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「打った背中は少し痛いけど、あとは平気」
そう言って桜が礼を口にすれば、富松はため息を吐きながら、落とし穴に視線を投げる。
「あちこち穴だらけで、本当に参ってんだよな」
体育委員は塹壕を掘るし、四年い組の綾部喜八郎は落とし穴を掘るし、と富松は辟易したような顔をしていたが、桜は何とも言ってあげられなかった。

とにかく、さっさとこんなところからは移動することにした。
いくつ掘られているかは知らないが、落とし穴は一つ見つけたら、次々に見つかるからだ。
「桜。もう落ちないように手握っとけ」
と、富松が手を出してくれたが、すでに歩き出していた彼の手は届かなかったから、その手を取ろうと、桜は止めていた足を動かした。
刹那、また地面がぐにゃっ、と歪んだ感触がして、ぐらりと身体が前方へと傾き、富松が焦ったように、
「桜!」
と、叫んでいるのが見えた。
全部、一瞬のできごとだったはずなのに、スローモーションのように見えて、桜の思考は真っ白に変わった。

グイッと、身体を引き寄せられた感触がした。
でも自分は穴に落ちるところで、唯一、自分を支えてくれそうな富松は少し離れていて届かなかったから、何が起こったのかわからない。
トン、と鼻が当たった先にあったのは草色の忍装束で、それが六年生のものと理解するまでに時間はかからなかった。
六年生はオリーブグリーンの忍装束のはずだから、これは正しくは黄緑色になるのかと桜が考えていれば、
「留三郎先輩!」
と、富松が声を上げるのが聞こえたから、慌てて視線を上げれば、確かに食満留三郎だった。

桜は食満の胸に引き寄せられていたからか、見上げた顔が物凄く近くてびっくりしたものの、失礼にならないようにと、ゆっくりと身体を離す。
とうに、つかまれた手を放してもらっていたのか、簡単に開いた距離にホッとしていれば、目を合わせるようにして笑われる。
「危なかったな」
もう少しで完全に落ちるところだったようで、そう言われたから、桜は頭を下げて礼を口にし、それから富松にも心配をかけたことを謝った。
「桜のせいじゃねェって。だから、気にすんな」
富松がやさしい言葉をくれれば、呼応するように食満も続ける。
「そうだぞ、新実。この穴は我々が責任を持って、掘った本人に埋めさせるから安心しろ!」
安心しろ、と言われても、すでに落ちた後では安心も何もなかったが、次にまた誰かが落ちないとも限らないから、桜ははい、と返事をしただけだった。



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