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桜のいた場所では、こんなふうに静かだったこともないし、自然の景色が綺麗に見渡せたところもない。
空気も何だか気持ちよくて、真っ青な空も、とても居心地がよかった。
「退屈?」
ふと、思ってもみなかったことを聞かれ、桜は目をパチパチと瞬かせる。
聞かれた意味がすぐにはわからなかったからだが、そういうふうにも取れるのだとわかったから、違うのだと桜は首を横に振る。
「落ち着く、という意味です」
忙しいのも騒がしいのも嫌いではないし、慣れているけれど、この静かな空間に心が洗われるようだった。

座り直した雑渡は、傍らに置かれていた桜の扇子をジッと見てから、また不意に口を開く。
「……じゃあ、私は邪魔だったかな」
気配を消すのは自在だが、こうやって言葉を交わしているのは、桜の好きな空間を壊していることになるだろうと、雑渡はそう言う。
だが、そんなことは考えてもみなかったから、桜は身体ごと雑渡に向き直り、力一杯、否定する。
「邪魔だなんてそんなこと、絶対にありませんから! 雑渡さんがこうやって話しかけて下さるの、凄く好きですし……」
後半は本音がちらりと漏れれば、雑渡は小さく笑った。
それが何の笑みかはわからなかったけれど、桜は少し気恥ずかしそうに肩をすくめた。

ざあっ、と風が吹いて、今日は結っていなかった桜の髪を揺らして通り過ぎる。
一瞬だったが、巻き上がった髪が顔にかかったものの、手で払う必要もなく、重力に従ってはらはらと滑り落ちて行った髪はまた元通りの場所に落ち着く。
だけど、きっと髪はぐちゃぐちゃだろうと思ったから直そうとすれば、それより早く、雑渡の腕が伸びてきて、桜の髪に触れた。
頬をなぞるようにまとわりついていた髪を直すためか、雑渡の指が肌に触れたことにビクッとすれば、また小さく笑われる。
こんなに笑う人だったかわからないけれど、ふと見れば、さっきより近くなっていた距離に、桜はドキドキしていた。

元々、雑渡は大柄だけど、こうやって近くにいると、それがより実感できる。
肩幅はともかくとして、頼りになりそうなその胸や腕なんかに、めまいさえした。
ギュッと抱きしめてもらいたいと思うのは、父親と離れてしまったことから来る寂しさ故か、雑渡のことを少なからず想っているからか。
どちらにせよ、できることではなかったから、桜は視線を外すことで見なかったふりをした。

「桜」
そう雑渡に呼ばれるのは、やはり好きだと思う。



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