかけてくる人はいない。


 自分が女だったら良かったんだろうか。母親にの華奢な柔らかい女の子。そうすれば変な噂も立てられず、彼も俺を好きになってくれた可能性があったかもしれない。適当に歩いてたどり着いた広場の花壇に腰掛ける。後ろポケットに入れていたスマホを出すが誰からも何の通知も来てはいないとわかっているのにつけたり消したりを繰り返す。空を見上げても街灯が明るくて星も見えない。


 どうしよう。帰らなければ。明日この顔で登校するのは憂鬱でしかない。1日学校を休んで顔の腫れが引くまで家にいようか。でもあからさまにショックを受けているようでなんだか癪だ。どうしよう。どうしようと思っているうちに夜が深ける。広場に人も少なくなり周りの歩道も人がほとんど歩いていない。数少ない通行人はみんな心なしな足早に見える。いいなぁ。誰かが待っているんだろうか。


 その時ふと遠くを歩く白髪が目に入った。夜道でも目をつくそれを見間違えるはずがない。すらりと伸びた手足、闇に溶ける様な黒い服。その横に並ぶ黒い髪の女性。


 思わず立ち上がった。でもそこからどうしていいかわからない。どっと汗が噴き出るのが自分でもわかる。じっとり脂っぽい汗がまとわりついて気持ち悪い。追いかけようと思うのに足が一向に動かない。勝手に息が上がる。動けよ、足。この意気地なし。太もも辺りを叩くが筋肉がピクつくだけで一向に前には出ない。はっと思って見上げるとその2人はもういなくなっていた。そうだ、さっき彼女と用事があると息が荒いのは無理矢理開かれた体が熱を持ったせいだろうか。それとも今見たことをどうにかこの場から逃げたかった。



 衝動的だった。何か見えない影に追われるように走って部屋へと飛び込む。感情に引っ張られて自炊用に買ってほとんど使っていない包丁を手に取る。顔や腹、粘膜が痛い。それしか考えられなかった。どうしようもなく死にたい、とかそういう訳でもなく無言でそうしなければならないと決まったことのように流し場へ行って水を出す。台所から持ってきたほとんど使ったことのない包丁の刃先を左の手首に押し当てる。そして当たり前のように刃を引く。痛いけれどそれ以上に、よくわからない安堵感。流れ続ける朱を見て痛みだけに集中できるせいか落ち着きを取り戻す。しばらくして襲ってきたのはなんてことをしたのだとい焦燥感だった。脂汗が滲んで気持ち悪い。どうにかしなければと思うのに何をどうすればいいのかわからない。とりあえず手首にタオルを押し当てて止血を図るがうまく力が入らない。


「あ、あの、悟さん、今いいですか」


「何?俺も暇じゃないんだけど」


 そういえば自分から電話してさっき用事があるって言われたばかりじゃないか。そう思うと急に緊張して何をいえばいいのかわからなくなる。


「あの、えっと、手首、手首が血で」


 何をやってるんだろう。しどろもどろで言葉が出ない。それに彼に言ってどうするのだ。


「何?手首でも切ったの?ヤバ、重ッ」


 手が震える。「あ、あ...。なんでもないです。ごめんなさい」そう言って一方的に電話を切る。目頭が熱くて自分が泣いているのがわかるのに口角が上がってる。電話越しでも悟さんと話す時の癖で笑おうとするなんて。自分があまりに惨めで情けなくてこんなに振り回されるほどの感情が鬱陶しくて。


 何かを求めるからこんなにしんどいんだ。勝手に期待して求めるから、それが手に入らない時勝手に落胆してしまう。何も求めてはいけない。自分に対する感情も、反応も。そう考えるとすっと感情が落ち着きを取り戻す。取り乱していた自分がなんだったのかと思うほど冷静にタオルの上から近くにあった梱包用のテープをまく。気づけば出血も落ち着いてきていた。


 結局病院にはいかなかったから結局傷跡は残ってしまった。



 悟さんの教え子、虎杖くんだったかな。たまたま出会ってお茶をすることになった。


 『僕の生徒が増えるから日用品買って部屋の準備手伝ってよ』というお願いを聞いた後に会ったくらいなので彼もよく俺が分かったなって思う。


 本当は悟さんの知り合いは何を話していいのかわからないから苦手なんだけど「太郎さんじゃん!何してんの?」などと人懐っこく寄られればどうしようもなかった。


「太郎さんは先生の兄弟?友達?恋人?」


「え?なんだろう」


 急な問いかけに変な声が出てしまい恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをする。答えも誤魔化す様にグラスに入ったコーヒーを意味もなく混ぜるけど真っ直ぐな視線は逃してくれそうにもない。


「なんだろうね。俺も知りたい。虎杖くんの目にはどう写った?」


 聞いてみたけどよくよく考えればその答えを自分は知りたくないのだと気づいてしまった。それでも吐き出した言葉は戻せない。俺は何と応えて貰えば満足するんだろうか。


「うーん、友達っぽいけど五条先生が信頼?してるのはわかるから恋人っぽくもある?」


「信頼ね」


 それはきっと『こいつは自分を裏切らない』と言うものよりも『自分の所有物だから』と言うものに他ならない。向こうが圧倒的優位な関係性に友情だとかそう言うものではないという確信がある。言うなれば孫の手だ。自分の手のように自発的に動かないけれど自分のやりたいことはできる。だから『信頼』などと俺と悟さんには的外れな言葉のような気がして虚しい笑みが浮く。


「太郎さんは五条先生のこと嫌いなの?」


 俺の言葉が意外だったのか、この子が聡いのか伺うように聞かれた問いにも上手に応えられない。

「……昔は、好きでたまらなかったはずなんだけどね。もうよくわからないや」


 手首の盛り上がった傷跡を撫でる。すると『そういうの重いんだけど』いつだったかの言葉が頭蓋を反響する。随分古いことを覚えてるものだ。あの時は自分も若かった。何もかもが欲しかった。何も手に入らないのに。

 
「まぁそもそも完璧である五条悟に釣り合うような関係じゃないよ。そうだな、楽しい話じゃないけど聞いてくれる?」


 大の大人が高校生に話を聞いてもらうなんてと思ったけど誰かに聞いてほしいお思っていたのも確かだから人の良さそうな虎杖くんにぶつける。悪い大人だな、なんてことを自分に思う日が来るとは思っても見なかった。




「虎杖くんくらいの歳だったかな。男と付き合ってるって噂が流れて面白半分で上級生の何人かに襲われたことがあって、何も考えずに手首切っちゃってさ。その後ふと我に返って悟さんに連絡取ったことがあったんだけど手首の傷見て『重い』って言われたのがなんだろう、俺的には凄い衝撃でね。冷や水を浴びせられたというか、現実を突きつけられたというか。『ああ、これはやっぱり恋人とか付き合ってるとかそういうのじゃないんだ』だって思ってから気持ちが置いてけぼりというか、なんだろうね?まぁ元々あの人は俺じゃなくて母さんの顔が好きだったわけだし、俺が欲しかったわけじゃないって知ってたけど気持ちがついていかなくて。何回か離れようとしたけど悟さんは、あの人は離す気はなかったみたい。まぁ元々俺があの人を求めたんだから俺から離れるのも失礼なのかなって思って悟さんがいらないっていうまではって感じで。ごめんね、こんな話で」


「笑ってるけど太郎さんはしんどくない?」


「ああ。これは、母さんがよく笑う人でね。少しでも似ればいいなと思ってるうちに剥がれなくなっちゃった」


 自分の口角をそっと撫でる。似せるために張り付けた笑みは案外役に立った。社会に出れば自分の機嫌は自分で取らないといけない。それにどんな人間だって不機嫌そうにしている人間よりも笑顔の人間を相手にしていたい。


「しんどくはないよ。それに悟さんといるのももう長くないから」

「え、なんで?」


「ここずっと背中が痛くてさ。整形の病院に行ったら内臓からくるものの様だから直ぐに大きな病院に行きなさいって言われて」


「うん」


 素直な反応が笑みを本物にさせてくれる。話を聞いてくれようとしてくれる姿が嬉しくてまだずっと話を聞いていて欲しくなる。こうやって自分のことを話す時間はいつ以来だろうか。あの人とは、一度もなかったような気がする。


「癌だったよ。骨に転移してたからその痛みだったみたいでね。身体中に広がっててもうどうしようもない状態だって。持って半年、短くて2、3ヶ月っていうからじゃあもういいかって」


「どうにもならないの?」


「ありがとう。でもどうにもならないんだ。放射線とかでしんどい思いをしてまでいきたい訳じゃないから今は麻薬の強い痛み止めだけ。あの時からもう1ヶ月半くらい経つから後どれだけ動けるか」


「……先生は知ってる?」


「今言った」


「あ」


 そういってからしまったと思ったけどもう遅かった。ずっと通話状態になっていたスマホをばっちり見てしまった虎杖くんの素直な反応を見て笑う。そしてスマホに話しかけるように顔を寄せる。


「だからさようなら、悟さん。母さんになれなくてごめんなさい。…ごめんね、虎杖くん。こんないい大人の間に入ってもらって好きなもの食べて」


 テーブル一万円札を出して何か言っている虎杖くんを置いて席を立つ。一度虎杖くんがトイレに立ってからなんだか様子が変だとは思っていた。狡い人だ。生徒にこんなことをさせるなんて。まぁ本人を前に何も言えない自分も変わったものではない。


 店の前にいたタクシーに乗り込む。1週間ほど出張だと言っていたから流石の悟さんも急には現れないだろう。元々、消えるならあの人に気づかれないようにと思っていたから良いタイミングだった。…こんな話を聞かせる予定ではなかったけど。空港を指定してから背もたれに体を預けて最近また見えるようになった奇怪なものから目を背けるように目を閉じる。体の調子を崩してから徐々に見える数が増えていくそれらにまるで命を吸われている様な気でいた。こんな生気のない命で育つものがあるならそれも可愛げがあるような、ないような。一方的ではあったけど悟さんとずっと避けていた話をした安心感か体の力が抜けて重だるく、眠気が襲う。呪いのようにまとわりついていた楔から放たれたような解放感がある。悟さんは何も悪くない。ずっと話をしてこなかったのは俺だ。そして逃げ出したのも。狡い人間だ。この年齢になるともっと大人になれるのだと思っていた。でも実際は手首を切った日から何一つ成長していない。シンクを呆然と見つめる高校生のままなんだと思う。でも、今日、頑張った。人伝えではある置いてけど避けていた話をできたよ。もう、その包丁を離してもいいよ。流れている血も、止めてくれる人がいなくたって自分の力で傷が塞がるから。


 思っていたよりも体力を使ったらしい。瞼が重い。息をするにも意識をしないと体に酸素が回っていない感じがする。「着いたら起こしてください」と運転手に言ったつもりだが、返事があったかは定かではない。

 

 わかってくれているものだと勝手に思っていた。そばにいるのが当たり前で相手もそう思ってくれていると盲信していた。言葉には出したことはないけど、大切にしていた、していたつもりだった。だからこそ呪霊や家のしがらみに関わらせないように仕事の話をしたこともなかった。何も聞いてこないのは信じていてくれているからだと思っていた。

『上級生の何人かに襲われた後、悟さんに電話したことがあって』

 スマホ越しに聞こえた言葉が反芻する。なんでもないことのように軽い口調が本当になんでもなかったことのようにいうから内容を理解するまでに時間がかかった。何人かに、襲われた。それはただの暴力ではなかっただろう。初めて聞いた。確かに手首を切ったと連絡は受けたことがある。当時、僕はは太郎が本当にどうしようもなく僕のことを好きだと思っていたからその前にたまたま声をかけられた女といるところを見られていてそのせいで手首を切ったなどと言い始めたのだと思っていた。仕事があると言っておいたのにわざわざ電話をよこした太郎に煩わしさだって覚えた記憶がある。


 ああ。


 あれも、これも。思い出す太郎はどんなに暑い夏の昼間でも長袖で左手に腕時計をしていた。あの頃、夜も服を脱ぎたがらなかった。男らしく成長するのを気にしていたからそのせいだとずっと思っていた。そんなこともう気にはならないほど太郎を思っていたから何度夜を重ねて、どんなにイかせてみてもワイシャツを手放さず正常位を嫌がり、決して顔を見せない姿をいつまでも慣れないところが可愛いと思っていた。どんな時も準備されている体に太郎も本当は僕のことを求めているのだと思っていたから。


『母さんの代わりだから』


 ずっとそう思っていたんだろうか。だから、体を見せないようにしていたのか。重いと言われた傷と、女ではない体を必死に隠してするセックスに太郎は何を感じていたんだろうか。顔を埋めて早く終われと願っていただろうか。それじゃあただのレイプだ。ずっと苦痛だったはずだ。喉の奥が重くなる。僕はずっと何を見ていたのか。生まれてこの方ずっと持っていた自分というものが揺らぐような感覚さえする。自分を1番理解してくれると思っていた人間の気持ちを何一つ理解してこなかった。。いいや、違うな。勝手に決めつけて理解していた気でいた。


 確かに、最初は母親の顔が好みで近づいた。それが話しかけるたびに真っ赤になる顔や、好きを隠しきれない態度が可愛くてからかい半分で付き合うなどと言い始めのは僕だ。それでもなんの悪意もなく話をする太郎が家や仕事の黒い感情を溶かしていくのを心地よく思いはじめ、離れられなくなっていた。少しずつ僕から仕事での愚痴や家族の話をして彼がどう思うだろうか、離れていくだろうかと反応を見ていたが彼は静かに話を聞いてくれた。僕が五条だからとか、そういうことを言わない普通の人間である彼の横は安心できた。ずっと恋人だと思っていた。僕が付き合わせてるんじゃなくて、対等に思い合っているんだと、思っていた。襲われた、その相手よりもずっと気づかなかった自分に腹が立つ。太郎に言わせなかった。気を引きたいだけだと思っていた過去の自分を殴りつけたい。言われるまで太郎の態度を変だと思いもしなかった。慢心していた。勝手に好かれているのだと思っていた。自分の好きが伝わっていると思っていた。


「おかけになった番号は、現在使われていません。番号をご確認の上、もう一度おかけ直しください」


 何度電話帳の太郎をタップしても流れてくるのは機械的なメッセージだけ。


『もう長くない』


 腰が痛いと言ってさすっていたのはいつからだった?少し痩せたなと思った時なぜ言わなかった?思い出す記憶の中の太郎は小さなサインを出していたのに。死んだ親友がよく言ってた『悟は言葉が少ないんだよね。なんでも相手が理解してると思ってちゃダメだよ。わかっていたとしても口に出さないと』好きだと口に出したことがあっただろうか。ちゃんと伝えようと思って繋がらな番号に何度も切ってはかけ直す。どれほど入念な準備をしていたのだろうか。部屋はすでに解約され、太郎を知っている人に聞いても誰も太郎の所在を知らなかった。最後に乗ったタクシーも現金だったようでどこに向かったかさえもわからない。写真を嫌がる子だったから一緒に写ったものさえもない。写真を撮られたがなかったのもきっと母親の面影が薄くなった自分を嫌ってのことだろう。何もかもが手遅れで、弁解もさせてはもらえない。



「やっと見つけたよ」


 小さい岬の端、目前に迫る海に向かって声をかける。波と吹き付ける風の音以外人の気配はない。


「全然見つけられないし、やっと見つけたと思ったらもう海に撒いたっていうじゃない?太郎さぁ、準備よすぎじゃない?後見人もつけて俺の知らない友達に火葬から散骨まで頼んでるなんてさ。お母さんも死んだの知らなくて泣いてたよ」

 小さく作ってもらった花束を海に向かって投げる。あっという間に落ちて白波に揺られる花は、波に押し返され沖には出れないらしい。彼もここに止まっていないだろうか。そう思うのに、この場所は呪霊の一体も見つからない。綺麗なものだ。

 
「お母さんと連絡を取らなくなってたのも多分僕のせいだよね」


 多分じゃなくて絶対。『何年も会ってなくて…』泣き腫らしたあの人の顔に太郎の面影を探すほど、お前ばかりを見ていたのに。「お前、母親に顔がいいから」その言葉が呪いをかけ仲の良かった家族に溝を作った。太郎に勝手に引け目を作らせ家族との関わりを絶たせていた。どれだけ彼に関心がなかったのか。僕は彼の何を見ていたのか。記憶の中の太郎に謝るけど俯いて微笑む彼が何を思うのかわからない。


「骨くらい残していってくれたっていいじゃない」


 その骨をきっと僕は離さなかっただろうけど。


 後見人を務めた友人の話によると癌のせいで痩せた体は焼くと骨もほどんど残らなかったようで、そのことを知ってか知らずかずっと散骨を望んでいたという。死んだ後のことも自分で考えていたということはどれほど前から覚悟を決めていたんだろうか。もしかすると病気にならなくてもこういう死に方をしたんじゃないかと思うと飲み込んで抱えていくと覚悟を決めたはずの後悔が顔を出す。せめて、俺を恨んで逝ってくれていればと思う。恨むほどの感情を持っていてくれたか自信がない。きっと僕の一片の未練もなかったんじゃないか。


「愛してる。本当だよ」


 生きている間に、何度も言えたはずなのに言葉にしなかった自分が自分に呪いをかける。


「何度でも言う。だから僕を呪って。幽霊でも化け物でもいいから出てきてよ」


 岬の崖、落ちる手前のギリギリに立つ。海特有のベタついた潮風が顔に吹きかかる。ドラマのように風に乗って声が聞こえるとか、そんな夢のようなことはない。ただ、生ぬるい風が過ぎていっただけだった。


「そんなわけないか」


 見下ろした先に、投げた花束はいつの間にか見えなくなっていた。


「絶対もう言わないからちゃんと聞いてよ」

 一呼吸おいて目を見る。この青い目を初めて見た時でも彼はしっかりと視線を受け止めてくれた。さっきまでふざけ合っていたのに、僕が話をしようとすると全身を僕に向けて受け止めようとしてくれる姿勢が好きだ。普段相手にしている総監部の人間がクソのせいかどんなことでもまず言ってみようと思える気になるのは彼が出す空気感のおかげだろう。

「何がですか?」

「愛してる。家の柵も、何もなければずっとお前といたいなって思うくらいには」

「もう言わないって言うけど結構言ってくれますよね」

「うるさいよ」

 いくら僕が最強だからといっても普通の人間では簡単に死んでしまう化け物を相手に命を張って仕事をしているのだ。そこに家同士の権力争いも加わるといつ何が起きてもおかしくない。いつ、言葉を伝えられなくなるのかわからないのだ。言える時に言っておきたい。遺言じゃないけど似たような覚悟ではある。

「知ってますよ。家のことも仕事のことも子どもたちのことも、悟さんは結構しっかり考えてるって」

「うわー、なに、生意気」

「はいはい、だから思うようにやってください。俺は待ってますから」

 そういうと目元を緩めさせ穏やかな笑みを浮かべる。この顔が好きで、彼が化け物を見なくて済むように世界を少しでもいいものに変えたいと思うほどには彼が心の中を占めている。 

「うん。ありがとう」

 釣られるように自分の顔が緩む。多分彼の他に見たことがないんじゃないかと自分でも思うほどの緩み方だ。彼がいるなら、こんなクソみたいな世界も悪くない。

そんな夢を見た

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