腎臓を贈ってあげる

ぼんやりと明かりの灯る室内に、蝋の溶けたにおいが充満する。
あまりにここに至るまで時間がかかりすぎた証拠であろう。
マダムの腰かける棺桶に置かれた蝋燭は、もはや蝋が床にまで垂れてしまっている。
その濃密な闇の空気の中、薬品棚のあたりを整理しながら葬儀屋が話を始めた。

「昔からねえ、ちょくちょくいるんだよ。足りない、お客さんがね。」

ぐふっ、と歪な笑みをこぼし、指を組んだ葬儀屋は、どこまでも楽し気である。
薄汚れた薬品の缶をちょいちょいとラベル順に並べ替え始めた彼の背中に名前は視線を巡らせた。
しかし、葬儀屋の銀糸の髪より先に煤けたカウンターに置かれた頭蓋骨と目が合い、気味の悪さに目を逸らす。
一体、この店にはいくつ頭蓋骨があるのだろうか。
更には薬棚の周辺に置かれた人体模型とも目が合って、名前の背に止まることを知らぬ寒気が冷たく通り抜ける。
既に帰りたい気持ちになりつつも、核心に迫りつつあるこの空気の中、逃げ出すわけにはいかない。
ひとまずは、彼の言う”足りない”という話に耳を傾けてみることとした。


「足りない?」
「そう、足りないのさ―『臓器』がね。」



葬儀屋の低くかすれた声が鼓膜を打ち、その身に激震が走る。
臓器、内臓。てっきり名前は右腕だの左足だの、パーツがないものとばかり考えていたが、明かされた真実は想像以上に残虐で、猟奇的である。
ぞっと店内の空気が肌に差すように冷え込む。
しかし、そんな彼らの様子に構うこともなく、葬儀屋は人体模型の頭を優しい手つきで抱え上げ、彼らへと向き直った。

「お客さんには棺で眠る前にキレイになってもらわないとだろう?その時にちょっとだけ検死させてもらうのが小生の趣味でねえ。」

はみだしたものしまったりするついでにね、とやや身の丈にあっていない黒衣の袖で人体模型の顔をふいている彼の唇の端は、美しく歪んでいる。
検死―と言いつつも”いじらせてもらう”といった以上、彼には死体愛好家か何かではないかと疑惑を持たざるを得ない。
名前はついに、居心地の悪さからその身を自らの腕で抱きしめた。
寒い。気温のせいではなく、葬儀屋の怪しい趣味のせいで。
それはマダム・レッドや劉も同じであったのか、茶の入れられたビーカーを青い顔で見ていた。
死体愛好家だか、検死だか、彼の趣味はよく分からないにしても、このビーカーに
人間の腎臓や血液を入れた可能性は否定できない。もとい、むしろその可能性が高い。
既にその茶に口をつけてしまったらしい劉はうぷっ、と吐き気のようなものを催したのか、柔らかそうな中国服の袖口で口元を抑え、絞り出すように話を前進させた。


「皆腎臓が片方ないとか、そういうことかい?だとすると犯人は金融業とか……」


名前の脳裏に映し出されるイメージは、タナカから聞いたジャパニーズヤクザである。
”ジンゾーでもカンゾーでも売り払って金作らんかい!”などと粗野な言葉で借金の取り立てをするそうだが、基本的に支払い能力に困ったことのない名前では、いまいちその腎臓と肝臓を売り払う状況がよく分からない。
しかし、きっとイーストエンドの娼婦たちにはそのような進退に行き詰まる状況がたびたび起こり得るのであろうと、その小さな脳を納得させた。
一度納得してしまえば劉の推論は的を得ているように聞こえたが、答えを知る葬儀屋はにやにやと否の判断を下す。


「窟に住む中国人は考えが物騒だねえ。そういうことじゃない。」


おおコワイコワイ、などと物言わぬ人体模型を抱きしめてみせる。
それにムッとした劉の気持ちもわからないでもないが、ここは話を先に進める必要がある。
ひとまずは、自身の管理する中華街を”窟”呼ばわりされた件は彼も見逃すようであった。


「では、何なのです?まさか、脳みそとか……」
「いーや、それも違うねえ。それは娼婦……、女の子じゃなきゃ持ってないもの。」


口を開いた名前を見定めるように、舐めるような視線を寄越す葬儀屋。
手にしていた人体模型を抱き上げ、”この子もないねえ”と冗談めいた口調でつぶやいた後、彼はひょいっと薬棚の前のカウンターを乗り越えて、彼女へと距離をつめた。

「この中じゃあ……、そうだね、お姉さん、君しか持っていないものだ。」
「わ、わたし…?ですか?」
「そう、君もいつかそれを使うときが来る……、切り裂きジャックに取られてしまわなければ、ね。」

葬儀屋の黒く塗られた長い爪がやや怯え気味の名前の喉を這い、胸を這い、そして下腹部を這う。
そうそう、このあたり……、と彼は何ものかの存在を確認するように下腹部の一点をゆるく圧した。

「子宮がね、ないんだよ」

じとり、と嫌な汗が名前の額をつたう。
それはどうやら弟の方も同じだったらしく、彼も眉根に皺を寄せて葬儀屋の指の先―姉の子宮があるべき場所へと視線をめぐらせていた。


「最近急にそういう「お客」さんが増えてねえ。しかもどんどん血化粧は派手になる。小生も大忙しってワケ。」
「いくら人通りが少ないとはいえ路上で……しかも真夜中となると、的確にその部位を切除するのは素人には難しいのでは?」
「鋭いね執事君。小生もそう考えているんだ。」


葬儀屋の爪が、徐々に名前の薄いグリーンのドレスに覆われた子宮を強く圧迫する。
鋭く、冷たく、よく研がれた刃物のような狂気を帯びたその爪は、セバスチャンと同じく黒く色づいているとはいえ、その本質は全くの別物。
彼のように上品に事を済まそうという気配が全く感じられない。
荒々しく、何もかもを潰してしまおうという狂気が爪先で暗雲のように渦巻いている。
その息苦しさに名前が目を瞑ったその時、はっとしたように彼女の隣でシエルは叫んだ。


「おい!いつまで姉さんに触っている。さっさと離れろ。」
「おやおや、伯爵。小生はお姉さんを傷物にしたりなんてしないから安心おし。」


小生はジャックとは根本が違うからねえ、などと飄々と言った彼は、黒い爪をさっと引っ込め、彼女から離れた。
それにほっと安堵の息をつく。
安心したついでに肩に触れるやや涼しい感覚に気がつけば、いつの間にかセバスチャンがその肩をやんわりと掴んでいた。


「セバスチャン?」
「……失礼いたしました。」

ぱったりと手を離し、ふいと彼女から離れてゆく姿に頭を捻る。
一体なんだったのか。
何の意図があって彼が自身の肩を掴んでいたのか。それが葬儀屋に向かって吠えた弟と同じく、いわゆる「嫉妬」「独占欲」によるものだとは、彼女は知らない。
最も、独占欲とはいえ悪魔の場合は"先に目をつけていた獲物に手を出すな"という意図であって、名前が密かに望むような甘い感情ではないのだが。
しかし、彼女がその執事の僅かながらの嫉妬心に気がつく前に、葬儀屋は標的を姉から弟へと変更した。
それに気をとられた彼女は、すっかりセバスチャンの不可解な行動を忘れて、弟へと心配そうな視線を送る。


「ジャックの手口は残虐だ。」


ズシ、と店の床が軋む。名前から手を離した葬儀屋は、ゆるりゆるりと弟の背後へ回り、喉元とあるはずのない子宮の位置へと手を遣った。
それに名前は眉根を顰めたが、弟の方は特に気にしていないらしい。
不快ではあれ、べたべたと不埒にも姉に触られるよりはマシだと判断したのか、真顔でただ彼の話に耳を傾けている。
それに気をよくした葬儀屋は一層その口元を歪ませ、その残虐な手口を喜々として語ってゆく。


「そうだなぁ、まず……鋭いエモノで首をかき切り、次に腹を切り裂いて、たいせつなものを奪うのさ。」

ここ―、と言いながらシエルの腹をゆっくりと撫でまわす。
葬儀屋の人差し指に嵌められた大きな指輪がごろごろとシエルの服のボタンに当たって乾いた音を立てた。


「『手際の良さ』……それから『ためらいのなさ』から考えてまず素人じゃないね。多分『裏の人間』だ。」


手際の良さ、ためらいのなさ。
どちらも裏の人間でなければ持ち合わせていないものである。
一般人は当然ながらそうであるが、軍人であっても手際よく子宮のみを取り出すことなど不可能。
軍人や戦争経験者であれば人命を掠め取ることに確かにためらいはない。
しかし、そうも手際よく殺すことができるかと言われると、否という他ないだろう。
戦場ではそもそも子宮だけを綺麗に取り除いて殺そうなどという思考は働かない。
ふむ、と珍しく真面目な顔で彼女が逡巡している間に、葬儀屋はその黒い爪の先でつんつんとシエルの柔らかな頬をつついている。

「伯爵が来るってわかってたのはそういうことさ。」

つんつんとされるがままにつつかれているシエルは、げっそりとした顔で鬱陶しげに葬儀屋を見ている。
変人め―、という彼の心の声が聞こえるようだ。


「犯人が『裏の人間』の可能性があるなら、必ず君が此処へ召喚されると思った。久しぶりに伯爵に会えるってね。」


つんつんつんつん、どこまでもうれしそうな葬儀屋は、止まることなくシエルの頬をつつき続ける。
しまいには、頬を撫でまわし始めそうな雰囲気を感じ取り、名前は我慢ならずに声をあげた。

「ちょっと!シエルにべたべた触らないでください!」
「おっと、姉弟そろって家族思いだねえ。」


葬儀屋を恐れる気持ちを必死に抑え込み、隣に座るシエルの腕を引っ張り、無理やりに自身の膝の上へ座らせる。
意外にもそのままシエルを手離した葬儀屋は、ヒッヒッヒッ、と小刻みに笑いを浮かべながら、彼女たちから距離をとった。
姉の馬鹿力で膝に座らされたシエルはやや呆れたような瞳を名前に向けているが、葬儀屋から頬をつんつんとつつかれることと姉に膝に座らされることのどちらが屈辱的であるかといえば、まだ姉の膝に座っている方がマシだと考えたらしい。
物申したい気持ちはあるのだろうが、自身の腹に回された姉の手を無理やりに払いのけることはしなかった。
その代わり、と言うべきか。しっかりと膝から降ろすよう要望は口にしたが。


「姉さん、一人で座れます。」
「ああ、ごめんなさいシエル。でもね、別に姉さんは貴方を子供扱いしたわけではないの。本当ですよ。」
「分かっていますよ。」

ひょいっと姉の膝から降り立ち、そのまま棺の上に座ることなく、背後に控えていたセバスチャンにコートの準備をさせる。
もう葬儀屋に用はないらしい。
彼が帰るというのならば、名前もそれに異存はない。
さらに言えば、何度も帰りたいと思っていたところであったので、むしろその弟の行為がうれしくすらあった。


「伯爵、」
「……なんだ、」
「きっとまた殺されるよ。ああいうのはね、誰かが止めるまで止まらないものさ。」

シエルに千鳥格子のコートを着せ終えたセバスチャンが、その忠告を片耳に入れつつ名前に同じく外套を着せようと背後に回る。
彼に持たせていた上等のウールでしつらえられたチェック地のボレロコートがその肩にふわりとかけられた。
ニナの仕立てたそのコートは名前のお気に入りで、暖かく肌触りも柔らかい。
その感触を肩に得ながら、いやに愉しそうに、まるでシエルを挑発するような口ぶりで口元へ細い指を遣った彼の顔をキッと睨みつけた。


「止められるかい?『悪の貴族』ファントムハイヴ伯爵。」


止められるかい?とは、随分な物言いだ。
シエルは、弟は、必ず女王の任務を全うする。
どんな手を使っても、どれほど自分が傷ついたとしても。
きゅう、と胸の下あたりでふわりと広がっているコートの裾を握りしめる。
同時に、洒落たヘイマーケットチェックの柄がぐにゃりと歪んだ。


「裏社会には裏社会のルールがある。理由なく表の人間を殺めず、裏の力を以て侵略しない。」

シエルはこうした裏社会の取り締まりには敏感にして厳格。
決して裏社会の行き過ぎを赦しはしない。
その厳格さが自身の身体に枷を増やしてゆくのだと気が付きながら。
命、ともいえるだろうか。
自身をすり減らしながらこの仕事をこなしてゆく。
そのシエルのきびきびとした声音と決意の秘められた片目に、マダムと劉も厳しい表情を浮かべていた。
彼らとておなじ、裏の勢力を表に出すことを良しとしない人間である。
その中、ただ一人として弟の身を案じて眉を下げる名前に、葬儀屋は一瞥をくれて小さく笑っていた。


「女王の庭を穢すものは我が紋にかけて例外なく排除する。どんな手段を使ってもだ。」


裏の社会など、その力の何がそんなに彼をこうまでけしかけるのか。
願わくば、シエルには光の差す道を歩んでいてほしいのに。
自分も同じだ。
できることならば彼と一緒に毎日ファントム社の売り上げ戦略などで頭をいっぱいにしながら、暖かなひだまりの中で一生を終えていたい。
それがどうやら難しいことであると、この二年ほどで気がついてしまってはいたのだが。


「邪魔したな。葬儀屋。」


漆黒のトレンチコートに身を包んだセバスチャンを横に従えて、シエルが扉から出てゆく。
その先は確かに日の差す外界であるが、それとは正反対に彼が今から進んでゆくのは血に満ちた裏社会の闇だ。
ぎゅう、と再度シワになるほどにコートを握る。
切り裂きジャックがどこの誰だか知りはしないが、この件でもシエルは辛い思いをするに決まっている。
そう思うと、無力な自分が悔しくてたまらない。


「さあ、お暇しましょう。名前」


そっと、網目の手袋に覆われたマダムの手がコートの裾を握る名前のそれをやんわりと解く。
優しく叔母に背を押され、彼女もまやかしの日の差す世界へと、足を踏み出した。




(Book of Jack the ripper Z
/腎臓を贈ってあげる)
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