ガラガラと車輪の回る音を聞くのは、今日はこれで四度目だ。
一度目はタウンハウスからリデル邸へ赴いた時、二度目はリデル邸から街屋敷へ帰ってきたとき、そして三度目は葬儀屋の店へ赴いた時。
三度目に車輪の回る音を耳にしたときには御者はセバスチャンであったが、四度目の今回は運転を交代したらしい。
セバスチャンは馬車の室内で涼し気な顔で彼女の隣に座っている。
その代役として、馬車の運転を任されているのはマダム・レッドの執事、グレルである。
悪魔で執事の彼と比べるとやや運転が拙いような気がしないでもないが、人間の馬車操縦の技術であれば至極普通だろう。
可もなく不可もない乗り心地の中、名前はぼうっと先ほど葬儀屋から聞いた情報を脳内で反芻していた。
娼婦、子宮、裏の人間、殺人鬼。
朝方、リデル夫人達から切り裂きジャックの話を聞いた際には、こんなことになるなど予想すらしていなかった。
弟がこんな血で血を洗うような事件に巻き込まれているなど。
それもこれも、ヤードが仕事をしていないせいだ、と憤る気持ちがふつふつと沸いてくる。
連中がしっかり捜査をし、早急に犯人をあげていればシエルにまでお鉢が回ってくることなど無かったのに。
腹の底―、それこそ子宮のあたりで言いようのない憤懣が熱を持ってぐつぐつと煮えている。
その熱い滾りが腹を越え、胸に到達しようかというとき、おもむろにシエルが口を開いた。
「さっきの話で大分絞れるな」
「そうですね……まず『医学・解剖学に精通する者』、その中で『事件発覚前夜にアリバイのない者』。そして臓器などを持ち去っていることから儀式性……『秘密結社や黒魔術に関わる者』も挙げられます。
名前の華麗な責任転嫁ととぐろを巻く怒りなどは知ったことではないと言わんばかりに、シエルは事件の捜査の手を緩めない。
彼の場合、既にスコットランドヤードの捜査能力に期待をしていないということもあるが、さらに言えば、女王の番犬としての矜持の問題でもあろう。
誇り高いシエルはこの仕事を決して厭うてはいない。
面倒だとこぼすことも多々あるが、それでもファントムハイヴ家の当主としてこなすべき仕事である以上、彼は女王の命には忠実である。
それが、例え自身をすり減らすことによって為しえるものであったとしても。
「……。」
何度でも言おう。
名前は姉として、その弟の忠実さと誇り高さが心配でならない。
一番に自分の身を守ることを考えてほしいのに、弟はその姉の過保護さを疎ましく感じている。
基本的に、姉が事件に首を突っ込むことを嫌う弟である。
それもおそらくは姉の身を案じて―、というよりも、単純に名前の杞憂とすらいえる過保護さがうるさいせいであろう。
シエルは子ども扱いをされることを何よりも屈辱と捉える。
もしかすると、姉が存在することすらも彼にとっての枷であるのかもしれない。
以前から薄々と感じていたことではあるが、もしや自分はシエルにとって必要のない存在、ひいては邪魔者なのではないか。
自分など、いないほうが彼にとって幸せなのではないか。
ひんやりと冷たく胸に埋め込まれたその推測は、じわりじわりと彼女を蝕み続けてきた。
一日、一日、と。
シエルがセバスチャンを連れて帰ってきた日から、二年間かけて。
「ちょっと……どこが絞れてんのよ。この社交期に一体どれだけの人が首都に集まってると思うの!?ねえ、名前?」
「えっ、あ、はい……。そうですね。」
唐突に話を振られ、沈みこんだ意識の底から無理やりに引っ張り上げられて名前はびくりと身体を跳ねさせた。
はっ、とすれば、向かいに座ったシエルがじっとりと探るように彼女の赤い瞳の奥を覗いている。
今、まさに弟のことを考えていた。
それも彼に聞かれると一発で嫌われてしまうようなことを。
そのほの暗い後ろめたさが、彼女の赤い視線を弟から逸らさせる。
逸れた先が、隣に座るセバスチャンのコートのボタンであったことが何となく面白くない。
「ほら見なさい。名前もあたしと同じ考えよ。ロンドンの医者だけじゃなくて貴族が地方から連れて来た主治医もいんのよ?ついで医者になってない医大卒業生だっているし。劉みたく鍼を使う渡来人だって人体には詳しいわ。」
叔母の言うことは最もである。
実際問題、子宮を取り去ることならば鍼を使う劉にしても医師である叔母にしても、不可能ではないだろう。
更に言えば、名前もやれるかと言われるとできる気はする。
もっと言えば、セバスチャンのような悪魔や人外ならば造作もないだろう。
実際にセバスチャン以外の悪魔に出会ったことがないので、皆が皆、彼のように優秀なのかどうかは分からないが。
そこまで考えて、すっかり悪魔のいる生活に馴染んでしまった自分に気が付き、自嘲気味な笑みがこぼれる。
何ということか。これまでの自分であれば、悪魔だの神だの、目に見えぬ馬鹿らしい存在を信じてなどいなかったのに。
しかし、悪魔は実在するのだ。
名前の願望とは何も交わらない所で、人外の生き物は世界を回し続けている。
ヒトには決して持ちえぬ力を以て、いとも簡単に、世界の命運を指先の動きで変えてしまう。
「それにあと一週間もしないうちに社交期が終わって主治医は地方に戻ってしまー」
「ではそれまでに調べればよいのです」
唇の端を得意げに上げて、悪魔がほほ笑む。
その美しい微笑を名前は冷めた瞳でちらりと見やった。
「なんだって……?」
「社交期が終わる前に全ての人物尋ね、アリバイを確認すれば済む話です」
「確認すれば済むって……まだ正確な数も分かってないのよ!?」
正確な数は分からずとも、卑しい悪魔は食欲で大まかな魂の数を把握していることだろう。
さめざめと、気分が冷えてゆく。
この男さえいなければ。何度そう思ったことか。
彼がいなければシエルの魂を売る必要などなかった。
彼がいなければシエルは凶悪な事件に足を突っ込む力を持ちえなかった。
彼がいなければ、彼がいなければ、彼がいなければ……!
「おまかせ下さい。」
したり顔で口角をあげる彼の姿すらも憎い。
嫌いではない、しかし憎い。
「ファントムハイヴ家の執事たるもの、これくらい出来なくてどうします?」
そういって彼は、容疑者名簿を作ると主人に宣言し、走り続ける馬車の扉を真顔で開けた。
これには、マダムも劉もびくりと肩を震わせた。
当然である。この速度で走り続ける馬車から落ちれば、重症どころか死ぬ可能性すらある。
しかし、当のセバスチャンは気にする風でもなく御者を務めるグレルに何やら一言二言話しかけ、再びまばゆいばかりの笑顔で室内に向き直った。
「では、失礼いたします。」
しっしっ、と手でセバスチャンを払いのけるポーズをとって見せるシエルに、あんぐりと口を開ける劉とマダム。
それに続い名前も叔母とそろいに赤くそめあげた唇を開いた。
「帰ってこなくても結構ですよ。」
「いいえ、すぐに容疑者名簿を持って帰ります。御心配はご無用ですよ、お嬢様。」
今晩も名前様があまりお酒を召されすぎないよう見張っていなければなりませんし、ね。
そう言い残して、セバスチャンは疾走する馬車から華麗に飛び降りた。
ぱたん、と黒く塗られた扉の閉まる音が大きく室内に響く。
「ちょっと!?この馬車走ってんのよ!?」
大慌てでマダムと劉が窓の外を確認したが、もうセバスチャンの姿は見受けられないだろうと思われた。
あの男の異常な身体能力では、一秒あればとっくに第一容疑者の自宅へ赴いてアリバイの確認をしている頃だろう。
その名前の推測はどうやら大当たりだったらしく、二人はしばらく窓に張り付いてきょろきょろと辺りを見回していたが、信じられないとでもいいたげに声をもらした。
「い……、いない……」
「どうなってるんだい、あの執事君……。」
どうなってるんだい?と言われても。
ぱちりとシエルの目と視線が合う。
実は悪魔だ、など言えるはずもない。
「さあ?彼に興味が無いのでよく知りませんけれど……とっても足が速いのではないでしょうか。」
姉の適当な誤魔化し方に、シエルはにやりと口角をあげた。
もはやあれは足が速いとかいう問題ではない。
それにマダムも同意したのか、”足が速いったって……!”と言いかけたが、執事のグレルがセバスチャンの消えた方向へ熱い視線を向け、ぽっと頬を軽く染めているのを目にして、大急ぎで叫びをあげた。
「ってあんたはちゃんと前見なさい!!ぶつかる!!」
「あ、ハッ、ハイ!!」
すみませ、すみません〜!!
グレルの悲鳴にも似た声が辺りを覆う。
彼が慌てて鞭を振るったせいか、馬たちがの足並みがやや崩れ、更には興奮したのか速度が段々と上がってゆく。
ガラガラガラ!ガシャン!
車輪の回りは激しさを増し、馬の足並みにつられて軽く揺れる。
グラグラと荒い運転を続ける中、シエルは落ちくぼんだ姉の赤い双眸を眺めていた。
先ほどから機嫌が悪いというか、ぼんやりしているというか、温厚な姉にしてはセバスチャンに対してのみだが、言葉に棘がある。
肘をついて窓の外を眺めている姉の髪が、馬車の揺れに任せてふわりと流れる。
何か気に食わないことでもあったのか―。
シエルには何も見当がつかない。
姉の心、弟知らず。
そして、弟がこうして密かに、誰にも気取られぬように姉に気をかけていることも、彼女は知らない。
(不具合/Book of Jack the ripper [)