セバスチャンがふらふらと何やら血走った目で屋敷をうろついている姿を目にした時には大して気にもしなかったが、その数時間後、コンコン!とやや乱暴に自室の扉を叩いて室内に侵入した彼の瞳が赤く染まりきっていたのを見て、彼女は読書の手をとめた。
「セバスチャン?なんです、騒々しいですね……。」
ぱたん、と本を閉じる音に合わせて、セバスチャンの肩がゆららゆらりと揺れる。
息が上がっているのか、眉根を険しく寄せている姿はまるで病人である。
この悪魔に限って体調不良などはないだろうが、珍しく余裕のなさげな彼に、名前も訝しげな視線を向けた。
「どうかしましたか。体調でもお悪いのですか?」
「いえ、少々……、限界が。」
「限界?」
「ええ……ストレスが、」
そこまで聞いて、名前はなるほど、と手を打った。
確かに思い起こしてみれば、今朝から使用人三人組は絶好調であった。
厨房から響く地鳴りに、皿の割れる音、ちらりと窓の外を見れば庭園が枯野と化していたり。
タナカに至っては、つい二時間前までは名前の自室で呑気に茶を飲んでいた。
”お嬢様がしっかり読書をなさるか見張らせていただきます。ほっほ、”などと笑いながら。
これではいくらストレス耐久のある執事といえども、さすがに我慢ならなくなったという
わけだろう。
赤いペルシア絨毯の上にはらりと落ちたセバスチャンの抜け毛を視界に入れて、肩をすくめる。
毛が抜けるほどに辟易しているか―、よく見れば、普段よりもややゲッソリとしているように見えなくもない。
「なるほど。ならいつものように猫ちゃんを愛でにお行きなさいな。」
「それが、」
ここでセバスチャンは言葉を切った。
そうして、耐えられないとでも言うような、この世の終わりを見たような、はたまた愛しい恋人と引き離されたかのような表情を一つ浮かべて、胸に手をやる。
うつむきがちの瞳だけが苦しみを吐き出すように薄暗い赤みを帯びた光を灯している。
はあ、はあ、と全力疾走でもしてきたのかと思い起こさせる肩の上下運動はいまだ治まらぬまま。
何かよほど悲しいことでもあったのかしら、
ソファに深く腰掛けながら普段とは異なる彼の姿を楽しんでいると、ようやっとセバスチャンが薄い唇を開いた。
「いないのです。」
「いない?誰が?」
「”彼女”が。」
「ああ……、貴方が可愛がっている黒猫ちゃんですか。」
彼がシエルに隠れてこっそり黒猫を可愛がっていることは知っている。
午後の勉強から逃れようと窓から外に逃げ出そうとした際に、彼がそれはもう甘ったるい表情で猫と戯れている姿を目撃したのだ。
あの時は、セバスチャンと猫の逢瀬を猫アレルギーのシエルには内緒にする、という条件付きで午後の勉強を見逃してもらった。
厳しい彼が名前の怠慢に目を瞑ったのだ。
相当な猫狂いという他ない。
余談ではあるが、弟と同じく姉の名前も猫アレルギーである。
シエルがくしゃみや咳にアレルギーが出るタイプであるのとは異なり、彼女の場合は皮膚の発赤と目の充血に出るのだが。
どちらにせよ、猫アレルギーの彼らは基本的にはセバスチャンが猫と触れ合うことを禁止こそしないものの、歓迎はしない。
「よかったです。貴方が猫ちゃんと遊んで帰ってくると身体も目もかゆくてかゆくて……。涙も止まらなくなりますし。彼女も私とシエルの身体に気を遣ってくれたのでしょうね。」
「お言葉ですが、私にとってはよくありません。彼女のいない日々など灰色も同然。あの柔らかな肉球をぷにぷにできないなど……」
生きている意味すら危うい、と苦い顔で続けたセバスチャンに、名前は真剣に笑ってしまった。
猫が好きなのも結構だが、外見年齢三十歳前後の男の趣味としては随分と可愛らしいし、猫に対して本気すぎる。
そもそも、彼の口から「肉球」「ぷにぷに」などという言葉が出てきた事自体が、おかしさを助長した。
ふふ、とこらえきれぬ微小をこぼして、名前は先ほどまで読んでいた小説をティーテーブルに置く。
「そう、それは残念でしたね。それで、なぜ私の私室へ?」
問うと、瞬間的にセバスチャンはその胡散臭げな笑みをいっそう深くした。
にっこり。
先ほどまでの憔悴ぶりはどこへやら、今や後光すら差しそうな目映い笑顔を浮かべている。
普段からよそ行きの笑顔は咲き誇る花のように見事であるが、今日のそれは普段よりは三割ほどパワーアップしている。
これには、彼の背後の扉に掘られたレリーフの鳥たちですら笑っているような錯覚を覚えた。
「本日は”彼女”の姿が見えませんので、失礼を承知でお嬢様にぷにぷにさせていただこうかとお願いに参りました。」
「私に?ぷにぷに?」
何のことだかさっぱりわからない様子の名前を意に介すこともなく、セバスチャンは一歩、また一歩と彼女の腰かけるソファへ足音も立てずに近寄る。
ひらりと燕尾の裾が揺れる様すら、その音を潜めるように密やかである。
そうして彼は空気を震わせることなく彼女の足元に跪き、うやうやしく頭を下げた。
「お嬢様はどうかそのままゆっくりなさってください。ほんの数秒で終わりますので。」
「は、はい……?」
「では失礼して―、」
むにゅ。
「?」
むにゅ。
「!?」
むにゅ。
「ちょっ……!え、えっちなのはいけないと思います!!!!」
ばしん!
ためらいもなく振りかざされた彼女の手は、セバスチャンの頬をとらえる前に標的に封じられた。
お嬢様、はしたないですよ。
などと呆れたように言ってのけるが、その執事のもう一方の手は見まごうことなく彼女の胸元に置かれている。
先ほどまでは不躾にその豊かなふくらみを鷲掴んでいたその手を、名前はわなわなと震えながら睨みつけた。
「レ、レディのむ、胸を触るなんて……!」
「ああ、人間の女性の胸はそうそう触ってよいものではありませんでしたね。申し訳ございません。私としたことが、すっかり抜け落ちておりまして……。」
ぽん、と手を叩いてみせるが、その仕草すら彼女を煽りでもしているかのようにわざとらしく感じる。
名前は怒りやら恥ずかしさやらで次第に眼前がぼんやりとし始め、 乱暴に目元を拭った。
「あ、あなたは本当に悪魔だわ!こんな侮辱……、打ち首にしても気が収まらない!」
「打ち首?承知いたしました。すぐにでも用意を……」
「ああもう!準備は結構!言葉の綾です!本当に打ち首にすることを望んでいるわけではありません!」
そもそも、打ち首ごときで死ぬ男ではない。
憤懣冷めやらぬままに、名前はソファに更に深く腰掛けた。
隣に置いておいた紅茶は、この騒ぎの間にすっかり冷たくなってしまっている。
その幾分渋いアールグレイを口に含み、無理やりに自身を落ち着かせるように喉の奥へ流し込んだ。
「な、なにがぷにぷにですか……!適当な理由をつけてこの私に不埒な行為をしようだなんて……!」
「申し訳ございません。あまりにお嬢様のご立派なお身体が”彼女”の肉球の触り心地とそっくりなように思えたものですから……。」
「申し訳ございません、で済んだらヤードはいりません!全くもう、貴方という人はどうしてこう……、重要なところで人間の常識が通じないのですか……!」
「申し訳ございません。お嬢様が望むなら、どのような罰でも。」
どのような罰でも、とは言うが、彼に罰を下そうものならばシエルに事のあらましを全て報告することになる。
セバスチャンは弟には決して嘘をつけない。
馬鹿正直に「姉上の胸を触り、怒りを買ってしまいました。」と報告をするだろう。
そんなことは姉として、弟の健全な成長を祈る者としては絶対に避けたい。
胸だの女体の神秘だの、弟が知るにはまだ早い。
「セバスチャン、この件には目を瞑ります。今後は一切私の身体に触らないでください!」
「Yes,my lady」
ふん、と彼からそっぽを向き、再び中断していた小説を取り上げ、その白い言葉の海に無理矢理に目を落とす。
その様子を彼はくすりと小さく笑って見ていたが、そのうちには扉を開けて”失礼いたしました”と出て行ってしまった。
ぱたん。
軽い音を立てて閉まった扉にちらりと目を向ける。
そこにセバスチャンがいないことを確認して、彼女はずるずると身体を滑らせ、足を投げ出してソファに深く深く寝そべった。
頬が熱い。
手にしていた小説を上に乗せて、顔を覆う。
「……もう、心臓に悪い……。」
細くつぶやいたその声は、既に階下の厨房でアフタヌーンティーの仕込みをしていたセバスチャンに届くはずもない。
自明の理、誰もが認める事実である。
しかし、まさに名前がうだうだと頬を染めて脚をばたつかせている時分、生クリームを泡立てながら彼が無意味に口角をあげたのも、また事実なのであった。
(愛についてのキンゼイ・レポート/sebastian michaelis)