パレ・ロワイヤルの人間嫌いT
基本的に、かわいい弟はよほどの事がない限りは外出はしない。
そもそもがシエルは人嫌いであるし、同時に混雑も嫌う。
タナカに聞けば、日本にはシエルの屋敷篭り癖を百倍ほど悪化させた人種ーHIKIKOMORIというのだそうだがーがいるらしい。
彼らHIKIKOMORIは極端に人との接触を断ち、時には母親など家族との会話すらも厭うという。
しかも、彼らは自室に引きこもってゲームをしたり本を読んで過ごすというのだから、名前は密かに危機感を抱いていた。
何と言うことか。
ゲームをしたり本を読んだり、とは普段のシエルの過ごし方そのものではないか。
これはシエルがセバスチャンや自分との会話すら面倒くさがるようになったり、必要に迫られても外出を渋るようになったら本格的に危険サインだと思っていたが、その心配も杞憂であるようであった。

今朝方、朝食の席で彼から「リジーと出掛ける」と聞き、心底ほっとしたものだ。
タナカには散々脅かされたが、シエルも婚約者とのデートを厭うほど落ちてはいない。
ほっとした気持ちを暖かいハーブティーで流しこんで、名前はセバスチャンを連れて出掛けたシエルの背中を見送った。



「ほらね、タナカ。婚約者から誘われたデートを断らないシエルはやはり英国紳士の鑑です。HIKIKOMORIなんて、危惧するまでもありませんよ。」


ほっほ、リアル化していないタナカも湯のみで茶を啜って微笑んでいる。
その穏やかな彼の様子に癒されて、名前も久々にセバスチャンのいない休日を堪能すべく本を取り出した。
どうせあの厄介な執事もシエルの帰宅までは帰ってこない。
朝食の席では奴の用意した腰の引き締まったドレスをきっちりと着込んでいたが、窮屈なそれを脱ぎ捨ててラフなエプロンドレスに着替えてしまおうか。
それともバルドと一緒に酒盛りでもしてしまおうか。
シエルのHIKIKOMORI化に対する危機感も春の日だまりに溶かされた氷のように、今はもう跡形もない。
すっかり安心しきってしまった名前は、麗らかな陽気を嬉しそうに目を細めて眺めていた。
今日はきっといい日になる、と確信しながら。





 結局、名前の一日は、終始心穏やかに過ぎ去っていった。
シエルとセバスチャンが出掛けてすぐ、自室に戻ってメイリンに着替えを手伝ってもらい、お気に入りのゆったりとした赤いワンピースドレスに着替え、上から白いレースのエプロンピナフォアを羽織った。
コルセットを外すだけでとてつもない解放感である。
それから自由になった身体をゆったりとソファに寝そべらせ、最近お気に入りのハーブティーを片手にだらだらと叔母の残した医学書などを流し読みしていたら、もう昼過ぎ。
(どうもセバスチャンが作り置きしておいたらしい)昼食の後は暇そうにしているバルドを誘ってワインを一本開け、石頭の執事が帰ってくる前に二人で証拠隠滅工作をして酒盛りの跡を念入りに消した。
そうこうしていたらもう夕時である。
同じくラフな格好をしていたことを隠すため、またもやメイリンに手伝ってもらって朝食時に着ていたやや窮屈なドレスに着替え、充実した一日を過ごしたはずの愛おしい弟の帰りを待っていた。
のだが。


「えーと、あの、何があったのですか?」
「私がついていながら申し訳ございません。」 


帰ってくるなり、シエルは誰とも口を利かずに自室へ戻っていった。
サルーンで出迎えた名前に一瞥もくれず、足早に去ってゆく。
あますところもなく不機嫌オーラを醸し出していたにも関わらず、ちらりと垣間見えたシエルの横顔がずいぶんと気落ちしているように見えた気がする。
心なしか、シルクハットの縁に巻かれていた青いリボンの裾すらもしょげてひしゃげているような。
普段からやや気怠げで気難しい雰囲気の弟ではあるが、あそこまで眉根を下げている姿は見たことがない。
その表情と雰囲気の違和感に、何かあったのだと瞬時に察した名前は、同行していたセバスチャンの方へくるりと振り返った。


「何があったのです?リジーとケンカでも?」
「さすがはお嬢様、ご名答でございます。」
「まあ、珍しい……。あの子たちがケンカなんて。」

何気なく口にした言葉であるが、シエルとリジーがケンカとは珍しい。
そもそもシエルはリジーの押しに弱い上、彼女と言い争う気力もそう持ち合わせていない。
リジーにしても、基本的にシエルへの恋心に盲目であるし彼の判断に不服を見せることもないので、彼らはケンカとは程遠い組み合わせであるのだが。
時刻は既に夕暮れ、空は薄ぼんやりと地平線に夕日を落としつつある。
パチン、と執事は愛用している懐中時計で時刻を確認し、にこりと名前へ向き直った。


「お嬢様、先にディナーにいたしましょう。本日のお二人の件はお夕食の席でお話いたします。」


さあ、と彼にゆるくエスコートされてダイニングへ向かうも彼女の憂いは晴れないまま。
可愛い弟とその婚約者の仲たがいともあれば、姉として気にかけるのは当然である。


かつんかつん、あまりスタイルが良くないのを気にして履いている踵の高い靴が大理石の床を叩く。
ヒールの部分に造花の薔薇の花と蔓があしらわれた赤いパンプスは、いつだったかエリザベスとロンドンへ出掛けた折に一目惚れをして購入したものだ。
"きゃあ!名前お姉様、とってもお似合いだわ!"
白く小さな手を組んで、きらきらとエメラルドの瞳を輝かせていた姿がぼんやりと頭に浮かぶ。
そういえばあの子はシエルの身長を追い越さないように、いつも踵の低い靴を履いていたー、
脳裏に浮かぶ彼女の姿が蜃気楼のように揺れて、憂い顔で子供っぽい靴を履いた姿に移り変わる。
あの年頃の女の子だ。
きっとヒールの高い靴を履いて、気取って街を歩きたい盛りだろうに。
かくいう自分もリジーと同じ年のころは女学校にいたが、学友たちとヒールの高い靴を履いたり、大人っぽいドレスを着たりと、何かと背伸びをしたかった記憶がはっきりと残っている。
その欲求をシエルのためだけに押し止めて、なんと健気な娘であろうか。
そう思えば思うほどに、あのリジーがシエルと仲違いをしたとは悲しく切ない話であった。





「今日はどうしたのです?あの子たちだけでなく、貴方もおかしいですよ?」


シミ一つない純白のテーブルクロスを下敷きに、ほかほかと湯気をくゆらせて晩餐が主の口に入るのを今か今かと待っている。
本日のディナーは前菜のリエットとバゲットに始まり、メインにはラングスティーヌのロースト、デザートはガトー・ド・サヴォア。
全体として普段とは違ってフレンチ流に仕上げられた晩餐に名前は目を瞠った。
隣でにこにこと人畜無害(そう)な微笑みを見せるセバスチャンは、無言で手長エビの皮を剥き、彼女の皿に取り寄せた。
ふわりと海の香と、香ばしいソースの勲香が鼻孔を優しくくすぐる。
悔しいが、やはりこの男の料理の腕は一流である。
ローストされたエビを一口大に切り分けて、口へと運んだ。


「お味はいかがでしょうか?」
「っ、まあまあ、ですね」


嘘だ。
まあまあどころの騒ぎではない。
香りはもちろんのこと、ぷりぷりとしたラングスティーヌの身が口当たりのよいソースと共に口葢を跳ね返してきて、危うく昇天するところであった。
もぐもぐと、無言のままにメインを消化し続ける。



「お気に召していただけたようで、何よりです。」


さらりと美しい笑みを流してみせる彼に、官能的な料理を口に運びながら名前は頬を赤くしたが、それと同時にやや不信感も覚えていた。
普段、セバスチャンはフランス料理は滅多に作らない。
そもそも、シエルがフランス料理をそう好まないのだ。
嫌いではないようだが、彼はいやに豪奢なフランス料理よりは質実な英国流を好む。
10歳から15歳までの5年間をフランスの女学校で過ごした名前は、料理から紅茶、ドレスと何から何までフランス流を好むが、この家で1番の権力者であるシエルに逆らってまで晩餐をフランス料理にしたいとは思わない。
そしてセバスチャンも、本心では手のかかるフランス料理を面倒くさがっているらしく、主が好まないにも関わらずわざわざ作る気もないようであった。
それが、今日は前菜からメイン、デザートに至るまで、食材まで抜かりなく自由と平等の国のもので仕上げてきた。
まるで、彼女の機嫌取りでもするように。
むう、と不信感丸出しで彼の紅茶色の瞳を睨みつける。
すると、セバスチャンはまた更に優しく微笑んで、名前が愛用しているワイングラスを卓に置いた。


「さあ、お嬢様。本日はラングスティーヌとスイーツに合わせてモンラッシェをご用意いたしました。」


その一言で、名前は目の色を変えた。
モンラッシェ!
ブルゴーニュの名醸造地の中でも、白ワインに関しては他の追随を許さぬ世界最高峰のワインである。
白ワインのプリンセス、などと呼ぶ者もいるほどで、香り高いシャルドネの風味はどんな人間であろうとも一瞬で虜にしてしまう。
きゅぽん、と軽い音をたててコルクが抜かれる。
その瞬間、シャルドネの芳醇な香りが暴発するようにボトルの注ぎ口から溢れ出した。
流れ出る美しい白葡萄が彼女の鼻孔をくすぐる。
上等のガラス製のボトルがセバスチャンの手によって支えられ、プリンセスの白い雫が静かにグラスに注がれた。
その様をうっとりと、夢見るようにとろんと惚けた瞳で見ていた名前だが、ほんの一瞬、ワインを注ぐセバスチャンがにやりと犬歯を見せたのに、ハッ、と身を正した。


「そういえば、まだシエルとリジーの仲違いについて聞いていませんね。何があったのか説明してくださいますか?」


キッ、と先ほどとはうって変わって鋭い目つきで己を睨みつける姿に、セバスチャンは内心で舌打ちをした。
さすがに腐っても伯爵家令嬢。
夕食のメニューやワインで気を逸らせるほど甘くはない。
仕方がない、とセバスチャンは気が進まないながらも口を開いた。



「端的に申し上げますと、坊ちゃんが他の女性に目移りをしていた、とエリザベス様がお怒りになられまして。」

「シエルが?他の子に?まさか、リジーの勘違いでしょう?」



だいたい、シエルは街中で女性を目で追うようなタイプではない。
おそらくシエルが思わず目で追ってしまうとすればそれはリジーだけ。
何だかんだと言いながら、可愛い弟がリジーに密かに好意を寄せていることは承知している。
それ故に、名前はリジーが恐れているような事態は決して起こらないと確信していた。
それにセバスチャンも同意とばかりに頷く。



「ええ、おそらくは。しかし、今回はどうもエリザベス様の憂いがお深くていらっしゃったようで……。」
「ああ……。」



何となく予測はつく。
きっとリジーが何度も同じ話を蒸し返すので、シエルも段々とイライラし、その結果が衝突というわけだろう。
一口、エビの副菜として添えられた野菜を口にして、名前はぎろりとセバスチャンを睨みつけた。
段々と読めてきたのだ。
普段ならうまくいっている二人が今日に限ってケンカ、フランス流の晩餐、いやに優しいセバスチャンの態度。



「で、貴方はその時何をしていたのです?」



平素ならば、この完璧を求める執事は主人とその婚約者のフォロー回りまで常に完璧である。
正直な話、イライラしやすいシエルとやや執拗な部分のあるエリザベスがケンカ一つないのは、彼のフォローのお陰という面もなくはない。
ということは、今日はセバスチャンのフォローが完璧ではなかった、
もしくはそもそもフォロー自体を放棄していた。
そして、それが弟たちに過保護な彼女にバレては面倒だと、やたらと機嫌を取るようにディナーとワインを振る舞い、必要以上にこちらに微笑んでみせたのだろう。
じと、と黒一色で纏められた彼を恨めしげに見上げる。
この悪魔、何と姑息な手段を使うことだろうか。
確かに彼は嘘をつかない、偽装工作をしない、隠蔽もしない。
シエルに対しては。
それは裏を返せば、名前には嘘も偽装も隠蔽もし放題だということ。
小賢しいマネをー、
怒りを発散するべく白いテーブルクロスの上にトントンと指を振り下ろす。
しかし、そのセバスチャンの「小賢しいマネ」にうっかりときめいていたのも事実である。
それが余計に悔しかった。



「申し訳ございませんでした。街で見掛けたあまりの美人に私も気が逸れてしまい……。」




名前の小言を遮るように先制して執事が膝を折り、頭を垂れる。
美人、などと。
どうせ猫の話に決まっている。
座っている自分の目線よりもかなり低くなった彼の頭頂部目掛けてワインを流してやりたい気持ちに駆られたが、勿体ないとすんでのところで思い留まった。



「済んでしまったことです。仕方ありません。ですが!これがケンカですんだから良かったもののー、貴方がシエルから目を離して、その隙にあの子が誘拐でもされたらどうします!?猫好きも結構ですけれど、自重が必要でしょう!重々、その失態を胸に刻んで反省なさい。」



御意、と跪いたままのセバスチャンが形だけの謝罪を述べる。
そう、形だけだ。
どうせ内心では、マヌケにも彼の仕掛けた罠にかかって喜んでいた彼女の姿を思い返して嘲笑しているに違いない。
ふん、と腹の立つ顔をした男から目を離し、卓上の料理に視線を移し替える。
セバスチャンには殺意すら覚えるが、料理に罪はない。



どうやらある程度は怒りの矛を収めようと努力しているらしい雰囲気を感じ取り、黙々と自身の好物を胃に放り込んでゆく名前の給仕を続けるため、セバスチャンも立ち上がる。
エビはあらかた片付けたらしく、デザートに手をつけはじめた彼女がサヴォアの一片をラズベリーのジャムと共に口にした瞬間、によ、と抑えられぬように口角が上がってしまったのを目ざとく発見し、彼もまた笑みを深くした。
なんてことはない。
多少は頭が回るお嬢様だが、所詮は恋とスイーツとワインには逆らえぬ乙女であると。




もぐもぐとサヴォアと白ワインを交互に楽しんでいるうちに、名前の機嫌は上々に出来上がってゆく。
もともと、このサヴォアという菓子は白ワインとの相性が抜群で、名前がこの組み合わせを嫌うはずがないのだ。
先程まではムッとしたように黙り込んでいた彼女であったが、甘い菓子と香り高いワインに気が和らいだらしく、幾分穏やかな顔でセバスチャンに口を開いた。



「それはそうと、シエルはどうしたのです?帰ってからずーっと部屋に篭ったままで。あの子の夕食は?」

「それが、お部屋の向こうからディナーがご用意できた旨を申し上げたのですが、一向にお返事を頂けませんでしたので、後でお部屋にお持ちしようかと。」




ぽろり。
銀のフォークが彼女の白い手から滑り落ち、床に墜落して乾いた音を立てる。
おや、とすかさずセバスチャンが銀器を拾い上げ、その紅茶色の瞳で落とし主を見遣ると、彼女はさあっと血の気を無くし、唇はやや震えていた。
一体何を恐れている?と訝る暇もなく、名前が声を漏らす。



「シエルが呼びかけに答えない?」
「ええ、何度かノックもいたしましたが、お返事は頂けませんでした。」



ふらふら、突然貧血にでもなったように名前は目の前が真っ暗になるような気がした。
ぐらり、頭が背後へ反れて、ダイニングチェアの背もたれに後頭部を預ける。
背もたれに施された繊細な金の装飾の冷たさがガンガンと頭に響いた。


シエルが部屋に篭りきりで執事の呼びかけにも応じない!
脳裏をタナカのほっ、ほっ、ほっという笑い声が駆け巡る。
ーお嬢様、お気をつけください。日本にはHIKIKOMORIという病がありまして、
ー強いショックやよほど落ち込むと、人間だれしも人に会いたくなくなるものですが、
ー坊ちゃんなどは特に、普段から外出は控えめでいらしゃいますから、
すうっと純金の装飾との接着部から頭が冷えてゆく。
まさか、そんな、
今朝方安心したばかりだったのに。
ガシリ、黒いタイを引っつかんでセバスチャンを引き寄せる。
丁寧に洗濯されたピンタックシャツの衿元(というよりもはや胸倉)を掴み、名前は小さく呻きを上げた。



「お嬢様?いかがなされました?」
「ああ……セバスチャン、どうしましょう!」
「は、?」
「貴方の呼びかけにも応えないなんてー、このままではシエルがHIKIKOMORIになってしまいます!」



え、?
何を言っているのか理解できない、といった顔で執事は眉をひそめる。
しかし、その胸に縋り付いてあわあわと慌てている彼女には一大事なのである。
リジーとケンカしたことをきっかけにシエルがHIKIKOMORIになったら、
セバスチャンだけでなく自分とも口を利いてくれなくなったら、
思考はどんどんとマイナスの極値へ落ちてゆく。
これは早いうちにシエルと話をしてリジーと仲直りをさせなければ。
決意顔で頷くも、相変わらず執事だけは事情がよく飲み込めていない。
しかし自身の胸元で何やら気落ちしている様子の彼女を抱えて、ふう、と嘆息した。
せっかく私が仕掛けた罠でご機嫌を取ったのに、



「意味がなかったようですね……。」



窓の外では、月がその静かな光を控えめに注ぎはじめている。
結局、穏やかに終えられそうにないファントムハイヴ邸の一夜はどこまでも深く、彼女の焦燥と執事の失望を煽るのであった。




(パレ・ロワイヤルの人間嫌い T/sebastian michaelis ciel phantomhive)
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