―火薬の燃える匂い。
すん、と鼻を鳴らして、闇夜の向こうから漂う硝煙の軌跡を辿る。
東北東、この先約2q。
研ぎ澄まされた五感の全てが、現状私たちの持ちうる偵察手段である。
じっと瞳を凝らしていれば、夜とはいえども多少の目は効く。
薄く空中に飛散する煙線の先、かすかに、小さく。
火花のようなものが散っては消えてゆく。
目にしたその視覚情報に、息を殺した。
―前方に銃身の暴発を確認。
更には、ザクザクと土を踏む音と、異国の言葉をかすかに拾い上げ、身が震える。
夜の闇に包まれた静寂だけが頼り。
息すら殺してあたりを窺う。
草木の揺れる音に交じって銃身のぶつかる音がより間近に聞こえて、ぞっと冷気が背筋を滑り落ちた。
「敵襲!Incoming!!」
声帯の奥底から絞り出すように張り上げたそれは、ひどく擦れていた。
未知なる異国人への恐れがそうさせるのか、周囲を包む闇の不自由さがそうさせるのか、
はっきりしたことは何も分からない。
理解できぬままに、背後に控える仲間へまやかしとも言うべき不安定な指令台から指示を飛ばす。
―私が恐れては、すべてが崩れてしまう、
その冷たく背筋を這う焦燥だけが、全身の震えを無理やりに抑え込んだ。
恐怖を見せるな、隙を見せるな、
瞬間的、身体的、心的な空白は落雷の素早さで私たちの命を奪う。
知っているのだ、わたしも、彼女たちも、知っていること。
脳裏に、野に伏した少女たちの虚ろな瞳がめぐる、めぐる。
血のにおいと、死のにおい。
死肉をついばむ鳥の群れ、凶報、侵略、凌辱、捕虜、視界をちらつく死神の鎌、
辱めを受けるくらいならば、自ら人生に幕を引くくらいならば、
英霊として、最前線を守って死ぬ。
「…ッ、死んでもこの前線は保持します!Hold this position!
夜間近接戦闘、準備!Close combat!」
もう残る兵力は当初の半分以下。今日は何人やられるのだろう、誰がやられるのだろう。
胸ポケットに忍ばせた甘いアーモンド菓子が食べて食べて、と主張するようにぞわぞわと蠢く。その胎動を抑え込むように、反射的に胸ポケットを握りしめた。
この菓子を口にして死んだ仲間も多くいる。この菓子を口にして死んだ恩師も多くいる。
甘いはずのそれがもたらしてくれる死も、同じく甘やかなのだろうか。
それを知るはずの仲間も、もういない。
「迎撃します!撃ち方始―、ッ!!」
ぎゅるり。
背後からぞっと伸びたソレに、口元を押さえつけられる。
しまった、そう感じた時にはすでに遅い。
息苦しさに脳が警鐘を鳴らす。
眼前が眩む。
もがく私の腕を抑え込むようにソレが万力で抑え込んだ。
助けも呼べない、動くこともできない。
ぴとりと首筋に当てられた冷たい刃物の感触と目前で散った火花に意識が遠のく。
爆破音がやや遅れて耳に響いて、辺りが瞬時に消しとんだ。
地の底から響くような轟音に紛れて、背後から少女たちの泣き声のような残響が響く。
焦燥に駆られるも、身を拘束されて振り返ることすらできない自分が歯がゆい。
眼前では、いつの間にか轟々と燃え盛る炎が視界の大半を覆った。
赤い赤い炎色の向こう側には、焼け崩れてゆく学び舎の姿。
ふいに大きく響いた崩落の音と共に、学院のアドレスプレートがばらばらと焼け焦げ、頭上に降り注ぐ。
熱された真鍮製のプレートが焼け焦げ、燃えて、ぼんやりと不気味な赤い熱をまとって地にあるものすべてを溶かした。
熱い!熱い!
逃げようともがくも、薄黒いソレは決して私の身体を離しはしない。
じゅう、と肌の灼ける嫌な音とともに、666番地―、獣の数字とも揶揄された真鍮の数字のプレートが晒された内腿で溶けるようにどろりどろりと焼きついてゆく。
痛い!熱い!苦しい!
ふり絞った声も、崩落する学院と銃撃の音にかき消されてしまう。
ステッキやライフルはおろか、胸元の毒薬に手をのばすことすらできない哀れな身の上を嘆く暇すらも与えられない。
一方的な支配の渦に飲み込まれてゆく。
背後に控えていたはずの仲間の気配も一切として感じられない。
暗く深い孤独に引きずりこまれてゆく。
死にたくない、
死にたくない!!
「っ、は…、」
「お目覚めですか。名前お嬢様。」
はっ、と身を起こせば、見慣れた天井の装飾と調度品が眼中に飛び込んできた。
それと同時に、ずくずくと蛇の這うような鈍い感覚が右脚の腿を舐めあげる。
分かっていたことではあるが、そっと薄いレースのネグリジェ越しに患部を摩ると肉がわずかに盛り上がり666の文字をその皮膚に刻んでいるのがはっきりと感じ取ることができた。それと同時に、今は亡き叔母の診察が脳裏を走る。
―その傷は、残念だけれどこの先、何年かかっても消えそうにないわ―
薄い月光の光に照らされて控えめに輝くドレッサーのミラーに映る青白い顔をした自分と目が合って、指先まで冷たい血がすうっと通り抜けた。
ゆめ、ゆめだ。
いつものゆめだ。
何も恐れることはないのだ。
たとえ、この醜い傷跡がこの身に刻み込まれていたとしても。
すべては、5年も前に終わったこと。
そう自分に言い聞かせはするものの、一度失われた彼女の精気はそう簡単に回復するはずもなく。
普段であれば真っ先に噛みつくはずの執事の存在すらも認識していないかのようにカタカタと寝台で震えを抑え込む彼女に、彼の方も小さくため息をついた。
「お嬢様、ご気分がお悪いのでしたらホットミルクでもいかがですか」
身体が温まってよく眠れますよ。
その低い音を鼓膜が拾って、ようやく彼の存在に気が付いたらしい彼女は、やや虚ろ気味な瞳にその黒い悪魔を閉じ込めた。
数秒、ぼうっと言葉もかけずにセバスチャンをただ見ていた彼女だが、突如として赤い瞳に怒りの蝋を小さく燃やし始める。
その灯火が徐々に大きく、激しくなってゆくのを面白そうに見ていた彼は、その赤い瞳をぎらぎらと光らせて憤怒の瞳と醜い脚へと交互に視線を送る。
そこに気づいているのかいないのか、彼女の荒れ狂う濁流は勢いを増すばかりである。
「なぜあなたが私の部屋に?上級使用人とはいえ、こんな夜更けにレディの部屋に
無断で入るなんて、不躾ではありませんか?」
「申し訳ございません。消灯の準備をしておりましたら、お嬢様がひどくうなされておられるようでしたので。メイリンを呼びつける時間すら惜しかったものですから。失礼ながら私が御様子をうかがいに参りました。」
どの口が言うか。
じとりと恨みがましい目を向けてやる。
まさか、この男に限って彼女の身を案じていたわけでもあるまい。
おそらくは、名前が死んでいるのではないかと期待をして室内を覗き込んだのだ。
いざとあらば、以前より欲していたその肉体と、物のついでに魂もいただいてしまおうと。
しかし、当の本人はその黒い腹の内を一切として表情には出さない。
いけしゃあしゃあと笑みを深くする男に、いらだちが募る。
普段であればさらに反撃を加えるところではあるが、夢見が悪かったせいかこれ以上は彼の相手をする力もその身には備わらなかった。
「…もう、いいです。ホットミルクも結構ですから。
貴方もはやくお休みになってください。」
「おや、お嬢様もご存知でしょう?私に睡眠は必要ありません。」
「…わからない人ですね。さっさと部屋から出て行ってほしいのです。
一人にしてください。」
ずきんずきん、と呪いの数字はその白い脚を蝕み続ける。
少しずつ肉をこそげ落とされるような、少しずつ業火にさいなまれるような、悪質な痛み。
とうにその傷口は癒えたはずだが、あの日々の夢を見た日には必ずと言っていいほど焼き切れた患部はその存在を大きく口を開けて主張を始める。
これも、戦場で彼女が犯した罪の代償であろうか。
人間としてあるまじきことを、何よりも大切な学友たちと多く重ねてきた。
きっと神は、彼女たちに恩赦を下すことはない。
覚悟こそしてはいるが、彼女にはその罪が今は何よりも恐ろしい。
その罪が愛する弟に露見する、その日が。
「…お嬢様は、いつも大変良い香りがいたします。」
「え?」
「血と硝煙のにおい。貴女に出会ったその時から、ずっと。」
唐突な発言の後、深い紅茶色の彼の瞳がじわりじわりと赤い輝きを見せる。
それが、深く彼女が懸命に埋めてきた秘密を探るように射止めて、居心地の悪さから目をそらした。
それに気を良くしたのか、執事は近寄りこそしなかったが、そのよく通る声で彼女の鼓膜へ追撃をかける。いつも非の打ちどころのない笑みを浮かべる薄い唇が歪に口角をあげる。
それが、彼女に死を宣告するカウントダウン。
悪魔は決して獲物を逃しはしない。
「その隠された右脚の美しい刻印も、私が知らぬとお思いで?」
ひやり。心臓が冷える。
知られているとは微塵も考えていなかった彼女の甘さが招いた結果ではあるが、カタカタと止まったはずの指先が震え出す。
同時に、醜悪の極みである666―、獣の数字が激しく、レースの檻を食い破る勢いで暴れはじめ、その痛みに眉根を寄せた。
にこりと怪しい笑みを浮かべ、ベッドサイドに近寄る彼の影にも気を回すことができぬほどの、鈍色の痛み。
完全に塞がったはずの傷口が血をもとめてぱくりと開くような感覚がした。
「メイリンから報告を受けております。お嬢様の脚に大層お美しい…、悪魔の数字の傷があると。」
くすり。これ以上ないくらいに楽しそうに笑って、その彼女が身を横たえる寝台の側に膝を着く。
彼女はたいへん心配しておりましたよ。お嬢様の身体に痛々しい傷があると。
メイリン”は”心配していたとしても、この男に限っては別である。
どういたぶってやろうか…。そんな悪魔の本音がちらりちらりと、その犬歯と共に見え隠れする。
そのセバスチャンの慇懃無礼な様に怒りこそ燃え上がるが、それも瞬時に冷や汗によって零度まで落とされてしまう。
難解なパズルのように解き明かすことのできない入り組んだ感情は、当の本人をしても持て余すほかなかった。
「シエル…、シエルには、」
「ご安心ください。坊ちゃんにはまだ何も申し上げておりません。」
「…、」
お嬢様から漂う硝煙の香りについても、”まだ”、何も。
つまるところ、いつかはこの醜い彼女の肉体と過去を暴いて主人に報告する、という宣戦布告であろう。
一見して穏やかなようにも見えるが、口角からは未だわずかに犬歯がそのまがまがしい妖気を見せたまま。
跪いた姿勢ではあれ、その白い手袋の中ではシエルに施した契約印と同じ文様が今か今かと彼女の脚を引きちぎろうと蠢いているに違いない。
この一種の第六感の針の先のような鋭さも、5年前の経験で培われたものだとは、なんとも皮肉な話である。
いまだ震える掌を無理やりに握りしめ、ふっ、と息を吐いた。
「…あなたは、地獄を見たことがありますか。」
「地獄、でございますか?」
「はい。人間の生み出した…最も醜悪な地獄です。」
地獄、という表現が正しいかどうかは分からない。
痛む腿をゆっくりとさすりながら、思考する。
しかし彼女が目にしたその光景は、そのボキャブラリーを端から端までかき集めても、”地獄”という言葉が何よりも合致するような気がしていた。
魔犬も悪魔も門番も、何一つとして存在していなかったが、ヒトという生き物が意味もなく命を散らし、陰鬱な言葉を吐き出し、土を食べ地を這いずり回る様は、確かに地獄だ。
その中を、彼女は生き抜いてきた。時に学友を見送り、時に恩師を見送り、時に異国からやってきた侵略者を屠り、土も血も死肉も食って生きた。
負傷しても、醜い悪魔の数字が焼き付いたとしても。
何としても、生に縋りついた。
灼けつくような渇きの中で、何を失っても、生きることだけを考えていた。
「貴方に分かりますか。命を手にかけるその恐ろしさが。」
「貴方に分かりますか。硝煙の中を駆け回り友の亡骸を回収する虚しさが。」
「貴方に分かりますか。生を掴むことの苦しさが。」
その間、セバスチャンはただ黙ったまま、彼女の淀んだ声に耳を傾けていた。
思案げな表情を崩すことなく、白い手袋に覆われた細長い指を顎に寄せて、じっと。
薄く輝く満月だけが、室内を緩やかに照らす光源である。
生ぬるい夜風が磨き上げられた窓を辿って、煤けた蛇行線がひっそりと刻まれる。
そうして無言の時間が永遠となりかけた時、彼女の方が先に唇を開いた。
「…貴方にこんなことを言っても仕方がありませんね。ごめんなさい。忘れてください。ただ、シエルには―、シエルには、こんな醜悪な話をしたくないのです。裏社会の汚れ仕事をしているとは言っても…、あの子はまだ幼い。だから私の傷のことは、」
「左様でございますか。……おや、もうこんなお時間ですね。お嬢様、これ以上は明日に響きます。それでは、お休みなさいませ。」
彼女のその言葉を聞いて、そっと、燕尾の裾を翻してセバスチャンが寝台を離れる。
そのやや長い前髪がゆるりと揺れたのを確認したときには、彼はもう闇の中に溶けて消えてしまっていた。
悪魔など、やはり身近におくべきではない。
去っていった執事の後ろ姿を探すように暗闇に視線を巡らせて、一つ満ち足りぬ気持ちを吐き出した。
ずきんずきんと蛇がうねるように痛むその傷跡も、ただただ晒され、暴かれてしまった。
愛する弟に露見したら、という仮定の痛みは依然として彼女を苦しめ続ける。
彼はシエルに嘘をつくことはできない。弟がこの件について問うたら、いや、問わずとも。シエルに話してしまうかもしれない。
結局彼は、”シエルにはこの話をしない”と約束をしてくれなかった。
―忠実な犬の振りをしながら、あの男はシエルが傷つくことを平気でやってのける。
それが魂を熟成させることにつながるのかどうかは彼女には皆目見当もつかなかったが、きっと、そういうことなのだろう。
しかし、ふと寝台の横に設えられたサイドテーブルからふんわりと芳しいフルーツの香りがしたのには、苛まれる彼女も目を瞠るしかなかった。
「…余計なことを」
置いたはずのないワイングラス。
その透き通るグラスの円の内側には、たっぷりと葡萄色のしずくが注がれていた。
「こういうことをするから…、嫌いになれないのです。」
なんて憎らしいの。
そう言いつつも、華奢なグラスの脚をそっと持ち上げる。
やや色をなくした唇と透明の淵の接着点から体内へと流れた葡萄酒がゆっくりと、ありとあらゆる痛みを麻痺させてゆく。
それがもたらした安眠の効果には、幾分彼女の贔屓目があろうが。
だとしても。
その夜、そのしずくを喉に流し込んだ彼女が、朝が訪れるまで悪夢と痛覚に魘されることが無かったのは、紛れもない事実なのである。
(屍の味を知っているか/Sebastian michaelis)