54



「部屋まで送ってってやろう」
怪我をしたばかりで痛いだろうからと鉢屋は言うが、いまはもうそんなに痛くなかった。
だけど、暴れるのも何だったし、ここで嫌がって鉢屋の面目を潰すのは本意じゃなかったから、桜はお願いすることにした。

沈黙が続くと、それはそれで気まずいから、桜が何か話を振らなければと口を開いたときだった。
「……さっきは言い過ぎた。悪かった」
と、唐突に鉢屋が謝ったので、桜は始め、それが何のことかわからなかったけれど、すぐに何をしに来たのかわからないと叱られた、あのときのことなのだと思い当たる。
「でもあれは事実ですから……! 鉢屋先輩が気にされることじゃありません」
すぐに桜は否定するが、鉢屋は首を横に振ると、それをさらに打ち消すように言う。
「さっきも桜はそう言ってたが、それが事実であっても、忍術を習い始めて間もないお前がそこまで気に病むことじゃない。……あれは完全に、私の八つ当たりだ」
城に忍び込んだのも初めてなのだから、失敗ばかりでも当然だという鉢屋に反論しようとしていた桜は、最後の言葉に完全に意識を奪われた。

何かを失敗したわけでもないのに、鉢屋が八つ当たりをする理由がわからなかったのだ。
確かにあのときの鉢屋は機嫌がよさそうには見えなかったが、何かあったのだろうか。
聞いてみようか迷って、桜が目の前の顔をジッと見つめていると、鉢屋の耳が赤く染まるのがわかり、さらに苦笑されてしまった。
「そんなに見つめられると照れるんだが」
いつも通りの軽い物言いに、桜はつい笑ってしまった。
「照れるくらいならいいんじゃありません?」
差し支えないだろうとばかりに言えば、鉢屋は不服そうにしてみせながらも、声を立てて笑っていた。


くの一長屋には滅多に男子が入れないので、部屋に人を入れたのは鉢屋で二人目になる。
中まで送ってくれるというので、お願いしたのだ。
鉢屋は桜を一旦下ろすと、わざわざ布団まで敷き、改めてその上に移動させてくれたりして、こんなに甲斐甲斐しい人だったっけかと思えるくらいだった。

去り際、鉢屋がふと何かに気づき、足を止めた。
「……どうかされました?」
鉢屋の視線をたどるが、そこに気になるものがあるとも思えずに聞けば、扇子、と鉢屋の口からは小さな言葉がもれた。
桜が持っている扇子は一つしかないし、しかもその扇子は、棚の上に広げるようにして飾ってあった。
それは雑渡にもらったものだからいつでもよく見えるように、という理由からだったが、その扇子がどうかしたのだろうか。



[*前へ] [次へ#]

54/120ページ


ALICE+