聖女の亡骸
洋梨のみずみずしい香りが鼻孔をくすぐる。
同時に、口にしたロイヤルブレンドの軽い舌触りが深く深く身体に浸透してゆく。
その温度は魔術だ。
ささくれ立った心臓がゆっくりと平穏の鼓動を奏ではじめるのが確かに感じられる。
カップから唇を離してみると、赤い口紅がその白磁の縁にくっきりと烙印されていた。


ひとまず客間へと落ち着いた彼らは、セバスチャンが調査報告を口にするのを今か今かと待っていた。
彼によって用意されたアフタヌーンティーの準備はとうに整っている。
弟などは、もはや待ちきれなかったのかコーンミールケーキに銀色のフォークを突き立てていた。
ぐるりとセバスチャンの赤い視線が彼らを見回す。
全員に聞く態勢が整ったらしいことを確認した彼は、調査報告をまとめた白い羊皮紙を片手に口を開いた。



「『医学・解剖学に精通する者』『事件発覚前夜にアリバイのない者』そして『秘密結社や黒魔術に関わりがある者』、この条件を満たしているのはただ一人。
ードルイット子爵、アレイスト・チェンバー様だけです。」



ずどん、と頭が撃ち抜かれる。
彼の低い声音が脳髄を破壊する銃弾と姿を変えて、瞬間的に正常な思考力を奪った。



「ド、ドルイット子爵ですって!?」

「ええ、お嬢様......もしやお知り合いで?」

「い、いえ......会ったことも見たこともない方......ですけれど......」

「有名人だもの。夜会に出てれば名前も名前くらいは聞いたことあるわよねえ。」




叔母が言葉を紡いでいる裏側で、彼女は驚愕に胸を震わせていた。
セバスチャンの甘く低い音が紡ぎ出したその名に、背筋に冷たい戦慄が走る。
ドルイット子爵ー、
リデル夫妻の悩みの種となっている医大卒業生。
そして、まさに今夜自分と夫人がパーティに招待された、その相手である。
ドッ、ドッ、と心臓が再び嫌な鼓動を刻みはじめた。
血が逆流でもしているかのように呼吸が苦しい。
しかし、自身を苦しめる息苦しさの中、彼女の青暗色の脳細胞だけは不思議と冷静であった。
"リデル夫人を子爵から守らねばならない。"
軽い付き添いのつもりで今夜の夜会へ同行するつもりであったが、予定変更を余儀なくされた。
すう、と彼女の赤い瞳が据わってゆく。
夫人に危害を加えるようであれば、
ー容赦なく始末する。
冷たい光をたたえた彼女の瞳は、まるで別人であるかのように危険な険しさを増していた。



「医大は卒業していますが病院への勤務や開業はしていません。社交期には何度か自宅でパーティーを催しています......が、どうやら裏では彼と親しい者だけが参加できる秘密パーティーが催されているという話です。」

「ドルイット子爵か......そういえば黒魔術みたいのにハマってるって噂は聞いたことあるわね......」



バラなんとかとか、黄金のなんとかとか......、と手を顎にやって呟いているマダム・レッドに、名前はぶんぶんと頷いた。
夜会の女王たる叔母の情報網はやはり確かである。
彼女のゆったりと優雅に組まれた脚を包む赤いドレスのフリルを無意味に眺め、名前は状況を整理するように目を伏せた。



「つまりその『裏パーティー』で儀式的なことが行われていて、娼婦達が供物にされてる疑いがあるってことか。」

「ええ。」



劉の問いにセバスチャンが肯定の意を示す。
そのやり取りをどこかよそ事のように感じながら、名前は自身を思考の海へと沈めた。



大抵の場合、薔薇だの黄金だのを求める魔術儀式は概ね内蔵を供物とする。
本質は錬金術と大差ない。
捧げられる内蔵は供物として必要なだけであり、儀式に殺人までもが必要な訳ではあるまい。
簡単に言ってしまえば、内蔵さえ揃えばよいのだ。
肉屋で牛や鳩の内蔵を買い求めれば材料は揃う。
それをわざわざ娼婦を殺してまで人間のー、それも若く美しい女性の内蔵を狙っている。
恐らくは、耽美と殺人の背徳的美を味わうためであろう。
こういう輩は、いずれ娼婦だけでは満足できなくなる。


伏せた睫毛の奥では、瞳が冷酷ともいえる鋭さを宿しはじめた。
人を殺めることに快楽を見出だす人間の心理は彼女自身、よく分かっているつもりである。
人の命が潰える瞬間、その一瞬の背筋を這うような快楽。
殺人はドラッグのように心を蝕む。
今回のジャックも、自分が数多見てきた殺人鬼たちときっと同じだ。
娼婦だけ、という限定がいつしか若い女性だけ、と裾野が広がり、いつしか「美しい者だけ」と無差別に男も女も美しい人間を手に掛けるだろう。
そして、自らの蛮行に何らかの免罪符を貼ってごまかしを始める。
そこまで堕ちてしまえば、もはや打つ手はない。
禽獣に身を落とした人間は、どうやっても元には戻らないのだ。
自身もその一歩手前のデッドラインを超えかけていたことを思い返すと、身の毛もよだつ思いがする。


ぶる、と小さく身を震わせる。
人間が人間に手をかけるなんて、ひどく傲慢で醜悪な行為だ。
わたしは、あんな醜い獣には二度と戻らない。



「あの、名前様......お寒いのでしたらブランケットを、」

「グレルさん......いえ、結構です。ありがとうございます。」



肌が粟立っていた彼女を心配するように、マダムの背後に控えていたグレルが声をかけた。
その地味な色の瞳が、じっと名前の赤い瞳の奥を覗く。
何となく、心の内を覗かれているような居心地の悪さがして、ふいと目を逸らした。



「名前お嬢様?顔色が優れませんが、お休みになられますか?」

「な、なんでも......少し肌寒かっただけです。」

「ー左様でございますか。」



その言葉の響きに何か嘲笑めいたものが混じっているような気がして、背後に立つセバスチャンをぐるんと振り返った。
どうなさいました?といつも通りに人の良い笑顔を演出するように口角を上げている。
しかし、その瞳が紅茶色からだんだんと怪しげな赤みを帯びてきたことを、彼女は見逃さなかった。
こいつ、なぜいつも私の全てを知っているような色を混ぜるの。
不愉快なその色を締め出すように正面へ向き直る。
すると、執事たちと同じく憂慮するように彼女を見つめる叔母と、その背後でおなじく眉を下げて心配げにこちらを見ているグレルと視線がかち合った。


やはり、こちらからものぞかれているー。
目立たないくすんだブラウンのグレルの眼がぐるんぐるんと視界を巡る。
前にはグレル、後ろからはセバスチャンの視線を感じ、何とも言えない気味の悪さが彼女を挟んだ。

"この男たち、やはり私を詮索しているような目をしている。"

どんどん身体が縮こまってゆく。
まるで、魔獣にでも囲まれているように。
しかし、正面のグレルの眼の色が剥がれて、ぐにゃりと水晶体が歪んだように見えて、はっと視線を上げた。
今、一瞬だけ黄緑色の閃光が走ったようなー、



「名前?どうしたの、やっぱり体調が悪いんじゃ......」

「ただでさえこの数ヶ月は夜会続きだったんだ。姉さんは少し休んだ方がいい。」

「ああ、二人ともごめんなさい。大丈夫です。セバスチャンも、話の腰を折ってしまってごめんなさい。続けてください。」




御意。
その響きには、先ほどのような嘲りの色は感じられなかった。
真っ当に返された返答にやや安心して、名前は1人掛けのソファに深く座り直した。
グレルの瞳の色も、こうして落ち着いて見てみればなんてことはない。
ただ深く落ち着いたありのままの色彩を放っている。
きっと、昔の嫌なことを思い出したからこんなに変な気持ちがしていたのだ、と決着をつけて、彼女は再びティーカップに口をつけた。




「本日も19時よりドルイット子爵邸でパーティーが行われます。もうすぐ社交期も終わりますし、潜り込めるチャンスは今夜が最後と思っていいでしょう。」




カチャ、と静かに銀器が皿に置かれる。
先ほどまで静観してケーキを口に運んでいたシエルが、すう、と右斜め前に腰掛ける叔母へと視線を差し向けた。



「マダム・レッド」



眼帯に覆い隠されていない方の瞳が覚悟を映すようにシャンデリアの煌めきに反射する。
きりりと眉を釣りあげた彼に、マダム・レッドは不適に笑んでみせた。



「そういうわけだ。なんとかなるか。」

「舐めないでくれるかしら?私結構モテるのよ。招待の一つや二つ、どうにでもしてあげるわ。」



豪快に赤い絹糸のような髪をかきあげてみせる叔母に、名前は恍惚とした視線を送っていたが、ふと自身の今夜の予定を思い起こし、"あ!"と声をあげた。
その無意識に声帯から飛び出た音は、彼女が思っていた以上に大きく、室内に響き渡る。
先ほどまで体調が悪いのだと思っていた姉が突然に大声を出したことに驚いたか、シエルはびくりと肩を震わせた。
次いで、どこか恨めしげに姉を見遣る。
驚かせないでください、と言わんばかりに。



「いきなり何ですか、姉さん。」

「あ、あの!そのドルイット子爵邸でのパーティーですけど!」




すっかり忘れていた。
わざわざ叔母の手を煩わせるまでもない。
自分は既に、夜会への招待状を手にしているのだ。
リデル夫人ならば同行者が数人増えるくらいは気に障らないだろう。
むしろ、ジャックー、ドルイット子爵から彼女の身を守るためにも、セバスチャンや劉がいた方が好都合だとさえ言える。
そして、それはシエルにとっても同じこと。
子爵の恩師であるリデル男爵の奥方と行動を共にしていれば、彼に近付く機会を容易に掴むことができる。

期待にどんどんと胸が膨らむ。
たとえ有能な悪魔とて、使用人の身分では貴族同士のコミュニティに入り込むことは半ば不可能。
このチャンスは、社交的で周囲との交遊を欠かさぬ自分であるからこそ手にすることができたもの。
そうだ、自分はこの案件においてセバスチャンと同様の手柄を立てることができる。
弟の力になることができる。

突如として現れた好機は、それまでの彼女の鬱々とした陰気を瞬時に吹き飛ばした。
執事に対する劣等感も、弟に対する憂慮も、二人の奇妙な使用人に対して胸の底につかえていた気味の悪さも、すべてが春風のような心地よさに拭い去られてゆく。
陰りを見せることの多かった赤い瞳は、きらきらとガーネットの輝きを取り戻しつつあった。
シエルの力になることができる、その自負心だけでわたしは胸を張って歩くことがー、




「ああ、姉さんは今夜は休んでください。」

「ーえ?」

「うんうん、無理はしない方がいい。我も休んだ方がいいと思うよ。」

「そうね、名前は何だか少し様子もおかしいし......、医師として言うわよ。屋敷で留守番してなさい。」

「ちょ、ちょっと待ってください!!わたしはー、!」




違う、違う違う!!
そうじゃない!!
ただ子爵邸への切符は既に手中に収めていると、安心してよいのだと、
そう言いたいだけなのに。
がばりと思わず椅子から立ち上がり吠え立てようとした彼女であったが、そのレースに覆われた肩をゆるりと諌める者があり、名前は口をつぐんだ。
背後からセバスチャンが労るように自身の背を支えている。
キッと睨みつけると、彼は訳知り顔で言葉を紡いだ。



「お嬢様......本日はどうかお休みくださいませ。坊ちゃんも姉君の身を案じてそう言っておられるのです。」

「だからっ、わたしはいたって健康でー、」

「邪魔だと申し上げているのです。」




ぼそりと、主たちに聞こえぬよう名前の耳元に声を落とす。
その甘い響きは、鼓膜から脳へと毒が回るように彼女の高揚していた気分を侵した。
背筋から爪先、そして心臓へと。
冷たく甘い劇薬は誇りと自意識を奪ってゆく。
邪魔、その一言に尽きるか。
不必要であると、私の存在など不要であると、そう言ってのけたのだ。
セバスチャンがそう言うのだ。
ぐるぐると、身体を蝕む彼の言葉は彼女を奈落の底に誘ってゆく。
彼にとって不要であるだけでない。
きっと、恐らくはシエルにとってもー、




「お分かりいただけましたか。本日はどうかお休みください。」




ずるりと力の抜けた身体は、糸を切られたマリオネットのようにソファへ墜ちた。
残骸と化したその身体は、ぴくりとも動かない。
その冷えた亡骸をひっぱり上げるように執事が抱え上げ、主たちへと向き直る。
その顔は、いつにも増して胡散臭い笑みを浮かべていた。



「やはりお嬢様はご気分が悪いそうですので、お部屋へお連れいたします。」



それでは、と名前を横抱きにしたまま一礼し、客間の扉を開けた瞬間。
だらりと垂れた姉の脚を飾る青いパンプスが、最後の抵抗と言わんばかりに執事の脛を蹴り飛ばしたのを、シエルは見逃さなかった。
そうして、ぽとりと涙の雫が赤い絨毯を濡らしたことも。
にやりとセバスチャンが笑みを深くしたような気配を感じつつ、彼はすっかり片付けてしまった皿の上を見つめてため息をついた。
あの悪魔、何を言ったのかは知らないが、姉さんの精神を酷く傷つけたに違いない。



「名前嬢、大丈夫かね。」

「どちらにせよ、夜会へ連れていくよりはマシだ。」

「シエル......」

「番犬は僕だ。姉さんまでは巻き込まない。」



太陽はその身を落とされたように、ゆっくりとその光に陰を見せはじめる。
執事に連れ去られた姉の姿を追うように、シエルは客間の扉へと視線を巡らせた。
姉にはこの屋敷でおとなしく待っていてもらう。
それが多少、彼女の心に傷を与えるものであっても構わない。
姉が生きていてさえくれれば。



「マダム、招待の件は頼んだぞ。」

「安心なさい。すぐにどうにかするわ。」

「決定だな。なんとしてもその『裏パーティー』に潜り込むんだ。ファントムハイヴの名は一切出さないこと。取り逃がすことになりかねん。


ーチャンスは一度きりだ!」





少年の心の機微とは無関係に、夕暮れは迫りつつある。
切り裂きジャックを巡る怪事件は、遂にその佳境に差し掛かりつつあった。
今夜で全てが終わる。
明日の朝になれば、落ち込んでいるはずの姉に会いにいこう。
たまには二人で読書などをして過ごそうと、密かに考えた。
それが所詮、まやかしの夢であるとも知らずに。




(聖女の亡骸/Book of Jack the ripper ]T)



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