Under the rose
青い芝はどこまでも遠く、地平の彼方まで続いてゆく。
そよぐ春風が薔薇の香を拾って、そこに羽を伸ばした彼らの鼻腔をくすぐった。
バスケットの中、行儀よく並んだスイーツ達も甘い微笑みをこぼしている。
麗かな初夏の陽気が心地よく、名前はそっと瞳を閉じた。



最初はピクニックなどに出掛けるくらいならばロンドンでオペラでも観たいと思ったものだが、実際に妥協して草原へ赴いてみると、なかなか悪くはない。
ロンドンの喧騒から離れて自然の陽光を楽しむというのも、いいものだ。
そばの湖でボート遊びをしているシエルとリジー。
せっせと愛らしいあみぐるみを編んでいるミッドフォード叔父様。
優雅に紅茶を楽しむ叔母様。
皆、都会やマナーハウスでの凝り固まった神経を解すように思い思いに快晴の空の下での時間を楽しんでいた。
一人を除いては。


かの執事は、ピクニックとあってものんびりとした時間の流れを楽しむ暇はないらしい。
今朝からバスケットにサンドウィッチやケーキを詰めたり、ティーセットの用意をしたりと忙しなく動き回っていたが、いざランカシャーの草原へ到着したとて給仕の仕事が待っている。
加えて、シエルとリジーから目を離すわけにもいくまい。
であるから、比較的目を離しても問題ないー、もとい放っておいても差し支えない彼女には目もくれない。
ミッドフォード夫人に紅茶を注ぎ、侯爵の編み物の手伝いをし、そしてシエルとリジーの様子を確認する。
結局、普段通りに仕事に勤しんでいるセバスチャンに不服を申し立てたい気持ちになりながらも、名前は黙って本を開いた。
言えば彼女の相手をしてくれるだろうが、そうやって命令をして構ってもらっても何も嬉しくない。





「暇そうだな。相手してやろうか?」
「…エドワード、貴方今までどこに居たのですか?」



姿が見えませんでしたけど、と続けると彼はクリケット用のラケットを肩にかついだまま、左手でボールをちらつかせた。


「向こうでクリケットでもしようかと思っていたが─、よく考えれば一人ではクリケットはできないな」
「当たり前ですよ……。シエルも球技は好みませんし、叔父様をお誘いになったら?」
「…いや、父さんは新作のあみぐるみで忙しい。」


ちらりと侯爵の方へ視線を遣る。
熱心にピンク色の毛糸を操りながらウサギらしきものを編み込んでいる父親に、エドワードは肩をすくめた。


「あの調子では、クリケットの相手はしてもらえそうにない。」
「ええ……そうみたいですね。」
「お前はどうだ、クリケット。久々に投手をやるつもりはないか?」
「しませんよ。私がクリケットなんかしたら、『はしたない』と叔母様に怒られてしまいます。」



まだ幼かった頃は、エドワードとよくクリケットをしたり剣術の稽古をしたりしたものだ。
しかし剣術はともかくとして、もはや淑女というべき年齢に達した名前が紳士のスポーツなど、許されざるべきことである。
やっぱりか、と残念そうに息を吐いたエドワードはどっかりと彼女の隣に腰を下ろした。
どうやら身体を動かすのは諦めたらしい。




「仕方ない。お前の話相手にでもなるか。」
「それは有り難いですね。暇をもて余していたものですから。」
「そうか、執事が構ってくれなくて残念だったな。」 


その瞬間、彼女は動きを止めた。


「─なっ、何を…!」
「あの執事が好きなんだろう」




エドワードはどちらかというと、この手の話題には疎い方だ。
しかし、同じ年に生まれた従姉妹の恋愛事情に関しては、他の追随を許さぬ敏感な感性を持っていた。
いや、「持っていた」というより「磨かれた」と言うべきか。
幼い頃からずっと、名前が人を好きになる度に相手を聞き出すのはいつもエドワードの仕事だった。
そうして17年間を過ごす内に、自然と彼女が好むタイプの男を察知することができるようになってしまった。
それだけの話だ。



「ピアノの先生、家庭教師の先生、学校の先生ときて、今度は使用人か。本当に身分違いの恋が好きらしいな」
「……放っておいてください。」



拗ねてしまったか、それとも恥ずかしさか。
彼女は完全に顔を手で覆って、俯いてしまった。
もじもじと、赤いドレスに覆われた脚が落ち着かない動きを見せる。
それにエドワードは口角を上げて、言葉を続けた。


「気をつけろよ。お前が相手を好きな分には構わないが、相手が本気になったら終わりだぞ。」
「……本気、とは?」
「覚えがないわけじゃないだろ。ピアノの教師も家庭教師も、みんなお前が自分に好意を寄せていると気づいた瞬間に行動に出た。」



中流階級出身の教師達にとって、伯爵家の令嬢を嫁に貰えそうなチャンスとあらば交渉しない余地はない。
加えて生前のファントムハイヴ伯爵が娘に甘かったこともあり、彼女さえ少し両親に口を効いてくれれば─、と甘い夢を見た青年が何人もいた。
結局は、彼女の父親がそんなことを許すはずもなく綺麗に全員暇を出されたわけだが。
 


「階級違いの恋は成立しない。相手を本気にさせるなよ。」
「………セバスチャンは、今までの方とは違いますから……」
「違う?」
「彼に限って本気だなんて。絶対にあり得ません。時計塔の鐘が落ちたって、そんなことは起こりませんよ。」




悪魔に愛情という思念はない。
人間をバッタと同等にしか評価していない男だ。
彼女を本気で愛することなど、決してない。
面白がってからかったり、時に思わせ振りな態度をとってみせたりするものの、全ては彼の暇潰しだ。
せいぜい名前は、贔屓目に見ても彼の「新しい玩具」だろう。
セバスチャンと何かしらの関係─、恋人だの夫婦だの、そんな関係を築きたいわけではない。
しかし、それだけに自分が彼に向ける好意が無為なものと、報われぬものと再評価するのは、いささか心苦しかった。





「ねえ、そんなことより貴方はどうなのです?誰かいい人はいないのですか?」




無意味で無報の想いを飲み込んで、彼女はからりとエドワードに話の矛先を向けた。
すると予想通りに彼は慌てふためき、耳をみるみるうちに赤く染めてゆく。
せっかく家柄も顔も性格もいいのに、婚約者の一人もいないなんて勿体ないですよ、と続けてやった。



「おっ、俺の話はいいだろ!」
「私は聞きたいですよ。昔から貴方のそういう話を聞いたことがありませんから。」
「俺にはリジーを守る使命があるから恋愛なんぞ─ってあーー!!!シエル貴様!!何をリジーの手を握ってるんだ!!手を離せ!!!覚悟しろおおおおおお!!!!!」




ぐわっと開いたグリーンの瞳の奥では、水晶体が割れんばかりにぐらぐらと揺れている。
突如としてガバッと立ち上がったエドワードは、わなわなと拳を震わせたかと思うと、すぐさま湖の方へ突進していってしまった。
こちらからでは遠くてシエルの表情までは判断できないが、両手を振っているあたり、きっとリジーの手を握ったのは何かアクシデントあってのことだろう。
最も、そんなことは妹を溺愛するエドワードには関係のないことではあるが。




湖のへりで未だぎゃあぎゃあと大騒ぎをしている彼に苦笑して、彼女はまた小説へ視線を戻した。
あんなに妹を愛することのできるエドワードだ、きっと彼のお嫁さんになる人は、十分な愛情を注いでもらえることだろう。
それをどこか羨ましい気持ちになりながら紙面上のアルファベットの羅列を追っていると、ふいに影が彼女の頭上を覆った。
白いサテンフリルのパラソルである。
その金の持ち手から白い手袋を確認して視線を上へ移すと、普段通りに完璧な笑顔を見せたセバスチャンが日除け傘を彼女に差して立っていた。




「セバスチャン…」
「こんなところで読書をなさると、日に焼けますよ」



日傘を差したまま、器用にもう一方の手で彼女に紅茶を差し出す。
それに軽く礼を言って口をつけた頃には、エドワードはシエルとリジーをひっぱってこちらへ戻ってきつつあった。
セバスチャンは、そうして従兄に首根っこを捕まれてこちらへ引きずられてくる主を面白そうに眺めている。
助けに入らないあたりはやっぱり悪魔ですね。
そんなことを心の中で呟いて彼女は紅茶を飲み干した。




「そういえば……先程はエドワード様と楽しそうにしていらっしゃいましたが、何のお話を?」
「………秘密、です。」





彼に言ってもどうしようもないことだ。
私はシエルやリジーやエドワードとは違う。
相手が彼である以上、絶対に進展は望めない。
それならばいっそ、こんな思いは薔薇の下にでも埋めて隠して、そのまま幕引きを。



(薔薇の足下/Sebastian Michaels)

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