08



見た目だけで言うなら、間違いなく桜は美人なのだろうが、本当によくいままで耳に入って来なかったものだと、鉢屋は改めてしみじみ思う。
誰かしら話の種にしていそうなものなのに、全くもって聞いたこともなかったから、それがいまだに謎だった。

「……部屋に戻らなくていいんですか?」
空を見上げたまま動かない桜に思わずそう言ってしまったが、このパターンはまるきりさっきと一緒だったから、返される言葉に見当がついて、鉢屋は寄りかかっていた廊下の柱から体を起こす。
しかし、振り返った桜から出たのは思ってもみなかった言葉だった。
「あたしのことは気にせず、鉢屋くんが先に戻るといいわ。いつまでもここにいるのは、体に毒よ?」
鉢屋はいわば風呂上がりに近いから、風邪を引くと言いたいのだろうか。
寝衣だけしか着ていないとはいえ、首に下げた手拭いは肩に羽織れば、それなりに暖かかった。
髪もまとめてはいるが、結い上げてはいないから首も涼しくないし、心配されるほどではなかった。

「心配無用です。もうしばらくしたら戻りますから」
さっきまではもう少し月を見ているつもりだったけれど、いまは桜より早く引き上げられないと思ったから、鉢屋はそれだけ口にする。
桜がもうしばらくここにいると言い出すかもしれなかったから、先手を打ったつもりだった。
「じゃあ、あたしはもう戻ることにするわ」
思ったよりすんなりと桜が言うので、鉢屋は拍子抜けする。
しかも、じゃあ、と言われたことが引っ掛かる。
鉢屋がここに残ると言うなら自分は帰る、という意味で使われたじゃあ、のようで、気になった。

質問をしようか迷うが、桜がすぐに歩き出したのを見ると、鉢屋はその後を追いかけた。
「くの一長屋までお送りしますよ」
わざわざ、そんなことを言うために追いかけたわけではないのに、思わず出た言葉に、鉢屋自身が驚いた。
女の子とはいえ、桜は六年生なのだし、暗闇なんて慣れたものだと思うし、ここで危険なことなどないと鉢屋自身もよくわかっている。
もしあったとしても、桜は回避する術を持っているはずで、それくらいは予想もつく。
だからなぜ、自分がそう言ってしまったのかはわからないが、桜を送ったほうがいいんじゃないかと思えたのだ。

桜は少しびっくりしたような顔をしていたが、やがて表情を戻すと、ゆるりと口を開いた。
「とんだ男前ね? ここで遠慮するのは、失礼な行為になるのかしら」



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