あれから小一時間ほどの奮闘を経て、彼らを乗せた馬車はファントムハイヴ邸の車寄せへと停車した。
おおよそ三倍ほどは遠回りをしたであろうか。
馬車のステップを降りる途中に馬達の様子を見てみると、どの馬もげっそりとしているようにしか見えなかった。
名前の前では、"腰痛いよ〜"と劉がトントンと腰を拳で摩っている。
「はあ〜あ、やっとついたねぇ」
「グレルが道間違えるからエライ遠回りしちゃったじゃない!」
目を吊り上げ、鬼の形相で怒りを露にするマダムに、グレルがびくりと肩を震わせる。
馬車のステップの最後の一段を降る名前の手をとってエスコートしながら、もはや聞き飽きつつある謝罪を繰り返した。
へこへこと頭を垂れる様などは、首ふり人形のようにも見える。
どうも頼りない執事だと思いながらも、何気なく一応は淑女である彼女をエスコートする姿勢には好感を抱いた。
セバスチャンのように完璧ではないが、それだけに彼とは違って人間らしい優しさがある。
普段からセバスチャンのどこか冷めた視線を見慣れている名前には、この失敗だらけの執事の温かさは心地好いものであった。
叔母はどうも彼の失敗には厳しいようではあるが。
主人が未だご立腹らしい様子を目にして、グレルは俯きがちに落ち込んでしまっている。
ずーん、と気の落ちる音すら聞こえてきそうな姿もどことなく可愛らしく思える。
名前は、くすりと笑みをこぼした。
「まあまあ、マダムレッド。午後の紅茶でも飲んで一息入れようじゃない……か……」
ぎい、と劉が力を入れるまでもなく開いた扉に、一同は目を丸くした。
当然である。今この屋敷には、他に人がいるはずがない。
しかし、その人間の当然をたやすく覆すのがあの悪魔である。
彼女も、セバスチャンならばとっくに仕事を終えてタウンハウスへ戻っている頃だろうと予測はしていた。
しかし、こうして実際に何事もなかったかのように先回りをされると、人間の存在の矮小さを実感して心にもやもやと言いようのない悔しさが渦巻く。
むう、と先程から良いとは言えなかった機嫌がみるみるうちに悪化の一途を辿る。
軽くその眉間にシワが寄ったのを、グレルが不思議そうに覗いていた。
「お帰りなさいませ。お待ちしておりました。」
ゆっくりと扉を開け、恭しく玄関先でお辞儀などをしているセバスチャンに劉とマダムは目を丸くしている。
まさに真ん丸と、満月のように欠けのない見事な円である。
しかし、弟はそんなことはどうでもいいらしく、無言のままサルーンを突っ切った。
執事の方も、特に気にした様子もなく主人からシルクハットを受け取ったりなどしている。
にこやかに名前からもコートを受け取り、セバスチャンは早々にアフタヌーンティーのメ二ューの案内などを始めた。
「午後の紅茶の準備ができております。今日のおやつは洋梨とブラックベリーのコーンミールケーキです。」
「ん。」
「お嬢様は本日アールグレイの香りに飽いていらっしゃるかと、紅茶はハロッズのロイヤルブレンドをご用意いたしました。」
「……それはどうも、ありがとうございます。」
確かに、今日は朝方のリデル家での茶会で供されたのもアールグレイであったし、葬儀屋のもとへ出かける前に屋敷で飲んだものもアールグレイであった。
すかさず完璧な配慮を見せる茶葉選びは流石と言うほかないが、どうやって彼女が朝の茶会でアールグレイを口にしたことを知ったのであろうか。
悪魔で執事の彼であるから、名前の身に僅かに残った紅茶の香りで判別した可能性もなくはないが。
気持ちの悪い男、と半ば照れ隠しと理不尽な怒りをない交ぜにした雑言を心の底に落として、彼女も弟に続いて客間へと足を伸ばす。
その白い足を包む青いパンプスのヒールがカツン、と音を立てたと同時、背後で呆然としていたマダム達がハッと我に帰った。
「ちょっと……あんたなんでココに!?」
三者ともあんぐりと口を開けているが、セバスチャンはその胡散臭いとシエルに評されている笑顔を崩さない。
え?と言わんばかりの微笑みで、口を開いた。
「用事が済みましたので先に戻らせて頂いておりました。」
「徒歩で!?」
悪魔は笑みを深くするだけで何も答えない。
沈黙は肯定である。
もっとも彼の場合は徒歩、という表現が正しいかどうかは分からない。
飛んで戻ったのか瞬間移動でもしたのか、どちらにせよ、人知の及ばない方法であろう。
それを知っている名前は何も言えずに無言を貫くだけだったが、ちょうどマダムの驚愕の先は「用事が済んだ」というところに移っていた。
「用事って、もう名簿が作れたの!?」
「いえ?」
「ー先程の条件に基づいた全ての方の名簿を作り、全ての方に直接お話を伺ってきただけですよ。」
貴族の主治医まで調べていたので少々時間がかかりましたが。
などと、さも涼しい顔で言ってのけたこの男の物言いはやはり名前に小さなささくれを立たせるようにカンに触る。
自身の仕事ぶりを誇示するかのようにリボンに巻かれた羊皮紙の名簿を三本抱えている姿すら、美しくもあれ憎らしい。
彼が有能であるのも分かっている。
こんな気持ちは自分の好意の裏返しであり、そして自身にはない力への嫉妬だとも分かっている。
それでも、心臓が波打つように憤懣がわななくのは、どうにも止められない。
「ちょっとセバスチャン……そりゃあんたいくらなんでも無理が……」
そこでフッと彼が人間の無力を嘲笑うように口角を上げたのを見て、名前はその黒衣から視線を外した。
苛立つのなら見なければよい。
精神衛生上、そうするのが正しいのだ。
自身で決着をつけた名前は、先程からおやつおやつ、と無心に心の内で呟いているらしい弟に叔母とそろいの赤い瞳の照準を合わせる。
ひょこひょこと青暗い髪の先が揺れて、非常に可愛らしい。
その愛らしさだけで呼吸ができる。
先程までのセバスチャンに対する複雑な感情が溶けてゆくようである。
ふ、と頬を緩めて恍惚と息をついたその瞬間、セバスチャンは見計らったかのように手にしていた名簿を縛っていたリボンをしゅるりと解いた。
「チェインバーズ伯爵家主治医ウィリアム・サマセット メアリ・アン・ニコルズ殺害時ハーウッド伯爵主催パーティー出席にてアリバイあり 秘密結社等の関与なし。
ガートランド伯爵家主治医ブロンテ・クイーン、「ザ・パンチ」編集長と接触にてアリバイあり 秘密結社等関与なし ベィリー公爵家主治医リチャード・オズワルド リージェンツパーク側の「パブ・ホワイトホース」にて仲間と過ごしアリバイあり 秘密結社等の関与なし 王立ロンドン中央病院外科医ヘンリー・スペンサー、オペラ女優ナナリー・ローゼットとの密会アリバイあり秘密結社等の関与なし ロンドン王立病院外科部長マーク・マッキンタイア 医薬品会社幹部ヘザー・ハワードと商談中にてアリバイあり 秘密結社等の関与なし ウェリントン伯爵家主治医ジョサイア・コンドル ナンシー・ビロウ殺害前日「パブ・テンフォックス」にて友人と食事、その後酔い潰れ友人宅へアリバイあり 秘密結社等の関与なし ダーソントン男爵家主デヴィッド・ダーソントン息子の婚約者一家と会食中アリバイあり 秘密結社等の関与なし ロンドン王立大学付属病院外科医サイモン・エジソン秘密結社との関与あり メアリ・アン・ニコルズ殺害時国外出張中アリバイあり セント・トーマス病院内科医オーディン・モリソン婚約者とその両親と外食をしておりアリバイあり アルバート公爵主治医ニコラス・アンソニー メイフェアにて目撃されておりアリバイあり秘密結社との関与あり 王立ロンドン中央病院内科医リチャード・ハイド休暇にてワイト島へ旅行中アリバイあり 同病院外科医アダム・ヘイヴィット アンナ・ハーバー殺害時ヘンリー・フィールズと商談中アリバイあり秘密結社等関与なし オルコック子爵家長男オスカー・オルコック メアリ・アン・ニコルズ殺害時スティプル・インにてボーイと接触にてアリバイあり秘密結社等の関与なし ミュール・ウェリントンメアリ・アン・ニコルズ殺害時家族と外食中にてアリバイあり秘密結社等の関与なし ラセルズ公爵家主治医ジュリアン・ロバーツ主人の狩猟に同行にてアリバイあり秘密結社等の関与あり ロンドン王立中央病院院長ハリー・スプリングフィールズ ハロッズにて目撃情報 アリバイあり秘密結社等の関与なし オックスフォード大学クライストチャーチ学寮長ヘンリー・リデル 事件当夜学生の補習中にてアリバイあり秘密結社等の関与なし」
つらつらと、淡々と、早口に述べられる調査結果に場の誰もがその情報量と有能"すぎる"彼の仕事量に言葉をなくしていた。
これには、さすがの名前もぐうの音も出ない。
余計に高まってしまった複雑な怒りは彼女の赤い瞳をとぐろを巻いて苛む。
可愛いシエルはセバスチャンの持ち帰った情報に満足であるのか、どこか得意そうに口角を上げている。
ズルッと艶やかな赤毛から滑り落ちてしまった叔母の赤いハットをすんでのところで掴み、名前はぎゅうとドレスの裾を握り締めた。
そうだ、弟に必要なのは人間にはないこの闇の力なのだ。
彼の甘い声音から紡がれる調査情報は、彼女の零細な力添えなどよりも遥かに事件解決に貢献するであろう。
自身の無力が重い鎖となって心臓をギリギリと締め上げる。
痛いと悲鳴を上げることすら赦されない、愚かな女の鎖。
呼吸を止められたように、名前は浅い息を漏らした。
「ー以上の調査結果により、条件を満たす人間はただ一人にまで絞り込めました。
詳しいお話はお茶にしてからに致しましょう。」
「……ははっ、一体どんな手を使ったのよセバスチャン?あんた本当にただの執事?O.H.M.S.S.とかなんじゃないの?」
もはや突き抜けたこの男の有能さに、叔母は脱力したように笑ってしまっている。
しかし、O.H.M.S.S.ー女王陛下秘密情報部ーであったとて、あの僅かな時間でこれだけの調査をなしえることは不可能である。
これが人知を超えた魔物の力。
人間の小さな世界を弄ぶ異形の力。
無論、彼はそう易々と自らの正体を明かしはしないのものの。
「……いいえ、私はー」
貴方が憎らしいと、邪魔だと、口に出して言えたらいいのに。
貴方が恋しいと、こちらを見てほしいと、口に出して言えたらいいのに。
「あくまで、執事ですから。」
(愛憎のすきま/Book of Jack the ripper ])