夕食の余韻に浸っていたいのはやまやまであるが、名前はすぐさま行動に出た。
皿上の料理を綺麗に胃の中へ片付けてしまうと、すぐさま階上のシエルの部屋へ足を進める。
彼が引きこもっているのは、屋敷内でも最も豪華な部屋の一つ。
代々の当主が使用してきた寝室である。
凝った金と銀の装飾に覆われたドアノブの前で、彼女は大きく深呼吸をした。
自らの前に立ちはだかる重厚な扉は、まるで物言わぬ番人のようにシエルの気配をすっかりその背後に隠してしまっている。
すう、と再び深呼吸をして嫌な鼓動を刻む心臓を落ち着かせた。
「名前お嬢様、落ち着いてください。」
「わ、わたしは十分落ち着いていますよ。ただ……初めが肝心だとタナカが言っていましたから……、こういう時、最初の対応を間違うとHIKIKOMORIという病は手がつけられないほど悪化するそうで……、ああ、どうしましょう……」
結局、うだうだと頭を抱えて廊下にうずくまってしまった名前をすかさず両腕で抱え上げ、セバスチャンは少し汚れてしまったショコラ色のドレスの裾をパンパンとはたいた。
いつもいつもドレスが汚れるので床にうずくまるのはやめろと説教をしているのだが、どうにもその小言は彼女の頭には入っていないようである。
これはまたドレスの洗濯が必要か、とセバスチャンは際限なく増えてゆく仕事に頭を抱えたが、当の名前の頭の中はシエルのことでいっぱいであった。
普段は強気の態度を崩さない彼女も、滅法弟には弱い。
しかしながら、このまま弟が一人部屋に引きこもっている事態を見逃すわけにもゆかず。
姿の見えぬシエルの姿を伺うような色を灯して、彼女はおずおずとペールピンクに色づいた唇をうっすらと開いた。
「あの……シエル?姉さんですけど……ご気分はどうですか?夕食が出来上がっているようですよ?」
「……」
「シエル?あの、今日のディナーはとっても美味しかったですよ?デザートのサヴォアなんて、もう何と言っていか……私はサヴォアと一緒に白ワインを頂いたのですけど、貴方にはフレーバーティーを用意させましょうね。ねえ?セバスチャン。」
「御意。坊ちゃんのディナーの準備はとうに整っております。」
「ね?シエル……夕食にしましょう?お部屋から出ていらっしゃいな」
「……」
返答はない。
シーン、と沈黙の奏でる音の響く廊下に佇む二人の姿が、もはや滑稽ですらあるように。
セバスチャンの腕に抱え上げられたままの彼女は、もはや小刻みに肩を震わせている。
お嬢様ー、
一言声をかけると、彼女はぐるん、と勢いよくセバスチャンの方へ首だけを振り向かせた。
その顔は情けないほどに眉を下げ、唇の端をキュッと引き結び、今にも泣き出しそうである。
弟に無視されたのがよほどショックだったのだろう。
しまいには、瞳に涙を溜めながら"家庭崩壊、HIKIKOMORI、婚約破棄、ファントムハイヴ家没落"などと、どんどんと暗黒の未来を想像してはセバスチャンのピンタックシャツのボタンを引きちぎらん勢いで握りだした。
弟馬鹿もいい加減にしてほしいものであるが、確かに彼女の心配も無用の産物と切り捨てるべきものでもない。
実際、このまま当主に引きこもっていられては悪魔とて困るのだ。
こうしてふさぎ込んでばかりでは、せっかくの気高い魂はみるみるうちに暗闇に侵されて腐敗する。
上物の魂をむざむざ無駄にするには惜しい。
セバスチャンはひょいっと名前を抱え直し、静寂を貫く扉に向き直った。
「坊ちゃん、お姉様もたいそう心配されています。ここはひとつ、お顔を見せて差し上げるべきかと。」
「……」
「名前様はもう、あまりに心配で自らお立ちになることもできないほど弱られています。……ああ、こんなにお泣きになって……お可哀相に……」
「……」
返事はない。
これには、セバスチャンもぴきりと額に青筋を立てた。
なんだかんだと言いつつ姉離れができていない主であるから、こうして名前を餌にすれば返事こそ無かったとしても何か反応を見せるかと思っていたのだが、その読みは外れたらしい。
相も変わらず、室内は空虚な沈黙と陰欝な月闇に支配されたままである。
扉の隙間から漏れる室内のどろりとした陰気な空気に、彼は名前に憚ることなく眉をひそめた。
「手の施しようがありませんね。」
「な、何を言うのです!まだきっと手立てはありますー、あの子はきっと……、そう、少し落ち込んでいるだけですもの。こんなことでダメになってしまう弱い子ではありません!」
セバスチャンの言葉に慌てて否定を押し付ける彼女であるが、いささかその言は姉としての贔屓目が過ぎよう。
悪魔の赤い瞳に映る主は、魂こそ気高く美しくもその身体と精神は脆弱そのもの。
茨の棘ほどの刺激であっても命取りになる繊細さと脆さを瞳に敷き詰めた少年である。
姉の方は「強い子」だと信じて疑わないようだが、彼女はとうに弟への愛に溺れて彼を正しく評価する瞳を失っている。
ふう、と嘆息を吐き出して、セバスチャンは再び主を覆い隠す扉に向き直った。
こういう場合、彼に効くのは慰めや優しさではないことをわずかニ年ほどで嫌というほど理解している。
そして、それが優しい姉君には成し遂げられぬ芸当であることも。
「坊ちゃん、本日は実にお見事でございました。」
「……」
「あのようにレディに対して余すことなく怒りを顕にするなど……並大抵の紳士にはでき得ぬことでございます。あまりに恥ずかしくて、ね。」
「……!」
「ちょ、ちょっとセバスチャン!何を言ってー、」
「名前お嬢様は坊ちゃんを英国紳士の在るべき姿と信じておられるようですが……、とてもとてもそのようには見えませんでしたねえ。エリザベス様に向かって凄んだお姿など、紳士というより年相応の「クソガキ」と言った感じでー、」
ガンッ!と。
室内から響いた鈍い音に、セバスチャンはにやりと口角をあげた。
平素は隠している鋭い犬歯が怪しく窓から差し込む月の光に輝く。
上手くいったと言わんばかりに、彼は紅茶色の瞳をいやらしく細めた。
先程まで静まり返っていた室内からは、今やシエルの沸騰せんばかりの怒りが溢れるように気の立った気配が漏れ出てくる。
ふがいない主にはお灸を据えるに限る。
砂糖と蜂蜜と、ありったけの慈愛と優しさで包み込む名前はあまりに甘い。
ふさぎ込む主人に対しては、慰めや憐憫は不要。
神経を逆撫でする方が手っ取り早く話がつく。
「おやおや、図星をつかれて八つ当たりですか?こういう側面もやはりクソガー、」
「も、もうやめてください!」
更に煽ろうとしたセバスチャンの薄い唇を、網目の手袋に覆われた滑らかな手が覆う。
口をつぐむと、名前が瞳いっぱいに涙の膜を張ってこちらを睨みつけていた。
燭台の明かりに煌めく雫は、彼女の赤い瞳の輝きを鈍らせる。
静寂に満ちたその空間で、遂にはパールのような雫がぽろりと赤い絨毯へ落とされた。
なぜ彼女が泣く必要が、と思わないでもない。
しかし、冷酷無比の執事も彼女の涙にはやや弱い節がある。
もちろん、悪魔当人は自覚していない。
とはいえ、彼女の赤い瞳から零れ落ちるその雫は確かに彼の動きを止めるのである。
一瞬間の短い時間ではあれ、常に、確かに。
「お嬢様、」
「やめてあげて……、もう、充分でしょう……。」
「しかし、」
「後は私が話します。貴方は席を外して下さい。……そうですね、紅茶の用意をお願いします。」
「……御意。」
透明の雫に縁取られた瞳で見つめられると、彼はどうにも強く出られない。
無言のままに腕に抱えていた彼女を丁寧に廊下へ降ろすと、赤いヒールの先端がカツン、と静かに回廊に響いた。
軽く乱れたバッスルのスカートを直してやる。
名前は小さく鼻を啜り、瞳の淵を飾る雫を網目レースのグローブに覆われた人差し指で乱暴に擦った。
"いけません、お嬢様。傷がつきます。"
すかさずセバスチャンが彼女の腕を掴む。
そして執事は、レースに縁取られたハンカチーフを取り出して自らの動きを封じる彼女の水水晶を優しく拭い去った。
「ありがとうございます。」
「いえ、当然のことをしたまででございます。では、坊ちゃんをよろしくお願いいたします。」
腰を折り、一礼してその場を後にする。
一応は主から反応は得たのだ。
それがたとえ、肉声でなく衝動にまかせて物を投げつけた音であっても。
後は、お優しい姉君にできるところまでやらせるとするかー。
胸のポケットから銀装飾の時計を取り出す。
ただでさえ忙しい外出の後。
今日は主人の機嫌が優れないせいで、寸分の狂いなく遂行されるはずの予定は1時間近くもおしている。
早足に立ち去るセバスチャンの背がすっかり見えなくなるまで、名前はその姿を目で追っていた。
そして、彼が角を曲がってその革靴が階段をコツコツと叩く音が聞こえて、ようやく入口を堅牢に閉じてしまっている扉を見据えた。
もうすっかり涙はひいている。
やや赤らんだ目元だけが彼女の涙を証明するが、この夜の静けさの中では鷹の目で以てよくよく目を凝らさねば、判別できぬ程度である。
一つ、不安に揺れる心を留めるように息をつく。
普段から垂れ目がちの目元をきりりと引き締めて、名前はようやく口を開いた。
「シエル、入りますよ。」
返事はない。
しかし、沈黙は肯定と同義である。
名前は躊躇うことなくその重厚な扉を押し開けた。
ギギギ、とまるで最後まで主人を覆い隠すように抵抗を見せるそれに今更負ける女でもない。
廊下に設えられていた銀製の燭台の一つを拝借する。
そして、彼女は鬱蒼とした黒い森を思わせる薄暗い室内に無理矢理に蝋燭の明かりを持ち込んだのであった。
「……シエル、」
「……」
シエルの自室にはそう物はない。
何かとりわけて好むものがあるわけでもなし、唯一の趣味であるゲーム類は多少置かれているものの、そう場所を取るものではない。
結果、常に彼の部屋は閑散としているのだが、今夜はよりその寒々しさが空気を濃くしている気がした。
この世界から切り離されたように静寂を保つ空間の中、名前はきょろきょろと辺りを見回した。
まるで月の裏側のような、海の底のような雰囲気。
窓から差し込む月明かりだけに照らされた室内は青暗く、少年の髪と瞳の色の保護色である。
ともすれば見失ってしまいそうなほどに儚い姿の弟を探し当てて、彼女は蝋燭の淡い光で少女のように華奢な足元を照らしてみせた。
おずおずと、寝台に腰掛けるシエルの隣へぽすん、と身体を落ち着ける。
「シエル、」
「……本を読んでいました。」
「ええ、」
パタン、と彼が分厚い本を閉じる。
それと同時に、書籍から埃がふわりと舞った。
月明かりに照らされた埃がまがい物の宝石のように細かに輝く。
シエルは、砂塵の混じった空気に構うことなく長い瞳を伏せて本のタイトルを視線でなぞっていた。
"A Midsummer Night's Dream"
ー真夏の夜の夢。
「珍しい、シェイクスピアはお嫌いではなかった?」
「喜劇が嫌いなだけです。シェイクスピア全てが嫌いなわけではありません。」
「そうでしたか。」
「……中でも、『真夏の夜の夢』はことさら嫌いです。」
「そうね。」
嫌いな本をわざわざ薄暗闇の中で読んでいたシエルの感性はよく分からない。
しかし、彼が尋常でないほどにリジーとの喧嘩を気にしているらしいことは、手に取るように分かった。
そしてそれが、単なる苛立ちや怒りに任せたことでなく、全面的に彼自身が悪いと自覚しているらしいことも。
「姉さんは、シェイクスピアはお好きですか」
「あんまり。喜劇は面白いけれど悲劇は……『ロミオとジュリエット』なんて、悲しくて可哀相で、読んでいられません。」
「……姉さんらしい。」
そう言って、彼は僅かに赤みを残していた彼女の目元にそっと触れた。
とうにその眼からは涙の雫は消えていたが、姉が彼のために流した水晶球が見えているかのように、慈しむように。
それでいてその指先の螺旋とは無関係であるように、幼い弟は険しい表情を浮かべていた。
月の裏側のような部屋で、自らに誰かが罰を下すことを待っている。
「姉さんは優しすぎる。」
「ええ、」
「姉さんは甘すぎる。」
「そうですね」
「姉さんは、お人よしすぎる」
「そうかもしれませんね。」
「姉さんは……、」
「うん、」
「姉さんは、都合が良すぎる。」
「都合?」
「まるで『真夏の夜の夢』だ。最期には全て僕の思うままに、僕が幸福を全て総取りできるように動こうとする。」
「……」
「僕を過大評価しすぎなんだ。」
そう言ったきり、彼は俯いてしまった。
シエルの紺碧の髪と青白い頬に青い影が忍び寄る。
すっかりその身体が月闇に覆い隠されてしまう前に、名前は精巧なドールにでも触れるようにシエルを包み込んだ。
その柔らかな髪が、手が、胸が、全霊で彼を守ろうと熱を発する。
その心地好い熱に浮されるように、次第にシエルはぽつりぽつりと語り始めた。
「リジーには、もう僕の気持ちは伝わっていると思っていました。」
「ええ、」
「いちいち言葉にしたことはなくても、分かっているだろうと」
「そうですね」
「だから……、あまりに執拗に『他の子を見ていた』というものだからー、」
「分かります、なんだか信用されていないように感じてしまったのですよね。」
こくん、と小さく頷いて、シエルは完全に身体の力を抜いた。
少年にしては華奢な身体がゆらりと揺れて、名前の胸に収まる。
普段であれば、彼は決して姉に甘えたりなどしない。
少年でありながらも伯爵家を背負う者としての矜持と世間の目が、彼から弟らしさを奪い去っているのである。
しかし、今夜、この瞬間には弟と姉以外の他の誰の存在も許されていない。
悪魔ですら立ち入ることのできぬこの月の下にあって意地を張る必要はもはや溶けた。
ゆっくりと穏やかな鼓動を刻む心臓の音を聞くように、シエルは姉の胸に耳を寄せた。
「僕は、姉さんが考えているほど大した男ではありません」
「そんなことはありませんよ」
「そんなことはあります、現に婚約者と1日を平穏に終えることすらできない」
「……それだから貴方はいい子なのです。自分に非があると自覚することができる。誰にでもできることではありませんよ。」
黒い総レースの手袋を外し、名前は心底慈しむように弟の暗青色の頭を撫でる。
大人しく頭を預けてくれるシエルには嬉しいながらも、どうにも心配でならない。
やはり彼はいつも通り、背筋を伸ばして毅然としている姿が一番美しい。
時にはこうして姉に甘えて欲しいものだと常々思っていたが、やはり何よりも、弟が元気でいてくれることが一番である、と深く心に刻みつつシエルを抱きしめた。
「明日、リジーに謝りに行きましょう。そうですね、薔薇の花束を持ってお行きなさい。」
「はい。」
「さあ、お腹が空いたでしょう?セバスチャンを呼びましょうね。夕食にしますか?それとも、先に身体を流します?」
「……」
「シエル?」
「……もう少し、このままで、」
ごろん、と完全に身を横たえて、シエルは彼女の膝の上に首を乗せた。
その行為に驚きを隠せないものの、名前はにっこりと目を細めて再び弟を慈しむように撫でる。
そよそよ、と薄く開いた窓から注ぎ込む夜風が二人の髪を揺らした。
青白い靄を帯びた月光は、くるくると螺旋を描くように室内へ舞落ちてくる。
いつもの使用人たちの絶叫も、セバスチャンの怒声も、森の動物たちの鳴き声すらも届かない室内。
海の底のように彼ら以外の生ける者の気配を遮断した空間に安心したのか、気がつけばシエルはすうすうと穏やかに寝息を立てていた。
可愛いシエル、おやすみなさい。
"Hush-a-bye baby, on the tree top
When the wind blows the cradle will rock
When the bough breaks the cradle will fall
Down will come baby, cradle, and all."
彼が幼い頃、よく歌った子守唄が自然と口をついて出る。
こんな歌を歌っているのがシエルにバレたら怒られてしまいそうだ、などと思いながらも、彼女の声帯は穏やかにたおやかに、ナーサリーライムを紡ぎ続けた。
コンコン、と控えめなノックの音が月に響き渡るまで。
「坊ちゃん、お嬢様、紅茶をお持ちしました。」
「どうぞ。」
そうっと音もなく扉を開けた黒い悪魔は、驚きに目をみはりつつ入室した。
すやすやと姉の膝で眠っている主の邪気のない寝顔を紅茶色の瞳に捕らえて、静かにワゴンを引く。
気持ち良く眠っているらしいシエルを起こさないよう、悪魔によって細心の注意が払われたワゴンは、魔法にかけられたように音もなく床を滑った。
寝台の側へワゴンを止めて、彼がシノワズリーのティーカップを一つ、取り出す。
ヘレンド社の繊細な中国風柄の陶磁器は、最近のシエルのお気に入りである。
その白い器に、コポコポと静かに茶が注がれてゆく。
夜風に乗って室内を満たすそれは、陶器に合わせたキーマン茶。
甘い糖蜜のような香りに、眠っているはずのシエルの鼻がぴくりと反応した。
「ふふ、可愛い。」
「ええ、眠っているお姿は可愛らしいのですが、ね。」
「あら、シエルはいつだって可愛いですよ。」
セバスチャンからカップを受け取りながら、なおも名前は自らの膝に乗せたシエルを慈しみ続ける。
気難しいシエルがすうすうと安息の寝息を立てる姿を興味深げに見つめて、次いでセバスチャンは名前に視線を移した。
もはや姉というより母親のような顔をして、大人しく月光に睫毛を彩られている。
その姿にらしくもなく凪いだ心持ちになりながら、彼は口を開いた。
「まるで、母親とその子のようですね。」
「シエルは立派な紳士ですけれど……、まだ13歳ですもの。たまにはこうして甘える時間も必要ですよね。私も、お母様の代わりをしなくては。」
「なるほど……、では、僭越ながら私がお父様の代わりをお引き受けいたしましょうか?」
父親の代わり。
とうことはつまり、母親の代わりを引き受ける名前の夫役ということであり。
そこまで頭を巡らせて、彼女はぼっと頬を燃えるように真っ赤に染めあげてセバスチャンから視線を逸らした。
彼女の照れ隠しを目敏く目に焼き付けた執事は、クスクスと堪え切れぬように笑っている。
もう!とからかわれた事実にむずがゆい怒りを感じながら、彼に向き直った。
未だその頬は熟れた林檎の実のように色づいている。
「からかわないでください!」
「Shh……あまり大きな声を出されると坊ちゃんが起きてしまいますよ。」
「もう、誰のせいだと思って……」
「よろしいではありませんか。坊ちゃんのHIKIKOMORI騒動も落着しましたし、もう何も貴方を脅かすものはないのですから。たまの悪戯くらいはお許しください。」
たまの、などと言っているが、この男が名前をからかって遊んでいるのは常日頃からであり、"たまに"どころの騒ぎではない。
しかし、なんとなく今夜はそういうことにしておいてやってもいいかという気持ちが沸いて来る。
それは室内を優しく照らす蝋燭のせいか、膝元に感じる愛しい重みのせいか、夜のしじまを彩るキーマンの香のせいか。
もしくは、事態が無事に収束したことへの安堵感がそうさせるのかもしれないが。
ぎい、と寝台が軋む。
気がつけば、月の気配を纏ったセバスチャンが自身の隣に腰掛けていた。
そうっと悪魔の手が彼女の肩を抱く。
使用人のくせに、主人の寝台に腰を降ろすなんて。
そんな小言の一つも出てこない、平穏と穏便。
薄明るい月は、よくよく見てみれば彼女の心を体現するかのように欠けのない満月であった。
いつになく、満ち足りた気分であると。
(パレ・ロワイヤルの人間嫌い U/sebastian michaelis , ciel phantomhive)
「そういえばお嬢様、HIKIKOMORIなどと、どこでお聞きになったのです?」
「全部タナカから聞きました。HIKIKOMORIは家庭崩壊だけでなく、ともすれば世界の終焉を招きかねない恐ろしい病だと。シエルはもともと人嫌いだから危ないと。」
「……お嬢様、最近気がつきましたが……、タナカさんによく分からない知識を植付けられすぎでは?」