今日のためにクッキーなど焼いていた自分が馬鹿らしくなる。
隣で読書に勤しんでいる男に向けて嫌味たらしく息を吐いてやるが、当の本人は気にもかけていないように白地を覆いつくす文字の羅列を追うばかり。
こちらに視線の一つすらも寄越さないその姿勢には、さすがの彼女も辟易としてしまった。
「人の家に遊びに来るのにフツー本なんか持ってくる?」
「君の部屋にはマンガしかないじゃないですか」
「そういう意味じゃねーよ」
馬鹿かこの男は。
そもそも前提からして違う。
なぜ人の家に遊びに来るのに読書をすることが前提になっているのだ。
隣からは、未だにぺらりぺらりとページをめくる音が聞こえてくる。
ちらりと隣を除いてみたが、何やら難しそうな内容だ。
とうてい自分には理解できそうもない。
「それ、何の本?」
「『レ・ミゼラブル』」
「どんな話?」
「フランス革命時代の話ですよ。」
なんだそりゃ。
フランス革命などと言われても、興味どころか忌避感しか生まれない。
骸とは文学の話では盛り上がれそうにない―、もとい、彼女は小説などハナから読みはしないのだが。
昨夜、馬鹿みたいに張り切って焼いてしまったアイスボックスクッキーに手を伸ばす。
お気に入りのジノリの皿の上でちょこんと鎮座している彼らの数は一向に減らない。
飲み物はちょくちょく飲んでいるようだが、せっかく頑張って焼いたクッキーの方には、肝心の骸は一切として手をつけていないようであった。
「少しは私とお話しようとか思わないの?」
「は?」
「さっきから本読んでばっかりじゃん。ちょっとはお話しない?」
「…話、といっても。僕は君に私生活に関してペラペラと話すつもりはありませんし、君の馬鹿馬鹿しい日常の話を聞く気もありませんよ。」
にべもなく跳ね返されて、ふつふつと怒りがこみあげる。
こいつ、本当に何のためにうちに来たんだ?
ぐっと拳を握りしめて耐える。
でなければ、掌のクッキーが粉々に砕けてしまいそうだ。
ぼすんぼすんと手近にあるピンク色のクッションを某幼稚園児よろしく殴ってやるが、やはり骸は『れ・みぜら何とか』に夢中だ。
彼女が隣で何をしていようと気にも留めないらしく、中断も間隙もなくぱらぱらと紙をめくる音だけが室内に響く。
速読気味なのか、ずいぶんと読み進めるスピードがはやい。
「むかつくなあ、」
伏し目がちの青と赤のビー玉に、昼下がりの緩い陽光が差し込んでキラキラと反射する。
男のくせにまつげも長いし、本を持つ指も長くてなめらか。色も白い。
女の自分よりも綺麗で頭もよくて、そしてその割に戦闘でも自分は彼に絶対に敵わない。
神から与えられたギフトに満ちてはいるが、決してそれを喜びもせず、ただ斜に構えて世界を屈折してみているのだから、もったいないとも思う。
もう少し明るく生きてみればいいのに。
部屋で黙って本なんか読んでないで、外にでて買い物をするとか、そうでなくても一緒にゲームをするとか。
つらつらと要望だけはとめどなくあふれてゆくが、それも所詮は彼女の小さな世界における狭い価値観でしかない。
価値をはかる基準線のズレは、次第に彼女を眠りの底へと引き込んでゆく。
本を読む骸はきれいだ。しかし、その観察にも飽きを感じれば最後。
結末を知っている映画を無意味に鑑賞する行為に等しい。
うつらうつらと、気が付けば眠りの精が彼女の耳元で甘言を囁きつつあった。
それは、一つには骸が部屋の主である彼女の相手をしないせいであるが、もう一方では、彼女が骸のように読書に価値を見出せないせいでもある。
お互い様といえばそうなのだが、こっくりこっくりと船をこぎ始めた少女の姿には、さすがの骸もページをめくる手を止めた。
「…人を招いておきながら、もてなしもせずに眠るとはどういう了見ですか。」
ゆっくりと呆れたように息を吐くが、睡魔にたぶらかされた彼女はもう話半分程度にしか聞いていないらしく、むにゃむにゃと口元を動かすばかり。
加えて、茶色い瞳はぴっちりと完全に閉じられている。
”昨日は寝たのが遅かったの”。
寝不足だと申し出てきたが、その後に続いた言葉が”ツナの家がまた爆発したから”だったため、信憑性は薄い。
いや、沢田綱吉の自宅が爆発することはそうそう珍しいことではないので、もしかするとまぎれもない事実なのかもしれないが…。
「…どちらにせよ、よく客人の前で眠れますね。」
先ほどまでサンドバッグにしていたピンク色のかわいらしいクッションを胸に抱いて、スカートがめくれてしまうのも構わず、絨毯の上に横になる。
もぞもぞと動いたかと思うと、頭だけを彼の膝によじ登らせて、完全に枕にしてしまったのにはさすがの骸も驚いた。
そっとはしたなくめくれたレースの裾を直してやりながら、ぱたんと本を閉じる。
こういうのは、普通は立場が逆ではないですかねえ。
そんな彼の小さな嫌味も、ついに寝息を立て始めた彼女の耳には届かない。
このまま少しは寝かせてやるか―、
さらさらと手触りのよい髪を梳いてやる。
手の平に馴染む柔らかな感触と、さわやかなシャンプーのような香りが胸に心地よい。
「…涎を垂らしでもしたら、半殺しにしますからね」
いいですね、なまえ。と。
膝の上で惰眠を貪る彼女へ、照れ隠しのような言葉を投げる。
その中途半端な甘さのままに過ぎてゆく午後を、やけに気合の入ったクッキーの甘さで二乗して過ごすことも、たまには悪くない。
先ほどまでは何とはなしに照れ臭く、手を伸ばすことができなかったチョコレートチップの入ったそれをつまむ。
口内に滑り込む甘さとほろ苦いチョコレートに頬が緩んだことには、彼も気が付かないようであった。
(甘い臓器/六道骸)